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不比等は怒涛のように日本に流れ込んでくる中国思想の中で、日本にも儒教・仏教など中国理解に強い聖天子が実在、今日の繁栄をもたらしたと内外に誇示しようとした。それが「日本書紀」の編纂。政界のトップ・不比等にはもう一つの悲願があった。早世した
前天皇<文武>の遺児<首>の即位を実現すべく<皇太子>制の<尊厳>を徹底すること。
そのため<強力>な<皇太子>の実例として選ばれたのが「大化の改新」を断行、部族連合の日本を<中央集権>国家に統合した<中大兄>だった。当時、<皇太子>制は存在せず、単に有力な皇子の一人に過ぎなかったのに、これを<皇太子>に仕立てた。
都合が良いことに<中大兄>の時代も<女帝>の<斎明>が即位していた。厩戸王の時代も<推古>女帝だった。そこで<聖徳太子>を<捏造>、聖天子として思い切り美化した。
不比等が皇太子に仕立てた<首(おびと)>も不比等が擁立した女帝の<元明>の時代。<元正>擁立では長屋王のクーデターで一敗地にまみれたが、やはり女帝。正当化に絶好。
不比等は中国的な理想の<聖天子>たる<聖徳太子>像を<創造>するため発見したのが、養老2年(718年)に唐から帰国した<道慈>だった。彼は「釈門の秀」と称された逸材。「宋史」日本伝に「粟田真人を遣わし、唐に入り書籍を求めしめ、律師道慈に経を求めしむ」と記録された僧侶。日本で最初の本格的な学識をもった僧侶だった。
だが道慈は世俗権力にも敏感だった。「唐に在りて本国の皇太子に奉る」詩を作ったと「懐風藻」に記録がある。皇太子<首>に強い関心があったのだ。彼は政界トップの不比等に接近、文才を見込まれ「日本書記」の執筆者に選ばれる。
だが道慈はすぐ不比等の衰えに気づく。元正<女帝>即位で<首>皇子の即位も危うい。
一方、長屋王は自分の正妻の姉を<元正>女帝に擁立、今をときめく権力者だった。佐保の別邸に文人を集め、「懐風藻」にも描かれた<長屋王詩苑>を開催、神仙を夢見、道教に
凝っていた。実は道慈、中国で師事した高僧<道宣>の影響を受け、道教好きで<大の儒家嫌い>だった。最初は不比等の意向で動いたが、次第に長屋王と親交を深める。
かくて不比等が夢見た聖徳太子の<儒教>精神は次第に<道教>の影響で歪んで行く。「『日本書紀』完成後2ヶ月あまりで生涯を閉じる不比等が、推古紀に記された聖徳太子像を見て暗然とした姿が目に浮かぶ」(167頁)と大山教授は結ぶ。
養老4年(720年)、一代の<英傑>不比等も失意のうちに世を去った。63歳。代わって政界のトップに立ったのはもちろん長屋王だった。
翌721年1月、長屋王は従2位右大臣に昇進、本格的な長屋王政権がスタートする。しかし、神仙思想や道教に毒された長屋王の政治は人心を得られなかったと大山教授はいう。長屋王がよりどころとした<天人相関>とは「至上神たる天が、地上の人間と感じあい、反応して、災異や瑞兆を示すという思想で、特に為政者の政治の良し悪しに、天が判断を示したと考える。為政者は自然現象に一喜一憂し、確たる信念を持った政治ができなくなる」―――。<法と制度>で人々を導こうという不比等の政治とは根本的に異なる。
「権力に執着し、それを法と権力と時に謀略を駆使して実現しようとした不比等とは異なり、生まれながらにして文武・聖武を上回る高貴性を有して、いつの間にか権力中枢に身を置くことになった長屋王は、本来政治権力そのものであるはずの法と制度の重要性に対する認識を欠いていた」と丸山誠一教授「聖徳太子の誕生」(166頁・吉川弘文館)。
それがやがて権力の絶頂にあった長屋王の運命を狂わせる。長屋王の権力は自分の努力で勝ち得たものではなかった。<法と制度>への致命的な無理解は和銅8年(715年)9月、文武から首(おびと)への中継ぎで即位したはずの元明に代えて、義姉(正妻の姉)の氷高内親王を擁立したことだった。
既に15歳に達していた皇太子<首>を「神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯幼稚にして未だ深宮を離れず」と不比等の悲願を一蹴したのだ。
<皇太子>制がまだ<定着>していなかったからだが、「飛鳥浄御原令」で<皇太子>制を定めていた不比等ら藤原一族の<恨み>を買う原因となった。皇太子の何たるかを認識していなかった。
不比等は養老3年(719年)10月17日の<詔>で「日本の法令は成文法がなく、天智天皇の時代にようやく整い、文武朝の「大宝令」で完成した。皇位継承の基本は<皇太子>であると強調した」。
面白いことに<聖徳太子>が作ったはずの「憲法17条」の存在を「成文法は天智以前になかった」と自分で否定した。「憲法17条」は「日本書紀」(720年成立)で紹介される。肝心の「日本書紀」はまだ完成していなかったのだ。
不比等は「日本書紀」で<皇太子制>の存在と聖天子のモデルたる<聖徳太子>像を構築、<皇太子>であったと強調した。すべては<孫>…娘<宮子>が生んだ<首>の皇太子擁立への布石だった。
長屋王は意味を理解していなかった。自分の<運命>を変えるという認識も欠いていた。「長屋王が、ついに<法と制度>の重みに屈する日」(167頁)が近づいた。長屋王は真剣に考えていなかった。
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