火山の独り言

時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり

聖徳太子は実在しない

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長屋王は消えたが、子孫は残った。彼の妻には不比等の娘もいた。彼女は保護され、彼女が生んだ安宿王、黄文王らは長屋王の分身として、人々の期待を担っていた。彼らを通じて長屋王はいつまでも生き続ける。武智麻呂と光明皇后は長屋王の影に脅えていた。
<長屋王の変>の衝撃は長く人々の心から消えなかった。武智麻呂と光明皇后は<法>による統制と<儒教><仏教>の重視で<長屋王の変>後の難しい政局を乗り切ろうとした。

<聖徳太子>伝記は「日本書紀」と「法隆寺系史料」の2種類がある。不思議なことに聖徳太子の<薨日>も<2つ>ある。「日本書紀」は推古29年(621年)2月5日、「法隆寺系」では推古30年(622年)2月22日。この違いは重要と大山誠一教授は「聖徳太子の誕生」(吉川弘文館)で指摘する。

「聖徳太子が伝えられるとおりの偉大な聖人であったとすれば、その死は国家的な事件であったはず。それなのに国家が編纂した歴史書と氏寺の伝える説が異なっているなどということがあってよいのだろうか。少なくとも法隆寺にそのような伝承が古くからあったとした場合『日本書紀』の編纂者は、それを無視したことになる。そんなことがあり得るだろうか」(41頁)。

大山教授は「日本書紀」が完成した時、法隆寺系の史料は存在していなかった。つまり後世、誰かが何かの狙いで捏造した。もっと言えば「日本書紀」の<聖徳太子>像を否定、新しい<聖徳太子>像を<創造>したと考えている。
<長屋王>の影<道教>の影響を消したい人間がいたというのだ。不比等は「日本書紀」の<聖徳太子>を読んで<暗然>とした。老齢、死の数ヶ月前では書き換えさせる体力も政治力も残っていなかった。大山教授は、そう考えた。そして<2月5日>に亡くなった偉人がいないか探した。いた!!!

「日本書紀」の聖徳太子を執筆したと思われる<道慈>の周辺を洗った。道慈が傾倒した人物は<道宣>…。道宣の著書を物色して「続高僧伝」の中に強い<弥勒>信仰を持ち、2月5日に亡くなった人物を発見した。「西遊記」の三蔵法師だ。聖徳太子も<弥勒>信仰が強いとされる。<薨日>が一致するのは偶然ではない。<聖徳太子>像を描いた<道慈>なら当然、その日を選ぶ。三蔵法師は仏教界の最高の聖人だ。「日本書紀」の謎は解明された。

では「法隆寺系史料」に記録された<2月22日>は何か。<光明>皇后と<行信>という僧侶が天平8年(736年)2月22日に<法華経講読>の<法会>を実施していた。法隆寺の「東院縁起」に記録があり、また「法隆寺資財帳」には光明皇后が多大な財物を法隆寺に納入したとある。<道慈>ら300人の僧尼による<一大イベント>が2月22日。

「続日本紀」には天平7年は「凶作に加え疫病が流行、死者が多く出た」と記録されている。武智麻呂と光明皇后の政権は重大な危機を迎えていた。人々は<長屋王の亡霊>の<祟り>と恐れた。
苦境に陥った武智麻呂と光明皇后は<聖徳太子>を頼った。「儒教を重んじる藤原氏といえども、神仏の加護を祈りたくなったことは当然で、それも尋常な神仏では効き目がないという心境だった。その時、彼らが加護を頼んだのが『聖徳尊霊』だった」(180頁)。

『聖徳尊霊』は聖徳太子の霊。「日本書紀」以外で初めて使われたと大山教授。聖徳太子は「日本書紀」で実在の人物として描かれているが、武智麻呂と光明皇后も不比等の<子>。「聖徳太子を創造した偉大な父親の姿の向こうに<太子像>に見ていた」と大山教授は考える。火山も同感。
「聖徳太子の最大の功績とされる憲法17条は、彼らの父不比等が、王権の確立のためにつくったもの」(181頁)だ。今、王権を握っているのは光明皇后と武智麻呂。<凶作と疫病>の翌年、天平8年(736年)2月22日に<法華経講読>の法会が盛大に挙行された。

法隆寺でも聖徳太子の<薨日>は天平8年の時点では<2月5日>だったと大山教授は考える。偉大な父不比等の<説>を踏みにじるはずがない。ではなぜ2月5日を選ばなかったのか。藤原一族にとって2月は特別な意味があった。7年前、謀略で長屋王を葬った日が2月12日。忌まわしい思い出を人々が想起する時期ではまずい。その日が過ぎ、記憶が薄れる日、そして聖徳の<薨日>の2月。考えて<2月12日>の<10日>後を選んだという。

<翌>天平9年(737年)になると事態はさらに悪化した。房前から始まり、麻呂、武智麻呂、宇合(うまかい)と不比等が残した男子4兄弟がことごとく<疫病>で亡くなった。これを受け9月28日、鈴鹿王が知太政官事、橘諸兄が大納言となって新政権が発足する。鈴鹿王は長屋王の弟、諸兄は光明皇后の異父兄だが長屋王に近い存在だった。
さらに10月20日、聖武天皇が南苑にわざわざ出向き、長屋王の遺児、安宿王、黄文王、円方女王、紀女王、忍海部女王らに叙位を行ったという。疫病の流行を長屋王の<祟り>と恐れたのだ。怨霊を鎮めようとしたと大山教授。

「長屋王の変の後、疫病の流行という未曾有の混乱に続く藤原4卿の死という危機を乗り越え、藤原氏の権力を後世に伝えたのは光明皇后だ。4卿を失った後、彼女ほど孤独な権力者はかつてあったろうか」と大山教授。法隆寺系史料<天寿国繍帳>や<釈迦像>などの銘文を残したのは光明皇后と教授は判断する。手伝ったのが<行信>という僧侶。あるはずのない聖徳太子の遺品も全部<行信>が集めた。そして新しい法隆寺史料がそろった時、2月22日は聖徳太子の<薨日>となった。聖霊会。―――(完)

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