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あしひきの 山の雫(しずく)に 妹(いも)待つと 吾立ち濡れぬ 山の雫に(大津皇子)
大津皇子は吉野から近江へ軍団を進める父・大海人皇子と鈴鹿で合流した。「しばらく見ぬうちにいたく立派になった」。大海人皇子が手放しで喜び、生き生きして見えたのに反し、讃良皇女の表情はこわばった。我が子草壁がひよわで貧弱に思えてならないのと対照的に、大津皇子はのびのびと、いかにも若ものらしく成長していたからである。
近江朝の大友皇子が叔父の大海人皇子と戦いを交わす日が近づいてきた。人々は痛ましい血族の争いに心を痛めたが、事態は悪くなるばかり。亡くなった天智天皇の御陵を造営するという名目で集められた人員は兵の集団だった。
壬申の乱、戦いは吉野軍の勝利となった。大友皇子は山崎であえなく自経した。不幸にも大友皇子の妃・十市皇女は勝った大海人皇子(後の天武)の娘。母は額田姫王。母娘とも絶世の美女だったという。額田姫王は大友の父・天智の愛も受けた女人だった。
壬申の乱に勝利をおさめた大海人皇子は、政治を一新するため都を近江から飛鳥の浄御原に移して即位した。天武天皇だ。天智天皇の改革は新鮮だが、民には過酷、生活の負担は重くなっていた。民は慈悲深い天武の即位を喜んだという。
天武は678年(天武7年)5月5日の暁に飛鳥をたち吉野の宮滝に向かった。ようやく政治の安定を見た天武がみそぎと祭りの宴を行うためだった。徒歩の一団は兵護。騎馬隊に続き中央には天皇、皇后、后妃らの美しい駕籠。そして群臣が進む。羅(うすはた)の領布(ひれ)を川風にそよがせて従う女官たちの色彩は春の花園のように美しかった。
この一団に17歳になった大津皇子も加わっていた。一度は人生を捨て、吉野へ走った父、再び命を賭けて近江へ軍を進めた父。変転極まりない人生の拠点が吉野にあった。父の感慨にも思いを馳せる大津皇子であった。
吉野川の川音が岩に砕けて涼やかに響く。皇子は葦毛のたづなを引き締めた。女官の一団の中に、ひときわ美しい大名児(おおなご)がいると思うと大津皇子の胸は高鳴った。美しい葦毛のたてがみが5月の太陽に光っていた。新羅の使者が奉った螺鈿(らでん)の金具が馬の動きに合わせ、誇らしげに輝いた。大津の体躯には青春の華やぎがあった。
そんな大津皇子の勇姿を、大名児は後方の女官の一団の中から見やり、皇子の逞しい腕に抱かれた日を思い出していた。大津の近くには舎人(とねり)の蠣杵道作(ときのみちつくり)がいた。幼くして母を失った皇子を<わが玉>として守り、育ててきた。
「皇子さま、あまり飛び出しますな。皇子さまがあまり颯爽とされますと皇后さまが顔を曇らせます」。舎人は皇子をいましめた。
群を抜いて駆け出す大津皇子の行動は、そのまま皇位継承への力の誇示になるのであった。尊敬し愛するがゆえ、に皇子のために案じたのだ。
本来なら大津の母であった太田皇女が皇后に据わるべきだったのに、早世したため妹の讃
良皇女が皇后となった。天武天皇には10人の妃、10人の皇子、7人の皇女があったが、美貌で聡明な讃良皇女の存在が多くの妃の影を薄くしていた。そんな中で讃良皇女は我が子草壁を、どの皇子より押し出そうとしていた。
道作は天智天皇の気質を受け継いだ讃良皇女の性格を鋭く見抜いていた。「皇子さまは目立たぬようにお振る舞いになりませんと、やがて取り返しのつかぬ運命が巡ってくるかも知れませぬ」―――口にこそ出せないが、道作は恐れていた。
「あの大名児の愛を勝ち取っただけでも、草壁皇子をかばう讃良皇后には不快なことであるはずだ」。―――「お急ぎになられてはなりませぬ」。舎人は再び囁いた。草壁もまた大名児に思慕の念を抱いているとのウワサがあった。
大津皇子は大名児に贈った歌を思い出していた。大名児は河内の郡司の娘だったが、一年前から<采女>(うねめ)として後宮に召し出された。采女はもともと地方豪族の、美貌で才知ある娘が選ばれるが、その采女の中でも大名児の輝くばかりの美貌は際立っていた。
「あの美しい采女は、神事に奉仕するときの高ぶりで、わが愛をうけとってくれたにちがいない。今夜、大名児に逢うことができるであろうか、という想像をふくらませると、いそいではならぬとうしろからよびかけた蠣杵道作の言葉も、大津皇子は素直にきくことができるのだった」(22頁)と、生方たつゑは「大津皇子」(角川選書)に書く。
だが大名児との恋は大津の運命を大きく狂わせることになる。命を賭けた恋。大津はまだそのことを知らない。
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“恋”は、いつでも美しい。そして美しくあってほしい。火山、生涯の夢です。
2012/3/16(金) 午後 9:15 [ kom*_19*7 ]