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中国の「『隋書』<倭人伝>に記録された日本の国情」(前回)を読むと、聖徳太子が生きていたとされる時代、日本の為政者は<中国>政治には<無知>だった。だから中国思想を多用している「憲法17条」を作ることは不可能。むしろ「聖徳太子が<捏造>された<架空>の人物である」と<検証>しかねないと指摘した。
大山誠一教授は「聖徳太子の誕生」(吉川弘文館)で「憲法17条」に使われた<言葉>や<内容>が聖徳太子(574年〜622年)の本名とされる<厩戸王>の生きた時代の日本の<実情>と<一致しない>と書いている。
たとえば第12条に「国司・国造、百姓…」とあるが、<国司>は<国>を単位に行政を行う官人。「大化の改新」以前には存在せず<矛盾>するという。
同じように「憲法17条」全体に<君・臣・民>と「3階級」による<中央集権>体制の精神を説いているが、「大化の改新」以前は<豪族連合>の時代。<君>と呼べるような<中央集権>は存在していなかったとも指摘している。正しい。
大化の改新(645年)で蘇我入鹿を滅ぼした中大兄と鎌足は<隋・唐>を真似た<中央集権>国家の建設に邁進する。朝鮮半島では唐の高句麗攻めを繰り返していた。その中でも日本の政権は<遣唐使>の派遣を続け、中国文化の吸収に努めた。600年当時、隋の高祖から嘲笑された<遅れ>を克服しようとした。後の「大宝律令」の手本となる永徽律令も入手する。新しい中国仏教も入ってきた。
唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼすと、中大兄と鎌足は百済復興のため出兵、663年の<白村江の戦い>で唐・新羅に大敗。唐とは以後30年間も断絶状態となり、東アジアで孤立。
668年、正式に即位した中大兄(天智)は改革を進め、近江令を制定、全国的戸籍(庚午年籍)を作成、<徴税>など<律令国家><中央集権>の基礎を固める。
だが改革が充分実を結ばないうちに、669年に鎌足、671年に天智天皇が亡くなる。672年が王位継承の争いである<壬申の乱>。天智の弟・大海人皇子(天武)が天智の遺児・大友を倒して、絶大な権力を手に入れる。だが国際的に孤立していたため、改革(中央集権)に必要な知識と情報の不足に悩まされていた。
それでも当時の為政者たちは強いナショナリズムに燃え、<白村江の戦い>以前に入手した知識で中央集権国家の建設を急ぐ。持統女帝の689年には飛鳥浄御原令が編纂、694年には初の都城制に基づく藤原京も完成、701年には持統の孫の文武の時代に、ようやく権力を獲得した鎌足の子の不比等が<大宝令>を完成させる。
<古代最大の政治家>と謳われる不比等。<大宝令>の制定で天皇を<象徴化>、政治の実権は有力貴族の<合議体>である<太政官>が握る。天皇は軍事力も経済的基盤も失い、無力にされた。不比等が構想した国家は天皇を宗教的世界に祭り上げ、その信任を得て自分が縦横に権力を振るうというものだった。
日本の古代国家が大宝律令によって一応の完成をみたのは事実。ちょうどその頃、占領地の支配で対立していた唐と新羅も和解、日本と新羅との関係も友好的となった。かくて久しぶりに遣唐使も復活した。
702年(大宝2年)に出発した粟田真人、山上憶良、道慈らが持ち帰った情報は衝撃的なものだった。当時の中国は唐の最盛期、長安の都の華やかさは想像を絶していた。壮大な藤原京も長安とはまるで異なり、大宝令で完成したと思われた国家制度にも問題があった。
日本の貴族たちは数十年ぶりに国際的孤立を脱し、最盛期の唐の文学・思想・芸術に接した。帰国した遣唐使がもたらした最新情報はたとえようもなく刺激的だった。
時あたかも国内の政局は流動的な時代を迎え始めていた。707年、藤原不比等が擁する文武天皇がわずか25歳でなくなったのだ。この時、不比等の前に強力な政敵が立ちはだかった。天武天皇の長男・高市皇子の子・長屋王だ。
不比等は「大宝令」によって成立した律令国家を歴史的に正当化するために「古事記」の編纂を急いでいた。だが帰国した遣唐使の最新情報で「古事記」は不適切なことが分かる。
かくて712年、「古事記」編纂は突如、中断。「日本書記」作成が始まる。
この「日本書記」(720年)こそ<聖徳太子>伝説を生み出したもの。「憲法17条」は「君・臣・民」の階級関係を規定、<中央集権>の精神を徹底するものだった。
聖徳太子の説く「和を以て尊しとなす」。それは日本人固有の精神というより、中国の思想、仏教の精神を借りて<中央集権>を確立するためのもの。それも<不比等>を中心とした藤原一族の<専制>を正当化する<理念>だった。詳しくは別途<論証>します。
この「聖徳太子は実在しない」は全20編の連載。同名の書庫にあります。
※法隆寺の「金堂薬師如来坐像と同光背銘文」!ここに<3度>も<天皇>の文字が見えるが、聖徳太子の<実在>を証明するとされたこの<銘文>!<天皇>という文字のお蔭で逆に天武・持統朝以降の<捏造>の証拠となった。<天皇>の称号が中国の唐で発案されたのが唐・高宗(674年)の時代だからだ。
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天皇の呼称が大陸の道教由来であることは聞き及んでいる。「天王」もやはりテンノウと読む。つまり唐に先んじて「皇帝」に対抗した僭称があっても不思議は無い。
それから、聖徳太子については遠く西洋のJesusの再来とする説もある。仏教だけでなく、日本にも古代キリスト教が伝来していた可能性は高い。シルクロードの東の果ては遣隋使に限らない。仏教にも不可解な点は多い、現時点で大乗仏教が保護されているのは日本だけ。唐でも広まった筈だが、滅亡と共に廃れている。
嘘だからと頭ごなしに消し去るのはバカでも可能。嘘の種と目的、成長した経緯なども追跡せねば真実は見えてこない。
2009/7/27(月) 午後 10:43 [ IB ]
「聖徳太子は実在」としたい動機、目的など明白。火山が既に論じています。ただ議論を広げ、論点を曖昧にするだけではダメ。キチンと根本から勉強、出直してください。
こんな論理で誤魔化せる。そう思う、心根!悲しいですね。大言壮語も、ホドホドに!
2009/7/27(月) 午後 11:19 [ kom*_19*7 ]
どうながやろう?疑問符。ペッタンコ。
2011/3/21(月) 午後 0:56 [ 土佐文旦 ]
<疑問符>に<疑問符>を、ペッタンコ!
火山が書いていることは、最近の学界多数派が検証していること。火山個人の思い込みや推量ではありません。専門書をキチンと読み、学識を確認、コメントしてください。
2011/3/21(月) 午後 3:05 [ kom*_19*7 ]
聖徳太子の時代に日本の文字はなく、「日本」すら存在しない。聖徳太子(厩戸皇子)については伝説こそ多いが、意外なことに功績などを示す証拠が無いのも事実。同時に、それらの伝説を全否定する根拠も無い(悪魔の証明)
付け加えれば、支配者の常識として前時代の偉業をもみ消すことは多かった。当時の大陸とて、髄から唐への王朝交代で混乱の最中であり、海を越えた先の事情に構っていられなかった
そもそも聖徳太子と「大化の改新」以後は全く関係なかろう?
2011/3/21(月) 午後 10:32 [ IB ]
<IB>さん、ようこそ。
ただし、歴史学の現実を見詰めてください。聖徳太子は天武朝が成立する「壬申の乱」以降の<720年>に完成した「日本書紀」に、初めて登場します。
2011/3/21(月) 午後 10:49 [ kom*_19*7 ]
歴史学でなく、現実を見詰めてください。
2011/3/22(火) 午前 10:19 [ IB ]
<歴史>の真実(現実)・流れを知らずして<現実>を語る勿れ!
ゴメンナサイ!相当ピンボケと、指摘せざるをありません。
2011/3/22(火) 午後 2:28 [ kom*_19*7 ]