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「季語は想像力の賜物」と長谷川櫂。「季語」の特色とは何か。季語ではない「普通の言葉」、例えば「木」や「石」などと、どこが違うのだろうか。
蕣は 下手のかくさへ 哀也(芭蕉)
「この句の季語は蕣(朝顔)。朝顔は実際には立秋(8月8日頃)より前、夏のうちからさかんに咲く。しかし、朝顔は秋の季語である。これは朝顔を秋とする文学上の約束に基づいている。朝顔と同じように、すべての季語の季節は必ずしも実際の季節と同じではない」
(長谷川櫂「決定版・一億人の俳句入門」講談社現代新書・115頁)。
へえ、驚いた。季語が必ずしも実際の季節と一致しない。そんなこと想像したこともない。やはり火山は「俳人」ではない。「廃人」だ――。
季語というピラミッドの頂点に位置する「雪月花」――。雪だけは冬。実際の季節と一致する。だが「花」と「月」はそうではない、と長谷川櫂。ナルホド、そう言われれば…。花は春夏秋冬、どの季節でも咲く。だが「花といえば春の桜をさす。それが日本語の長い歴史のなかで、培われてきた約束だからだ」(長谷川・115頁)――。面白い。
季語には「日本語の歴史」が宿っている。「言霊」…。「月も一年中、満ち欠けしながら空にかかっているのに、月といえば秋の月、特に旧暦8月(太陽暦9月頃)の月をさす。これも同じ事情による」(116頁)。「季語の最大の特色は、それが想像力の賜物であること」(115頁)――。ナルホド、万葉の時代を含め、花も月も多くの日本人が、和歌に俳句に、詠んできた。その語感、季節感が脈々と流れている。教養も想像力をかきたてる…。
「近代になって、季語と季節のずれがいっそう際立つようになった。一つは明治6年(1873年)、太陽太陰暦(旧暦)に替えて太陽暦を採用したこと。この明治改暦によって、1月、2月という月がみなひと月早まってしまい、月の行事がことごとく季節からずれてしまった。正月、雛祭り、端午の節句、七夕、お盆、重陽の節句、みなそうである」(116頁)…。
ナルホド、そういわれてみると、まったく違う季節感、語感が蘇ってくる。そう、火山の体の中にも、遠い先祖の血が眠っている。面白い――。
科学技術の進歩によって、昔は特定の季節にしか口にできなかった野菜や果物などの農産物が一年中出回るようになったことも影響しているという。生活は便利、豊かになったが、日本人は季節感を失ってしまったのかも…。
「苺はもともと初夏の果物だが、今はクリスマスの頃からさかんに出荷される。チューリップも春の花だが、雪の中でも売られている。胡瓜や茄子やキャベツがはたしてどの季節の野菜だったか、きちんと答えられるだろうか」(116頁)。
こんな時代の変化に合わせ「季語は季節に合わせるべきだ」との意見が起こり、現実の季節に合わせた「歳時記」も作られるようになったという。例えば朝顔は古来「秋」と定められてきたが、「夏」に移す――。「しかし、これは愚かなこと。季語ははじめから想像力の賜物であり、現実とは別のもの」(116頁)と長谷川櫂。このやり方を追求すると、「龍天に登る」(春)、「蚯蚓(みみず)鳴く」(秋)のような現実にはない想像上の季語は、すべて抹殺しなければならなくなる。ウーン、長谷川櫂はやはり、面白い。
(平成23年10月6日)
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