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「季語の本意」――。「朝顔」は秋の季語。「朝顔は初秋の朝、露をいっぱい浴びて開く」。これが「季語の本意」。実際の朝顔が夏のうちから咲こうが咲くまいが、一向に構わない。
春雨や 暮れなんとして けふも有(あり)(蕪村)
芭蕉の門弟。土芳の「三冊子」(さんぞうし)によれば「春雨はをやみなくいつまでもふりつづく様にする」とある。これが春雨の本意。だがもちろん、実際の春雨は必ずしも「小止みなく、いつまでも降り続く」とは限らず、「さっと上がることもあれば、土砂降りにも、嵐にもなる」(長谷川櫂「決定版・一億人の俳句入門」講談社・119頁)――。
「季語」は本意として、現実への「規範」として働く。同様にして「歌枕」も「規範」となる。「伊勢物語」の「東下り」で歌枕となる「隅田川」――。そこに泳ぐ白い鳥は、決して「鷗」ではなく、「都鳥」となる。「その昔、在原業平がここで例に歌を詠んだからである」(123頁)――。これも笑える。
名にし負はば いざ事とはむ 宮こ鳥 わが思ふひとは ありやなしやと(在原業平)
「季語」も「歌枕」も「想像力の世界」。現実とは無縁。「私は吉野も、武蔵野も、松島も、行ったことがある。あなたの歌とは違う」などと言ったら野暮。「興ざめ」という。ウーン。
松島や 小島が磯に 寄る波の 月の氷に 千鳥鳴くなり(藤原俊成女)
紫の ひともとゆへに むさし野の 草はみながら あはれとぞみる(詠み人しらず)
「歌枕」は「松島」や「武蔵野」のように古くから和歌に詠まれてきた名所や旧跡、土地の名。「昔の歌人たちは日本各地の地名を想像力で膨らませて歌枕を作り上げた」(120頁)。
「歌枕」ができるには核になる土地の名前と、旅人によって時折もたらされる噂、そして何より、歌人たちのたくましい「想像力」とがあれば良かったと長谷川櫂。ナルホド…。
あさよさを 誰まつしまぞ 片ごゝろ(芭蕉)
「芭蕉はこのような歌枕を詠む句には季語は不要と考えた。季語も歌枕も想像力の結晶だからだ。弟子の土芳の伝えるところによると、芭蕉はある時、こう語った――。「名所のみ雑(ぞう)の句にもありたし。季を取り合はせ、歌枕に用ゆる。十七文字にはいささか志述べかたし。(「三冊子」)――。名所(歌枕)の句には雑、すなわち無季の句があってよいというのだ。季語と歌枕の二つを一句に入れると、窮屈でいいたいこともいえないからである」(124頁)。
この句は「おくのほそ道」に旅立つ直前の句。なぜ松島が、こんなにも恋しいのか。誰かが、彼の地で私を待っているからだろうか――。確かに、この句には季語がない。「ここから分かるのは、俳句には安易に地名を入れてはならないということ。地名は季語とぶつかり合って一句をこわしてしまうことがあるからである」(124頁)。
(平成23年10月9日)
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