火山の独り言

時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり

全体表示

[ リスト ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

「知識には暗黙知と形式知がある。一橋大学の野中郁次郎名誉教授が日本企業の目覚ましい知識創造の要因として提出し世界的に評価された。純国産の誇るべき概念だ。暗黙知は、モノ、コトについて自分だけの知識―いわゆる洞察、直感、カンで主観的。だから口でハッキリ言えず、文字や式に書けず、他人に正確に伝えられない。一方の形式知は、数式や文章で論理的・客観的に曖昧さなく人に伝えられ、万人が共有できる」とコラムは始まる。

「たとえば“死”が暗黙知のうちは“死んだ人”の臓器摘出の社会的合意は難しい。しかし医学と科学技術が力を合わせて“死”を心電図や脳波という形式知にしたから法律が作られ、皆が納得して臓器移植ができることになった」とコラムは続く。

「暗黙知と形式知」…。火山もまた「管理職研修」で学習した。研修課長時代に、前任者から託された「通信教育」の開始。前任は外部団体と導入を約束しただけ。全社にPR、実際に勧誘・募集、指導の実務を担ったのは火山。その「管理職」向け<マネジメント>コース第一巻に、野中郁次郎の「暗黙知と形式知」が掲載されていた。だが当時60年代の研究レベルは、今とはダンチ。約半世紀の研究・研鑽を積み重ねた今、コラムで読んでみると、実に明快。学問も面白い。「形式知」もまた洗練・進化することが実感できる。

「人類は太古から、森羅万象の暗黙知を感じ取り形式知に変えてきた。自然のモノ・コトを一義的に翻訳し、共有財産にした。社会のあらゆる場で今も続く『暗黙知→形式知』翻訳は、世界の共通理解と発展の原動力である。個人に生まれた暗黙知は家庭、学校、職場での会話や議論を通じて、互いに解り合える言葉、共通語になる。増え続ける形式知は筋道立てて教科書や解説書にまとめられる。それを学んだ人達の脳裏にまたボンヤリと暗黙知が生まれ…サイクルを繰り返し、人類の智はラセン階段を登るように高まってゆく」…。

「独創とは、多様な知識の余人には考えおよばない結合だ」――。「人類の智はラセン階段を登る」…。そうだ。「暗黙知と形式知」の結合も、洗練・進化した。「日経」コラム<あすへの話題>(4月12日)の筆者は東大名誉教授。「生命現象の諸過程における“物理”の側面を切り出し、生命の分子過程の物理的意味(役割)の発見・解明を目的として、生物物理学の研究を推進した」とフリー百科事典「ウィキペディア」にある。

なかなかの<才人>と思い、ご先祖を調べたら、ビックリ仰天。「木戸孝允、山尾庸三の曾孫、木戸幸一の甥、都留重人の義弟。西園寺公望は母方の大伯父」という。木戸孝允とは、あの<桂小五郎>!「鞍馬天狗」にも登場するが、明治の元勲の一人…。
山尾庸三も凄い。「文久3年(1863)5月12日、幕末の攘夷熱が高まるなか、5人の若者が密かに横浜港からイギリスに向けて出航しました。5人を派遣したのは、そのころ外国船にさかんに砲撃を加えていた長州藩でした」と「ウィキペディア」にあるが…。

この5人とは<山尾庸三><井上聞多><遠藤勤助><伊藤博文><野村弥吉>…。後に<長州ファイブ>(5傑)と呼ばれる人材…。<山尾庸三>は渡航当時「26歳(1837年生れ)。グラスゴーで造船を学び、明治4年に工学寮(のちの東京大学工学部)を創立。聾盲唖教育の父でもある」という。――「尊王攘夷の拠点ともいうべき長州藩が、幕府の禁制を犯して若い藩士を外国に送り出した。明日の日本のために、長州藩は外国の情報を得ようとしていた」のだ…。凄い。ではこの「長州ファイブ」の残り<4人>は――。

<井上聞多(馨)>は、5人の中では最年長の28歳(1835年生れ)。初代外務大臣。欧化政策を推進、不平等条約改正に尽力する。<遠藤勤助>は27歳(1836年生れ)。造幣事業に一生を捧げ、「お雇い外国人」から独立、日本人の手による貨幣造りに成功。<伊藤博文>22歳(1841年生れ)。初代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法を発布。4度首相を務める。<野村弥吉>(井上勝)20歳(1843年生れ)。鉄道の父。新橋−横浜間に日本初の鉄道を敷き、以後、全国の鉄道敷設工事を指揮した。小岩井農場の創設者――。

明治政府の重鎮として、政治畑を歩んだ伊藤と井上(馨)。最先端の工業技術を学んで日本に持ち帰った遠藤、山尾、野村。彼ら5人の新しい知識や技術への強い学習欲、異文化を受け入れる柔軟な思考は、近代国家建設に大いに役立った。
でも日本へ無事に帰れるかどうかわからない。無事に帰れたとしても、自分の身がどうなるかも覚束ない、すべてが流動する不確かな時代に、国禁まで犯して<未知の世界>へと旅立った<勇気>は凄い。これも<暗黙知><形式知>への貪欲な好奇心といってよい。

1865年6月21日(慶応元年5月28日)、薩摩藩の留学生19名がロンドンに到着。彼らの世話役・グラバー商会のライル・ホームはケンジントン公園近くの路上で偶然、3人の日本人に遭遇した。この3人は長州藩の<密留学生>野村弥吉、遠藤勤助、山尾庸三だった。ホームから3人の話を聞いた薩藩留学生は驚く。国禁を犯す密留学が、自分たち以外にもいた。3人がベースウォーター街の<薩摩人>宿舎を訪ねたのは7月2日。両者は最初、互いに警戒心をもって相手をみた。薩長は「禁門の変」以来、仇敵の間柄だったから…。

薩人留学生の中に五代才助、森有礼、町田清蔵がいた。彼らは山尾と接触、友好を深めていく。徳川幕府による「貿易独占権」「不平等条約」破棄で共通認識…。これも<維新>だ。
――「頭に暗黙・形式を問わず知を取り込み、組み合わせてみる。暗黙知が生まれたら、“会話、議論、批判”、そして“考え抜く”ことでハッキリさせる努力をする。知識を詰め込むダケでは新機軸(イノベーション)は生まれようもない」と東大名誉教授のコラムは結ぶ。
(平成24年4月14日)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事