火山の独り言

時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり

聖徳太子は実在しない

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「多情多感な青年」と梅原猛は「人物日本の歴史〜天平の明暗〜大伴家持」に書く。「大伴氏は5、6世紀日本の最大の氏族。いわば氏族制度のもとの日本の最大の軍閥であった」(梅原・242頁)――。だが藤原不比等は「律令制」を推進する中、自己の氏族に有利なようにことを進め、陰謀を仕組んでは競争相手を追い落とす。渦中で大伴氏の没落が始まる。

不比等の嫡男が武智麻呂。彼を含む「藤原4兄弟」が君臨していた頃、家持の父・旅人は728年、九州・大宰府へ左遷される。この時、家持11歳――。「壬申の乱」(672年)で大功を立て天武を擁立するのが高市皇子。その子が後に悲劇の死を迎える長屋王。家持の父・旅人は長屋王と親しくしていた。729年、左大臣・長屋王を謀殺するのが藤原4兄弟。だが天平9年(737)、4兄弟は疫病で一斉に死ぬ。4兄弟の死に驚愕した聖武天皇27歳が登用したのが、橘諸兄。53歳――。

♪大仏や 藤と橘 咲き競ふ(火山)

20歳の家持は藤(仲麻呂・32歳)と橘(諸兄・53歳)の間で翻弄されていく。「大仏造立の詔」が出るのは天平15年(743)。聖武33歳、諸兄59歳、仲麻呂38歳、家持27歳。諸兄の夢は藤原氏の野望を阻止することだった。東大寺大仏は藤原氏の興福寺、春日大社を超える大事業。「万葉集」編纂は<勅撰>を得て、藤原氏の権威を超越するのが狙い。諸兄はこの大計画に、大伴家持の協力を求めたのだ。

「多情多感の青春」を送った家持。数多くの「相聞歌」を残した。恋の相手には人妻も、娘(未婚)も、童女もいた。手当たり次第。梅原猛は家持を、相当な「漁色家」と断ずる。だが梅原猛は面白いことを書く。「(柿本)人麿も家持と同じく、多くの恋愛歌をつくっている。漁色家といえば、人麿も家持に負けず漁色家といわねならぬ。しかし、その歌はたいへん違う。人麿の場合は、恋は情熱的である。しかし、家持は違う。どこか遊戯的である。どうも恋には燃えない。燃えることができない」(梅原・247頁)――。

思ふにし死するものにあらませば千たびそわれは死に返らまし(笠女郎)
相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後に額づくがごと(笠女郎)

「ここに恋する女がいる。このような歌は実感なくしてはつくりえない。女はたいへんな男を恋したようである。この非情で、エゴイスティックな貴公子、そういう恋すべきでない人を恋した女は、みずからを」(248頁)戯画化する。家持は「心なき餓鬼」であった。

だが42歳、因幡国庁で、郡司らと宴を催し「新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重け吉事」と<現存最終歌>を詠んだ家持は以後、筆を絶つ。55歳、従四位下。63歳、参議。64歳、正四位上。65歳、従三位。だが「氷上川継の謀反」に連座。66歳、中納言。67歳、陸奥鎮守府将軍。68歳、没す。「藤原種継の暗殺事件」に死後連座――。

許されて復職とはいえ「謀反・事件」への連座が多い。「橘奈良麻呂の乱」(757年)にも本来は連座。古代最大の軍閥の家柄。どんな心境だったのだろうか。抗争の渦中、一度も成功せず、といってトコトン打ち込むでもない。いわば「醒めていて」「遊戯的」ともいえる。そして大伴家は、次第に没落していく。もっと「武門らしい美学」があってもよいのではないか。家持の「見果てぬ夢」――。火山には不思議でならない。
(平成22年6月25日)

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