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<征韓論争>で西郷は敗れた。板垣、江藤、後藤ら4参議は失脚。「明治維新」の著者・井上清は「西郷の弱さを見た」と書いている。
小御所会議で「短刀一本ですむ」と岩倉・大久保の奮起を促し、鳥羽・伏見の戦いでは「大砲一発は百万の味方より心強い」と狂喜した西郷。あの強さはどこへ消えたのか。
倒幕・門閥打破までの西郷は<進歩派>だった。だが下級武士の保護だけを考え<士族独裁>を夢見た途端<保守反動>に転落した。井上清はそういっているように思う。
大久保利通も人民の味方とはいえない。<官僚独裁>…。でも下級武士の利害だけで動く西郷とは違っていた。財政赤字、インフレ、輸入超過などが人民を苦しめると知っていた。<内治>が優先。殖産興業、富国強兵、文明開化が先と<歴史の流れ>を読んでいた。
<大久保、木戸らの反省>―――「(明治)2年5月頃以降の民衆蜂起は関東以西の府県と各藩に多く、米価の暴騰、悪貨・贋貨の横行、太政官札の通用強制による生活困窮を素地とし、年貢諸負担の軽減、悪貨・不換紙幣の正貨との公平な率による引替えの要求…」(139頁)と井上清は書く。
大久保は明治元年12月25日、岩倉に手紙を出した。「政府の自ら恐怖する所あるは必ず酷薄にして狐疑する所あるがゆえなり」。人民に酷薄ならば人民を信頼できず、あれこれ疑うようになる。政府の安定は得られないという反省。
「大久保や木戸は、この当時はまだ現実を直視して自己批判をする誠実さと勇気を持っていた。しかし人民の負担を軽くし、人民の権利を認め、倒幕戦に踏み切った時のような人民の支持をもう一度確保することは、既に権力を握った彼らには難しいことであった」(142頁)―――ウーン。でもこの時の大久保、火山は好きだ。
郵政反対派は下級武士の利害だけを考えた西郷と同じ。特定局長や郵政職員は門閥上級武士と不平士族。自分たちが<無用>となっては困る。反対するのは当然。だから<官(士族)から民(徴兵)へ>…。歴史の進歩とはそういうもの。
軍事(郵政)は士族(公務員)の専売特許ではない。<士族>という身分保障の<口実>は<徴兵制>で消えた。<官から民へ>は歴史の進歩なのです。
<五条誓文>…由利公正が起草した時、平民(人民)的な立場があった。だが福岡、木戸が手を加え、天皇独裁の色が強くなった。
由利公正。政府参与の横井小楠に感化されていた。小楠は明治2年2月、京都の寺町通りで攘夷派に暗殺された。61歳。高官中の最年長なのに開明さは新政府随一。経学(中国の古典)に通じ、実学(政治・経済)の祖。識見天下に聞えていた。
漢訳書から西洋の民主主義思想に触れ、アメリカ合衆国初代の大統領ワシントンのことも知っていた。理想の君主と考え、尊敬もしていたという。日本は惜しい人材を失った。
明治9年8月。武士の家禄を召し上げ、金禄公債が発行された。士族は憤激。この時、大久保は鹿児島士族だけを優遇した。禄高と公債額との交換比率も、公債の利率も特別扱い。木戸孝允らは「全国公平の政を行うべし」と厳しく非難した。
大久保も薩摩に手を打たない限り、政権を維持できない。大久保は9年12月、警視庁の少警部中原尚雄ら十余人の鹿児島出身の警察官を鹿児島に送り込んだ。県下の情勢を探らせ、西郷の<私学校党>に組みしないよう説かせた。鹿児島の兵器・弾薬の一部を大阪に移した。これが西郷暗殺の密命があるとウワサになり、私学校党が暴発…。西南戦争だ。
大村益次郎は明治2年9月に不平士族に襲撃され、11月に死んだ。45歳。兵部大輔だった大村は軍を統一。陸海軍士官の養成や火薬製造所を作るなど最大限の努力をした。将来政府に反抗するものは東北ではなく、近畿以西、特に薩摩と考え軍事施設を京阪に集中した。この布石が徴兵制と結びつき、全国最強と謳われた薩摩士族を西南戦争で壊滅させた。大村の先見は凄い。
西郷は九州の一角に過ぎない薩摩が全国を敵にして勝てないことは知っていた。政府を攻めたくもなかった。しかし、私学校党は暴発してしまった。「自分の体を預けよう…」と覚悟した。
大久保も西郷を死なせたくなかった。「同じ薩摩の下級武士町の一隅に生まれ、二十余年来、二人にして一人のように呼吸を合わせ、維新回天の大業に生死をともにしてきた。同志・盟友の西郷を敢えて政権の座から追放せざるをえなかったのは、大久保に私情や勢力争いが一片でもあったからではない。維新日本の進路に関する、相容れることのできない原則の対立であった」(井上清「明治維新」370頁)。
明治10年9月24日、西郷隆盛、自刃、50歳。翌明治11年5月14日、内務卿大久保利通、暗殺(紀尾井坂の変)。48歳。 (完)。
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