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「『これから何をやるつもりか』。江戸幕府の大政奉還の直後、西郷隆盛が坂本龍馬に聞いた。『新政府の役人など真っ平ご免。世界の海援隊でもやるかな』。倒幕に奔走した志士の答えに、西郷は二の句がつげなかった(平尾道雄著「海援隊始末記」)…。龍馬が隊長の政治結社・海援隊は貿易商社に育ちつつあった。西洋列強に対抗するには、日本を鎖国の眠りから覚ます。新しい海運国家をつくり世界に乗り出す。その夢を実現できる組織だった。新国家を守るには、何が大事かを考えた」と「日経」コラム<春秋>(1月17日)…。ウーン。
「刀ではない。ピストルでもない。万国公法(国際法)を学ぶべきだと常に説いていた。▼龍馬の手紙が新たに見つかった。『新国家』の文字が初めて確認された重要史料だという。海援隊で海運業を営んだことで、国の財政基盤が何より肝心と痛感していた。手紙では福井藩の重役に、財政通の藩士を早く新政府に派遣するよう求めている。安定した政権ができなければ、海運国家の夢も逃げてしまうからだ」(日経)…。さて坂本龍馬の幕末・維新――。
文久2年(1862)7月19日、<禁門の変>が起きる。公武合体派から天皇を奪い返そうと長州藩兵2000名が決起。だがこの時、西郷隆盛が指揮する薩摩藩は会津藩と手を組んだ。長州は敗走、尊攘派の多くが戦死。土佐藩を脱藩していた中岡慎太郎も戦闘に参加した。中岡慎太郎は庄屋の息子。飢饉に苦しむ農民の姿を見て「天皇の民である農民を救うために徳川を倒そう」と燃えたのだ。中岡は禁門の変で多くの同志を失い、挫折感に打ちひしがれる。中岡が詠んだ悲痛な漢詩がある。「吾身死す可くして未だ死せず…」。
長州藩士は薩摩と会津を憎んだ。ゲタに<薩賊会奸>と書き、踏んづけて闊歩。だが土佐の中岡は<倒幕>には薩長が提携する以外ないと確信。<和解>させようと必死になる。薩摩の中にも大久保一蔵(後の利通)など<討幕派>がいた。幕府の長州征伐が持ち上がった。幕府は15万の軍勢を集めた。長州が滅びては<倒幕>は夢と消える。中岡はあせった。同志の遺志。彼らは何のために命を捨てたのか。
長岡は頭も切れ、弁も立った。彼の粘り強い説得に西郷も折れた。中岡は渋る桂小五郎をムリヤリ引っ張り出し、下関で西郷に合わせる段取りを整える。だが両藩は<犬猿の仲>。土壇場で西郷は逃げた。桂は怒り心頭。中岡を怒鳴りつけた。この時、中岡と一緒にいたのが坂本竜馬。彼は幕府の勝海舟に弟子入り、軍艦操練の技術を身に付けていた。目を付けたのが薩摩藩。慶応元年(1865年)5月、坂本竜馬は薩摩藩家老の小松帯刀とともに長崎に赴き「亀山」に社中を作り開運事業を始めた。これが後の<海援隊>――。
坂本は戦争に備えノドから手が出るほど武器が欲しい長州に、薩摩藩の名前で武器を購入するという奇策を思いつく。長州は「禁門の変」以降<朝敵>。武器の購入はできない。慶応元年(1865年)8月27日、長州は最新式の武器を手に入れた。これが薩長同盟の第一歩。慶応2年6月、長州征伐が始まり、士気に勝る長州は30倍の幕府軍に勝利を収める。<倒幕><明治維新>への道が開らけた。以下、稿を改める。
(平成29年2月4日)
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