|
中学同期の句会「気まま会」。10月の「兼題」は「芋」「新米」だった。火山は珍しく「自由題」を2つ作った。クラシック大好きな火山、「月光」なら、すぐベートーヴェンになる。
♪月光に秘めし想ひやピアノ弾く(火山)
「ベートーヴェンが月夜の街を散歩していると、ある家からピアノの演奏が聞こえてきた。よく見ると、それは盲目の少女だった。感動したベートーヴェンはその家を訪れ、溢れる感情を元に即興演奏を行った。自宅に戻ったベートーヴェンは演奏を思い出しながら、ピアノ曲を仕上げた。それが『月光の曲』だ」――。このエピソード。ヨーロッパで生まれたというが、戦前の日本でも尋常小学校の教科書に掲載されていた。火山も知っている話。
だが火山の俳句は、これとは無縁。「秘めし想ひ」とは何か。誰がピアノを弾いているのか。「月光の曲」は正式には「幻想曲風ソナタ嬰ハ短調・作品27−2」または「ピアノソナタ第14番・月光」――。1801年、ベートーヴェン30歳の作品。貴族令嬢ジュリエッタ・グィチャルディ(1784〜1856)に献呈されている。「1801年11月16日付友人ヴェーゲラー宛の手紙に『この少女を愛している』」(平野昭「ベートーヴェン」新潮文庫・61頁)――。
ジュリエッタは1800年にウィーンに引っ越してきた。ベートーヴェンと交際が始まったが、彼女の母はブルンスヴィク伯爵家の出。だがブルンスヴィク伯爵家には長女テレーゼ(1775〜1861)と次女ヨゼフィーネ(1779〜1821)がいた。美しい姉妹のピアノ教師となったベートーヴェンは、いつしか姉テレーゼに「密かな想い」を抱くようになってしまう――。
テレーゼの「父ブルンスヴィク伯は、ハンガリーの古い貴族の出身であったが、1792年に47歳の若さで他界すると、母は一男三女を育て、1799年5月には長女テレーゼと次女ヨゼフィーネを連れてウィーンの社交界に登場する」(平野昭・69頁)――。そしてお立合い、テレーゼは音楽史上<最大の謎>とされるベートーヴェンの「不滅の恋人」候補の一人。だが妹ヨゼフィーネも候補。彼女は1799年、ダイム伯爵と結婚していたのだが…。
「『不滅の恋人』候補としてヨゼフィーネがクローズ・アップされ、姉テレーゼ説が一転して妹ヨゼフィーネになったのは、1949年に『(ベートーヴェンが)ダイム伯爵夫人(ヨゼフィーネ)に充てた13通の手紙』が発見されてからであった。恋文的内容をもったこれらの手紙には日付はないが、ヨゼフィーネがダイム伯と結婚した1799年から、1810年にシュタッケルベルク男爵と再婚するまでの間に書かれたものと推定されている」(121頁)――。だが平野昭「ベートーヴェン」(新潮文庫)によれば、新しい恋人が登場する。
1810年、ベートーヴェンは「ゲーテの悲劇『エグモント』のための付随音楽(作品84)に注力していた。佳境にあった5月頃、親友ヴェーゲラー(「月光の曲」献呈の貴族令嬢への愛を打ち明けた)に「自分の誕生年を調べてほしい」と頼んでいる。この依頼は「ベートーヴェンが真剣に結婚を考えていたことと結び付けて考えられている」(平野・105頁)。
「4月から6月頃のものと推定される日付のない多くの手紙がテレーゼ・マルファッティとの結婚の意志を物語っている。しかし、40歳の男が求婚した相手は18歳の娘――。テレーゼの姪はいう。『ベートーヴェンは伯母を愛し、結婚を望んでいましたが、伯母の両親が許さなかった』。ベートーヴェンは、またも苦い経験をする」(平野・105頁)――。
だがこの恋は人類に素晴らしいプレゼントを残した。ベートーヴェンはテレーゼにピアノ曲を献呈。それが「エリーゼのために」(ドイツ語原題:Für Elise)。この曲は本来「テレーゼ(Therese)のために」だった。だがベートーヴェンの悪筆が解読不能…。「エリーゼ(Elise)」となった。自筆楽譜がテレーゼの手紙箱から発見されたため「正体」が判明した。
だがこの頃、新しい恋が芽生えていた。キューピット役はベートーヴェンが歌曲や「エグモント」を作曲した文豪ゲーテと親交の厚かったベッティーナ・ブレンターノ。彼女にはウィーンの代表的文化人として信望の厚かった兄フランツがいた。彼の妻はマリア・テレジアとヨーゼフ皇帝の寵臣だったビルケンシュトック伯の娘アントーニエ(1780〜1869)。
ブレンターノ夫妻と交際を始めたベートーヴェンは「実父を亡くしたばかり、病気がちでベッドに伏すことの多かったアントーニエをしばしば訪れ、隣室からピアノ演奏で慰め力づける。こうした同情がいつしか<真の愛>へ変わっていった」(平野・106頁)。
「ベートーヴェンの死後に遺品中から発見された宛名不明の3通の情熱的な恋文、『不滅の恋人への手紙』がいつ、どこで、誰に宛てて書かれたかをめぐって、ベートーヴェン研究者たちは現在まで無数の推理と謎解きに夢中になってきた。(中略)相手が誰であろうと、数多く残された女性宛の手紙の中で“Sie”(あなた)ではなく、極めて親しい間柄だけに使い“Du”(お前)で呼びかけているのは、この3通だけ…」(平野昭・118頁)――。
アメリカの研究家M・ソロモンの説(1972年)。1812年7月のアントーニエとベートーヴェンの足跡を検証。「アントーニエは夫フランツと共にベートーヴェンと同じ頃ウィーンを発ち、プラハを経てカールスバート(手紙に現れるK)に到着。ベートーヴェンもプラハを経てテープリッツ到着。ここからKに向かって出る郵便馬車」(平野・120頁)に乗る。平野昭は「アントーニエとベートーヴェンはKで一夜を共にした」。これが“Du”の理由。
(平成23年11月6日)
|