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「(昭和11年・1936年)2月26日午前5時、決起部隊、のちに反乱部隊1483人が、それぞれ既に決められた襲撃目標に向かいました。機関銃、重機関銃、軽機関銃、小銃、拳銃など約10万発を越す弾薬を持ち、2月の寒さですから外套を着用し、背嚢を背負い、防毒マスクまで持っていくという完全武装でした。歩兵第一連隊、これは今の赤坂9丁目辺りにあったのですが、栗原安秀中尉、対馬勝雄中尉、林八郎少尉、池田俊彦少尉らが指揮して約300名が、首相官邸に岡田啓介首相を襲撃」(半藤一利「昭和史」講談社・152頁)――。
昨年(2015年)は「戦後<70年>」と騒がれ<安保>で日本中が揺れた。だが、その<敗戦>の「引き金」となったのが、昭和11年(1936年)2月26日、ジャスト<80年>前に<勃発>した、あの<226事件>と、火山は考えている…。「日本が国家<総力戦>体制、高度<国防>国家をつくるためには<自由主義>ではだめだ。ナチス・ドイツのように資本主義経済体制を壊して<統制経済>にせねばならないのだと説くわけです。つまり<軍>が統制する国家です」と<半藤一利>は「昭和史」(149頁)で指摘する――。ウーン!
「ここで特に問題視されるのは、北一輝の『日本改造法大綱』です。皇道派の青年将校たちがこれを学び、おもむろにではあるけれど、『天皇は全日本国民とともに、国家改造の根基を定めんがために、天皇大権の発動によって3年間憲法を停止し、衆議院と貴族院の両院を解散し、全国に戒厳令をしく』、そうして大改造に踏み切る、という考えを持つようになるのです」(「昭和史」・148頁)…。<北一輝>は戦前の思想家、国家社会主義者。226事件の「理論的指導者」として逮捕され、軍法会議で死刑の判決。昭和12年8月、刑死。
「『たたかひは創造の父、文化の母である』。戦争があらゆるものをつくりあげる父であり、文化の母である」(「昭和史」・149頁)…。<皇道派>と激しく対立した<統制派>のエリート将校たちが公表した「国防の本義とその強化の提唱」の言葉…。皇道派も統制派も「満蒙の危機(対ソ・対中国)を受け止め、軍を刷新して近代の国家総力戦に合う日本をつくりたいという点で陸軍全体の気持ちとしては一致していながら、方法論」(147頁)で対立していた。226事件は当時、陸軍を握っていた<統制派>への<皇道派>の決起だった――。
「岡田首相、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、牧野伸顕前内府が襲われ、うち内大臣斎藤実と大蔵大臣高橋是清、教育総監渡辺錠太郎の3人が殺されました。重傷を受けたのは鈴木貫太郎侍従長、間違えられて助かったのが岡田啓介首相、牧野は無事脱出しました。このように天皇側近の要人を次から次へと襲撃して殺害したのです」(155頁)…。
「27日が明けます。天皇は侍従武官長本庄大将に向かって何べんも同じことを言います。本庄武官長が丁寧に日記に書いているのですが、『朕が股肱の老臣を殺戮す。かくのごとき凶暴の将校らは、その精神においても何の怒(ゆる)すべきものありや』『朕がもっとも信頼せる老臣をことごとく斃すは、真綿にて朕が首を絞むるにひとしき行為なり』。さらに、陸軍首脳が決起部隊の鎮圧にいつまでもてこずっていることに怒り出し、『朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当たらん』」(168頁)…。天皇の<鉄壁>の意思が反乱軍を鎮圧した。
「歴史の皮肉」といってよいかどうか、いや言ってはならないのだが、226事件に決起した青年将校たちの中に<薩摩・佐賀・長州>出身がいた。半藤一利は「こうなると『明治維新』です。彼らは事件を『昭和維新』と銘打ち、自分たちは天皇陛下を尊び、義のために立った『尊王義軍』と称しました。確かに彼らの気持ちの中には『天皇陛下のために立ち上がる。そして陛下は分かってくださる』という確信があったのでしょう」と半藤一利「昭和史」
(講談社・161頁)にある…。ああ!
(平成28年2月26日)
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