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「永禄6年(1563年)、明智光秀と妻・煕子の間に三女として越前国で生まれる。天正6年(1578年)、15歳の時、父の主君<織田信長>の勧めで細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いだ。珠は美女で忠興と仲のよい夫婦であり、天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆、後の長岡休無)が2人の間に生まれた。明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて『細川ガラシャ』と呼ぶようになり、現在も広くこのように呼ばれる場合が多い」と「ウィキペディア」…。火山、3月25日(金)夜、TBSテレビ「歴史列伝」を観た――。
「天正10年(1582年)6月、父の光秀が織田信長を本能寺で討って、自らも滅んだため、珠は『逆臣の娘』となる。忠興は天正12年(1584年)まで彼女を丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉する。この間の彼女を支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原マリア(公家清原枝賢の娘)らの侍女達だった。珠の幽閉先とされる場所であるが、丹後味土野の山中(現京丹後市弥栄町)に天正10年9月以降に幽閉されたことは史実である」と「ウィキペディア」は続く…。
天正6年(1578年・15歳)、父の主君<織田信長>の勧めで<細川藤孝>の嫡男・忠興に嫁ぐ…。<美女>で忠興と仲のよい夫婦となるが、これが<悲劇>の始まり…。なんとも悲運の人生だ。父<明智光秀>が主君<織田信長>を討つ…。「本能寺の変」!だが、これは天正10年(1582年)6月、珠は19歳――。「天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った<羽柴秀吉>の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻し、厳しく監視した。この年に興秋が生まれている」(ウィキペディア)…。だが、まだ21歳――。
「それまでは出家した舅・藤孝とともに<禅宗>を信仰していた珠だったが、忠興が高山右近から聞いた<カトリック>の話をすると、その教えに心を魅かれていった。もっとも忠興の前ではそ知らぬ風を装っていた。天正14年(1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣すると(九州征伐)、彼女は<彼岸>の時期である事を利用、侍女数人に囲まれて、身を隠しつつ<教会>に行った」と「ウィキペディア」――。
ところで舅<細川藤孝>は、いかなる人物か。なぜ光秀に味方せず<出家>したのか――。「初め室町幕府13代将軍<足利義輝>に仕え、その死後、15代将軍<足利義昭>擁立に尽力。後に織田信長に従い、長岡藤孝を名乗り丹後宮津11万石の大名となった。本能寺の変後、主君・信長の死に殉じて剃髪、家督を忠興に譲る」と「ウィキペディア」…。
「天文3年(1534年)4月22日、三淵晴員(和泉上守護家細川元有の子で三淵氏の養子)の次男として京都東山に生まれる。天文9年(1540年)、7歳で伯父の和泉半国守護・細川元常(三淵晴員の兄)の養子となったとされるが、異説もある…。天文15年(1546年)、将軍<足利義藤>(後の足利義輝)の偏諱を受け、<藤孝>を名乗る。天文21年(1552年)、従五位下・兵部大輔に叙任される。幕臣として将軍<義輝>に仕えたが、永禄8年(1565年)の永禄の変で、義輝が三好三人衆や松永久秀に討たれ…」(ウィキペディア)――。
「義輝の弟<一乗院覚慶>(後に還俗して<足利義昭>)も興福寺に幽閉されると、兄・三淵藤英らと協力してこれを救出、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の<朝倉義景>らを頼って<義昭>の将軍任官に奔走した。当時は貧窮で灯籠の油にさえ事欠くほど。その後<明智光秀>を通じて尾張国の<織田信長>に助力を求める…。永禄11年(1568年)9月、信長が義昭を奉じて入京、<藤孝>もこれに従った」という。相当な<苦労人>――。
「義昭と信長の<対立>が表面化すると、元亀4年(1573年)3月、軍勢を率いて上洛した信長を出迎え<恭順>の姿勢を示した…。義昭が信長に<逆心>を抱くふしがあることを密かに<藤孝>から信長に伝えられていたことが信長の手紙からわかっている。義昭が追放された後の7月に桂川の西、山城国長岡(西岡)一帯(現長岡京市、向日市付近)の知行を許され、名字を改めて<長岡藤孝>と名乗った」…。ナントも凄い<苦労人>――。
珠が教会に行った時、復活祭の説教が行われていた。珠は日本人のコスメ修道士にいろいろ質問した。コスメは後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べた。珠はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、身なりなどから高い身分と察せられたので、洗礼は見合わされた。細川邸では侍女の帰りが遅いことから珠の外出に気づき、教会へ迎えに行き、駕籠で珠を連れ帰った。
珠は洗礼を受けないまま、書物で<信仰>に励み、侍女らを教会に通わせ洗礼を受けさせた。だが秀吉が九州でバテレン追放令を出したことを知ると、イエズス会士セスペデス神父の計らいで、大阪の自邸で密かに<洗礼>を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵み)の洗礼名を受けた。だが夫・忠興には<改宗>したことを告げなかったという――。
♪〜散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ〜(ガラシャ辞世)…。
慶長5年(1600年)、天下分け目の<関ヶ原>――。「西軍の石田三成は大坂玉造のガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャは拒絶。翌日、三成が細川屋敷を兵に囲ませるとガラシャは『夫の命の通り、自分だけが死にたい』と言い、侍女らを逃がした。家老の小笠原秀清(少斎)はガラシャを介錯、遺体が残らぬよう屋敷に火を点けて自刃…。「忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノに<教会葬>を依頼、葬儀にも参列、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した」(ウィキペディア)…。時代とはいえ、哀しい!
(平成28年3月27日)
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