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暮(ゆふ)されば 小倉(をぐら)の山に 鳴く鹿は 今夜(こよひ)は 鳴かず寝にけらしも(巻8−1511)
万葉文学の成立はいつか。<大化の改新>に先立つ時代らしいが、諸説あるという。火山の手元に昭和60年(1985年)1月13日、有隣堂・横浜西口店で買った北山茂夫「万葉集とその世紀」(新潮社)がある。
北山茂夫氏は東大国史学科卒の著名な歴史学者。「大化の改新」「万葉の時代」「壬申の内乱」「日本古代政治史研究」などの著書を持つ古代史の碩学だ。「青春時代このかた50年近くこの古代の歌集に親しんできた」という。
「万葉時代―――百年。その百年の歴史を劇的に描き、万葉集の名歌秀歌を時代に即した人間記録として読みなおす」。心血注いだ<全3巻のライフワーク>とある。
万葉集は現代まで残る最古の歌集。全20巻、およそ4500首。その万葉が好きで歴史家。関心は人間ドラマという。火山の問題意識にピッタリ。火山もライフワークにしたいと思い立った。
北山氏は万葉の時代の上限を<斎明女帝>の時代(655年〜661年)におきたいという。
「斎明女帝の生年はわからないが、推古朝において少女から成人への時代をすごし、舒明の治世に、皇后として、天皇と行動をともにした」(61頁)という。
冒頭の歌は彼女が<宝皇女>が<皇后>になった時代、皇居付近にあった小倉山(いまはどの山を指すか不明)の「鳴く鹿」を詠った。外界の生き物への女性的感性の発露という。
宝皇女は推古の時代に育ったというが、推古も女帝。仏教を馬子に許さなかった敏達天皇の皇后だ。仏教を許した用明の長子・厩戸皇子と敏達先帝の遺児・竹田皇子の皇位継承の決着がつかず、中継ぎの女帝に擁立された。
奇しくも宝皇女も舒明の死後、夫(舒明)と馬子の娘(法提郎媛)の子(古人大兄)と自分の子(中大兄)の板ばさみで女帝となる。しかも<皇極><斎明>と二度の即位だ。
宝皇女時代の斎明には有馬温泉に療病に出かけた舒明との相聞歌が2首残されている。夫・舒明との関係は安定していて幸福だったらしい。何より二人の優れた息子に恵まれた。中大兄(後の天智)と大海人(後の天武)。中でも中大兄との関係は、世の常の親子以上に深いものがあったと北山氏。
舒明は641年10月に没した。時に中大兄は16歳。母帝の彼女は皇位を狙う中大兄のかけがいのない後楯となって政治的役割を果たした。宝皇女は妻として、母として、深い愛情の人であったという。そしてそれが彼女の作歌の根源となったと北山氏は書く。
山の端に あぢ群(むら)騒き 行くなれど 吾はさぶしゑ 君にしあらねば(486)
淡海路(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉川(いさやがは) 日(け)のころごろは 恋ひつつもあらむ(487)
これが舒明天皇との相聞歌。あぢ群とは鴨の群。古代の女性らしい熱情的な恋情の高まりが歌われているという。何らかの事情で有馬温泉に同行できなかった皇后の気持ち。高貴な身分にありながら素直に夫への愛を詠う。万葉歌人の誕生と万葉学者は讃える。
その皇后が舒明の死後、天皇の位についた。皇極女帝だ。「宮廷には、入鹿の、やや猪突的な気負った行動があった」(71頁)。入鹿の父・蝦夷は古人、中大兄の争いを恐れ、皇后を推した。入鹿には父が弱腰と見えた。古人は馬子の孫、蘇我一族の希望の星だった。
642年、執政となった入鹿は勢威をふるい、翌642年、厩戸皇子(聖徳太子)の遺児・山背大兄王と一族を責め滅ぼす。古人即位への布石であったろう。
皇極女帝は入鹿を恐れ嫌った。643年10月、一度は譲位へ心が動いたと「日本書紀」にある。だが中大兄の今後と反蘇我の多くの廷臣のことを思い、譲位を思いとどまる。舒明の時代と違って歌作に心を向ける余裕はなかったらしく、歌は残されていない。
645年、20歳となった中大兄は中臣鎌足らと組み、蘇我大臣家の蝦夷・入鹿を滅ぼす。<大化の改新>だ。女帝は皇位を実弟に譲る。孝徳天皇(645年)だ。しかし、その後も「皇祖母尊」として皇太子・中大兄の後楯となった。中大兄の即位まで生き延びたいと望んでいたろう。大化、白雉の改新時代も歌は残されていない。
653年(白雉4年)、28歳の中大兄は孝徳天皇と対立、難波宮に孝徳1人を残し、母の皇極上皇、弟の大海人、公卿・太夫・百官を引きつれ、飛鳥川のほとりの川辺の行宮(かりみや)に移ってしまう。孝徳の皇后の間人皇女まで天皇を捨てて中大兄に従った。異常だ。これが後に孝徳の遺児・有間皇子の悲劇(658年)につながる。
孝徳は655年、寂しく世を去った。宝皇女(皇極)は再び帝王の座に着く。齋明女帝。実権は中大兄、鎌足が握っていたと北山氏。その北山氏は齋明が歌作をしたと主張している。
万葉の時代は<血で血を洗う>時代でもあったようだ。(続く)
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