火山の独り言

時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり

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「1票の格差が最大3・08倍あっても<最高裁>は合憲とした。昨年夏の参院選では初の合区があり、この是正策を評価したからだ。だが3倍の格差を著しい不平等と認めない判断には釈然としない。15人の判事で1人、実に明快な意見を書いた判事がいる。元<内閣法制局長官>の山本庸幸氏だ。『投票価値の較差(格差)は国政への政治力に地域間の差異をもたらすので、いずれの国民も平等に選挙権を行使できなければ<憲法>前文にいう代表民主制に支えられた国民主権の原理は画餅に帰する』」と「東京」社説(9月30日)――。

「その上で『投票価値の<平等>は他に優先する唯一かつ絶対的な基準として真っ先に守られるべきもの』と述べた。だから、あくまで平等原則を追求する。許容される差は1・2倍程度と考える。山本判事は『違憲無効』の意見であった。<弁護士>出身の鬼丸かおる判事も『違憲』の判断だった。<多数派>が<合憲>だったのは<合区>の評価の他に改正公職選挙法の付則がある。次の参院選までに抜本見直しをするという国会の<約束>を明記したことを<重視>したのだ」(東京)…。ナルホド!だがいささか<忖度>の度が過ぎる。

「ただし、今回の判決で<不思議>な点がある。2014年の判決で『参院選の投票価値が衆院選より後退してよい理由はない』と述べていた。衆院選の格差は約2倍で違憲状態だった。参院選の約3倍は明らかに<劣後>しているのに合憲を与え、かつその理由を全く説明していない。なぜか」(東京)…。衆院は<2倍>!でも参院は<3倍>…。確かに不思議!

「もう一点、指摘する。14年の判決で『都道府県単位の現行方式をしかるべき形で改める』などと強い調子で仕組み自体の見直しを迫っていた。それで徳島・高知、鳥取・島根の合区ができたが、何と今回の判決では『都道府県を単位とすること自体を不合理なものとしない』と述べているのだ。正反対の意味に受け止められる。まるで<改革>にブレーキをかける書きぶりではないか。<合憲>とした判事たちは<14年>の判決からなぜ考えを変えたのか。その<理由>を<明記>しないのはなぜか」(東京)…。なぜ<明記>しない。不思議!

「大学卒の人だけが2票持てば、みんな怒る。男性が2票で女性が1票なら大ブーイングだ。なぜ住む地域により3票も持つ現実を許容できるのか。明らかな<不平等>さえ認めない最高裁の姿勢は<不可解>という他はない。むろん政治は1票の<平等>に向け、もっと動くべきである。議員の選び方が大事なのは<正統性>が疑われず<民意>を正しく反映させるためなのだから」(東京)…。火山も<不可解>だ。だが「社説」での指摘は「東京」のみ。意外だが、他は「朝日」に<署名>(岡本玄。9月27日)記事が、あるだけ――。

「最高裁、昨夏参院選『合憲』。『一票の格差』3.08倍」が<見出し>…。「この日の判決は法改正に伴う格差縮小を評価しつつ、再び拡大することがないよう釘を刺した。参院の選挙制度を巡り自民党では地元の不満が強い合区を改憲によって解消しようとする動きがある。格差が広がる懸念があり、国会の対応が問われる。最高裁が2010年と13年の参院選で連続して『違憲状態』と判断したことを受け、国会は15年の公職選挙法改正で、鳥取と島根、徳島と高知の合区を含めた『10増10減』を実施。格差は13年の4・77倍から3・08倍に縮小した」(朝日)…。「合区」を<改憲>で阻止とは<既得権益>の極み。フザケルナ!

「この日の判決は『参議院の創設以来初の合区を行い、数十年間にもわたり5倍前後で推移してきた格差が縮小した』と評価。15年改正の不足に『19年参院選に向けた抜本的な見直し』が明記され、更なる是正に向けての方向性と立法府の決意が示されたとして『違憲の問題が生じるほどの著しい不平等状態とは言えない』と述べ合憲と結論づけた」(朝日)…。

「一方、判決は選挙制度の仕組みを決める上で投票価値の平等の要請が後退してもよいとはいえないと指摘。ただ唯一の基準ではないとも述べ、都道府県の意義や実態などを一つの要素として考慮しても国会の裁量を超えるとはいえないとの考え方を示した。裁判官15人のうち11人の多数意見。鬼丸かおる、山本庸幸両裁判官は『違憲』、木内道祥、林景一両裁判官は『違憲状態』とする個別意見を示した。全国の高裁・支部が出した16件の判決は『合憲』が6件、『違憲状態』が10件で判断が分かれていた。(岡本玄)」(朝日)――。

「『りょ』。新入社員にメールを送ったところ、たった2文字のこんな返事がきて仰天した――という話は都市伝説だろうか。『りょ』とは『了解』の短縮形である。もっと略すと『り』。上司とのやりとりに使うかどうかはともかく、若い世代にずいぶん広まっている。▼いろいろ考えて長々と書くおじさん、おばさんに比べると若者のメールは総じてあっさりしたものだ」と「日経」コラム<春秋>(9月13日)…。「最高裁」まで<短縮形>ご愛用――。

「短っ!と驚くばかりだが、文章を縮めたり略語を作ったりするのは昔から日本人の得意技である。人々は『当たり前だべらぼうめ』を『あたぼう』とはしょり、天下の豪商、紀伊国屋文左衛門を『紀文』と呼んだ。▼日常的には殆ど絶滅した電報も、かつては短縮文のオンパレードだった。古い映画を見ていると電報を打つ場面がよく出てくるが、スクリーンに大写しになる『ウナヘンマツ』とか『アトフミ』とか、今は判じ物である。前者は『至急、返事を待っています』、後者は『後は詳しく手紙に書きます』の意味なのだ」(春秋)――。

「▼オリンピックは『五輪』、万国博は3文字を更に縮めた『万博』が世に知れわたった。短い言葉が持つパワーである。政府も次々に打ち出す大仰なキャッチフレーズの短縮形など掲げてみたらいい。例えば1億総活躍は『億総』、人づくり革命は『人革』…。しかしやはり肝心なのは中身です。ヨロオネ」(春秋)…。だが火山、最高裁<3倍>はnot「り」。
(平成29年10月1日)

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「2011(平成23)年3月11日のあの時間、私は名誉校長をしている専門学校の卒業式から戻って自宅にいた。大きな揺れが襲い、ほどなくテレビの画面に映し出された光景に息を呑んだ。すぐに友人のロックシンガー、シンディ・ローパーのことが心配になった。彼女は来日公演のため、その日の午後、成田空港に降り立つことになっていた。息子が公演に関係していたから余計に心が騒いだ」と湯川れい子「私の履歴書」(「日経」9月29日)…。<見出し>は「東日本大震災。シンディと募金集める。『力を合わせ日本人を元気に」――。

「後で知ったことだが、彼女を乗せた飛行機は行き場を失い、一端米空軍の横田基地に着陸した。その後羽田空港に向かって通関を済ませた。ホテルに入ったのは12日の午前3時頃だったという。シンディは15日の名古屋、16、17、18日の東京、21、22日の大阪と公演日程を組んでいた。しかし12日に東京電力福島第1原発の1号機が、14日には3号機、15日に4号機が続けざまに水素爆発を起こし、その模様が世界中に伝わった。日本在住の外国人が一斉に日本を離れ始める」(日経)…。湯川れい子、凄い人材。文才抜群。火山、感嘆。

「バンドのメンバーにもアメリカの家族から『帰って来て』という悲痛な声が届いていて、彼らは浮足立っていた。だがシンディは帰国しなかった。それどころか予定通り公演すると決めた。名古屋のシンディから電話があった。『レイコ、18日の東京公演最終日に会場で募金をしたいの。日本のアーティストに声をかけてくれない?』『シンディ、有難う!できるだけ沢山のアーティストに来てもらうわ』」(日経)…。凄い!火山、9月1日から連日、ずっと真っ先に目を通し、結局、<切り抜き>にして「永久保存」の処理に切り替えた――。

「東京公演は未曽有の災害に見舞われたというのに、当日券を求める長い列ができた。会場となった渋谷の『Bunkamura オーチャードホール』を埋めた観衆は涙を流しながらシンディと声を合わせて歌った。東京公演が始まると、私は近くのデパートでひじきの煮物とおやつ昆布を大量に買ってバンドのメンバーに差し入れした。<放射能>には<ヨード>がいいと言われていたからだった。気休めでしかなかったかもしれないけれど、どんな形にせよ彼らへの感謝の気持ちを表したかった」(日経)…。「放射能には<ヨード>」を即実行!

「公演2日目のリハーサルの時、シンディがバンドメンバーに向かって深々と頭を下げた。『こんな時に一緒に残ってほしいとお願いして本当にごめんなさい。残ってくれて有難う。私たちが力を合わせることで少しでも日本人を元気にしたいのよ。今夜も頑張って』。最終日、私の呼びかけに応えデーブ・スペクター夫妻、テリー伊藤さん、イルカさん、森口博子さん、クミコさん、平尾昌晃さんたちが会場に来てくれ募金箱の前で協力を呼びかけた。シンディの思い、その思いを受け止めた日本人の心が一つになった」(日経)…。センス抜群。

「私はもともと<原発>には反対だった。人類は水や火を使うことによって文明を発達させてきた。でも水も火も一端荒れ狂うと人間の手に負えなくなる。まして原子力が牙をむけば、災禍は水や火とは比べものにならない。推進派の人たちは『原発は安全なクリーンエネルギー』と主張し続けてきたけれど、やはりそうではなかった。私には孫がいる。孫やその次の世代に安心な世の中を手渡したい。そのためにも原発を再生可能な自然エネルギーに置き換えていくべきだと思う」と湯川れい子…。凄い!気配り、抜群…。さすがだ――。

「鴎友学園は中高一貫だったから入学試験もなく高校生になった。担任の先生が変わっただけだ。1年生だった1952(昭和27)年2月、祖母の和喜に死期が迫っていた。既に高齢で具合が悪く、米沢から東京に移るときも駅まで男衆に背負ってもらったほどだった。東京では寝たきりだったので、家族は『ねんねばばちゃま』と呼んでいた」と「日経」連載<湯川れい子>の「私の履歴書」(9月8日)…。連日の楽しみだが、今回も凄い!

「ようやく戦後復興が軌道に乗って、食べ物も少しは手に入るようになっていたが、ばばちゃまは全く歯がなくなって空洞のようになった口を開いては『ああ、雪が食いてえなあ』と言っていた。米沢の雪を思い出していたのだろう。そしてほどなく老衰でこの世を去った。90歳を過ぎての大往生だった」(日経)…。家内に聞いて唖然!実に<華麗>な家系――。

<湯川れい子>…。「本名・湯野川和子(1936年1月22日〜)は音楽評論家・作詞家・翻訳家・USEN放送番組審議会委員長・ピースボート水先案内人。東京都出身。女優<吾妻麗子>名義で活動した事もある。東京都世田谷区在住」と「ウィキペディア」――。

「今の駒沢オリンピック公園は日本人の手による初のゴルフ場『東京ゴルフ倶楽部』だったところ。私の生家は近くに新しく開けた住宅地にあって、東京市目黒区芳窪町と呼んだ。私、湯野川和子は1936(昭和11)年1月22日、父忠一、母芳子の次女として生まれた。父51歳、母が41歳。あの頃としては老境に差しかかって生まれた娘だったせいか、ことのほか可愛がられて育った記憶がある。父が建てた家は総ヒノキ造りの2階建て。部屋数が多く広い庭には父が丹精した木々や草花が植わっていた」と「日経」(9月1日・初回)――。

「私が小学校に通い始めた42年頃から父の帰宅が遅くなった。今にして思えばその年6月、ミッドウェー海戦で日本海軍の機動部隊が立ち直れないほどの大負けをしていた。海軍を統括する軍令部に勤める父は胸をえぐられるような焦燥と不安に駆られていたに違いない。そして翌43年4月のある夜、遅くなって帰宅した父を母と姉が玄関に迎えた。しかし父は靴も脱がず、背を丸めがちに血を吐くようにつぶやいた。『五十六(いそろく)が死んだ。日本はもう終わりだ』」(日経)…。山本五十六は彼女の<叔父>!華麗な<家系>――。
(平成29年10月1日) 

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素晴らしい講演を聞いた。「戦国武将の手紙を読み解く」…。紅葉坂を登った県立図書館。講師の岡田正人、織田信長研究では第一人者らしい。1992年(平成4年)、NHK大河ドラマ「信長」では時代考証を務めたという。火山、もちろんカブリツキ。戦国武将というから<信長>か<信玄>か…と期待していた。岡田氏、大徳寺で信長の妻<帰蝶>の墓を発見したというから相当な<凝り性>だ。講演も熱が入った。

10月27日(木)は<文字・活字文化の日>というが聞いたことがない。岡田氏も知らなかったという。今年、6月に制定されたばかり。<読書週間>の<初日>というのがミソ。<読書>とは<書を読む>…。<書>とは<文書>…。文書には<古文書>と<公文書>の二種類があり、<明治>以前のものを<古文書>、明治以降を<公文書>というそうだ。

<書>とは手紙と文書。豊臣秀吉と徳川家康の手紙は現存するものはどちらも約<6500>。だが織田信長はたった<900>という。武将には代筆役の<右筆>がいた。<自筆>は少ない。極めて貴重。信長の<自筆>は何通残っているか。驚いた。たった<1通>だ。信長は逆臣・明智光秀に殺された。本能寺の変。柴田勝家はじめ多くの忠臣も滅びた。秀吉の大阪城には多くの文書があったはずだが、家康に攻め滅ぼされ、火災で焼失。城内にあったはずの信長の文書も失われた。惜しい話だ。

残された貴重な手紙が紹介された。写真に撮ったコピー。凝り性の講師、実物大に復元して見せてくれた。一通は有名な<秀吉の妻>に与えたもの。秀吉の浮気、女グセの悪さを<おね>が信長に<直訴>した。女の<嫉妬>は恐ろしい。手紙に<日付>がない。いつ書かれたかハッキリしない。でも文面から推定できるという。「おほせ(仰)のことく(如)、こんと(今度)ハこのち(此地)へはしめてこし<越」、しうちゃく(祝着)に候…」――この地とは<安土>、この頃、秀吉は大名に出世、長浜に城を構えた。直後から<女遊び>が始まったらしい。直訴を聞いて信長はどう裁いたか。

「それのみめ(見目)ふり、かたち(容姿)まて、いつそやみまいらせ候折ふしよりハ、十の物廿ほともみあけ(見上)候、藤きちろう(吉郎)、れんれんふそく(不足)のむね申のよし、こん五たうたん(言語道断)くせ(曲)事候か、いつかたをあひたつね(相尋)、それさまほとのハ、又ニたひ、かのはげねすみあひもとめ(求)かたき(難)あひた…」。

「あなたのような美しい女性はいない。前に会った時より倍も綺麗になっている。それなのに不足をいう藤吉郎は言語道断、怪しからん。どこを探したって、あなたのような美しい方に、あのハゲネズミは二度と会えはしない」――。妻の<おね>を褒め上げている。だがここからが信長の凄いところ。紙面の都合で原文は割愛するが、「嫉妬は女性の役だが、あまり焼き過ぎてはいけない。どっしりと構え、言いたいことがあっても言ってはダメ」とやんわりと諭している。その上で「この手紙を藤吉郎にも見せなさい」という気の使いよう。誠に見事です。藤吉郎時代の秀吉、どんな顔をして読んだのでしょう。

あの<冷酷無比>と言われる信長に、女性に対する「人情細やかな気配りがあったのか」と評判の手紙。でも若き日の信長の肉声が聞こえてくるような素晴らしい文章。この時、おねは山ほど見事なお土産を持参した。初めて来るというので信長も<答礼>の品物を用意した。だがもらった物が素晴らし過ぎて自分の方が<見劣り>…。「だから今回は持たせない。次回に改めて贈る」とまで書いている。

おねが帰った直後、右筆を呼び、すぐ口述筆記させた。だから肉声が聞えてきそうな生き生きした手紙。講師はいう。信長はユーモアもあり、純粋な人だった。結んだ盟約を自分の方から裏切ったことは一度もない。武田信玄、上杉謙信、浅井長政、松永久秀…。裏切ったのは全て<相手>方。純粋なだけに深く傷ついたのではないか…という。

信長<自筆>の手紙。ナント、この世に<1通>だけしかない。それも署名も朱印も花押ない。講師はいう。自筆には朱印も花押もしないのが慣例という。なぜ自筆と分かるか。この文書は<感状>…。家来の長岡与一郎の戦場での働きを認め、恩賞を与えると約束した手紙。実はまったく同じ日付、同じ紙質で<添え状>が添付されていた。小姓の堀久太郎秀政のもの。そこに<御自筆之披成御書候>とある。実は長岡与一郎とは細川忠興のこと。細川護煕元首相のご先祖(大大名)。家宝として伝えられてきた。

この自筆、素晴らしい<達筆>――。右筆の比ではない。講師が保証した。火山にもそう見える。そして信長の人柄が分かる。<天下布武>の朱印。稲葉山城を<岐阜>城に改めた理由。<麒麟>の花押。これらは信長が生涯、<師>と仰いだ妙心寺派の高僧<沢彦宗恩>禅師から教えられたもの。

<布武>とは<武力>で<天下統一>――と普通は理解されている。だが本当は<違う>という。<武>を分解すると<戈>と<止>――。つまり<戦争>を無くす。戦争をせずに<平和>をもたらすという意味。若き日の信長にはこの<純粋>さがあった。そして恐らく<生涯>変わらなかった。確かに<残酷>な事件を起こした。だが<非情>は信長が<自分>で求めたものではない。講師は断言した。火山もそう信じる。では<非情>とは何か――。

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あかねさす 紫野行き 標野〔しめの〕行き 野守は見ずや 君が袖振る(額田王・巻1−20)

天智天皇が即位したのは天智7年〔668年〕正月。実権を握ってはいても諸般の事情が皇位につくことを許さなかったらしい。「皇太子の時代が長かった」と中西進氏は書く。「万葉を旅する」(ウエッジ選書)にある。しかし、皇太子という制度ができるのは鎌足の息子、不比等の時代になってからだ。この制度が確立されていなかったばかりに、皇位を争って血で血を洗う天皇家の内紛が続く。

天智天皇となった中大兄皇子は苦節のとばりを払うかのように、5月5日、天智は蒲生野に遊猟した。薬猟(くすりがり)と称して、薬草や鹿の袋角を取る行事で、中国風を模したものという。それを復活させたのは朝廷に大勢いた百済系の渡来人の提言があったかららしい。百済滅亡を救援しようと中大兄時代の天智は白村江に出兵、唐と新羅の連合軍に手痛い完敗をこうむる。これも即位が遅れた一因だろう。朝廷人は美麗の限りをつくし遊猟にしたがっていた。

その中に絶世の美人、歌道にも秀でた額田姫王もいた。天智の弟の大海人皇子も参加していたが、大海人はかつての額田の夫、十市皇女という娘もなした仲。だが天智がその額田を愛してしまう。天智の朝廷にあっては二人はおもうように会えなかった。当たり前だ。

そんな折、額田を見た大海人は額田を見かけ、思わず大きく袖を振った。求愛の行為と中西進氏。額田は野守の目を気にしながらも喜びを隠せなかった。それが万葉集に残ったこの一首。

薬猟が行われた蒲生野は紫草を栽培する標野(天皇管轄の野)。立ち入り禁止だから一般の目はない。しかし天皇占有の野。番人はいる。野守とは天智を指すという説もある。その中で手を振る。大胆だ。そんな緊張感もこのうたの魅力らしい。

蒲生野は近江八幡から近江鉄道で一つ目、市辺駅で降りるとすぐ。船岡山にも歌碑もあるという。元暦校本の字をそのまま刻んだ字体の良さも眺望も申し分ないと中西氏。火山も旅情をそそられる。この辺りは古くから渡来人が住み、紫草の栽培も渡来人の技術という。「韓人(からひと)が衣を染めるという紫」という歌も万葉に見えると中西氏。その花は白く可憐だそうだ。初夏に一面に咲き乱れる紫草の中で、絶世の美女だったという額田姫王を偲んでみたいものだ。

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