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「アンコール特集」第3回は「2台のピアノのためのソナタ」ニ長調(K446)――。
「技術的には相当難しい曲です。二人の息がぴったり合っていないとダメ。モーツアルトは素晴らしいピアノの名手。でもお弟子さんも相当な技術があって初めて対等に弾ける。第一楽章、第二、第三楽章とも気を抜けない。もし私がモーツアルトと連弾できるのだったら、第一ピアノと第二ピアノのどっちを選ぶか。私ならモーツアルトが第二ピアノを弾いてくれたらロマンチックだと思います。モーツアルトが私の問いかけに、応え、励まし、慰めてくれる――」。本日のゲストはピアニストの菊池洋子。
1781年の春、モーツアルトは故郷ザルツブルグと訣別、ウィーンの町で音楽家として自立、生活費を稼ぐためにピアノの家庭教師を始めた。弟子の一人が裕福な商人の娘、ヨゼファ・バルバラ・アウエルンハンマー(1758年〜1820年)。モーツアルトより2歳若い彼女はプロの演奏家を目指していた。
彼女の容姿はモーツアルトの好みではなかったらしい。酷評しているが、才能は高く評価していた。「彼女はうっとりするような素晴らしい演奏をします」と1781年6月2日の父レオポルト宛の手紙に書いている。「ウィーンは確かに<クラヴィーアの国>です。ボクの得意の分野が流行っています。もし落ちぶれることがあるとしても数年後で、決してその前ではありません」とも父へ。
ウィーンのアウガルテン庭園がテレビに映った。並木の美しい広大な庭園。ここはかつてハプスブルグ王家の庭園だったが、1775年、皇帝ヨーゼフ2世がウィーン市民に公開した。アウガルテン宮殿。今は陶磁器工房となっているが、当時はダンスホールになっていて、ビリヤードとレストランの設備があった。また毎週日曜日の朝、演奏会が開かれていた。モーツアルトはここでアウエルンハンマー嬢とよく連弾をしたらしい。
本日の一曲「2台のピアノのためのソナタ」はアウエルンハンマー邸で開催された私的演奏会で彼女と連弾するために1781年11月に作曲された。初演も彼女の家。連弾だった。ヨーゼフ2世の宮廷は当時、緊縮財政で行事を減らしていたが、貴族や裕福な市民の邸宅では頻繁に演奏会が開かれ、モーツアルトはよく出演していたらしい。アウエルンハンマー邸でも演奏会が開催され、モーツアルトは毎日のように訪問、食事も共にしていた。
モーツアルトは<人気ピアノ教師>だった。1781から83年にかけて5人の弟子をとったが、「自分の評価を高めるため、高い授業料で少数の弟子しかとらない」という方針を貫いた。「レッスン料を安くすれば、もっと多くの弟子を取れますが、そんなことをしたら、たちまち信用を失ってしまいます」と1781年6月16日に父に書いている。
秋になるとモーツアルトがアウエルンハンマー嬢と結婚するらしいというウワサが広がった。確かにヨゼファはモーツアルトに好意を寄せていたらしい。だがモーツアルトはウワサを流したのは彼女だと疑い、その厚かましさに腹を立てた。手紙の中で彼女のことをコテンパンに貶した。「もし画家が悪魔をありのままに描こうと思ったら、彼女の顔を頼りにするにちがいありません。彼女は田舎娘のようにデブで、汗っかきで、吐き気をもよおすほどです」(1781年8月22日)――。
それでもモーツアルトは彼女のために「ヴァイオリン・ソナタ集」を書き、「クラヴィーア変奏曲」とともに彼女に献呈している。
1781年冬、モーツアルトに年俸400フロリンという高給でヴュルテンベルグ公女のクラヴィーア教師に就任する話が持ち上がった。1フロリンは現在の貨幣価値で約1万円というから年俸400万円。だがこの話は実現しなかった。
もっともモーツアルトはウィーンで大成功を収めていた。特に1783年3月23日にモーツアルトが主催した演奏会の収益は1600フロリン(万円)に上ったというから凄い。クラヴィーア教師としてのモーツアルトは人気は抜群。今でいえば<カリスマ教師>というところか…。こんな暮らしがモーツアルトのウィーンでの第一歩だった。
(平成18年8月16日)
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