|
+++昭和35年(1960)から平成9年(1997)に至る<企業戦士>時代、「7000人規模の<国際>企業の人事畑」で、その過半を過ごした火山、毎年、年賀状の交換には苦労した。最盛期は<200通>に迫る。自分では世間にくらべ、多いのか少ないのか、関心もなかったから<判断>できない。だが約20年前、<定年>を迎えた途端、正直、<全廃>したいとの<衝動>に駆られた。人事総務本部の中で僅か3名の高級管理職(部長)だったのに<社友会>に加入しなかった。本来、大事件!会社との<絶縁>宣言…。だが暗黙の理解を得た。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2017年11月30日
全1ページ
[1]
|
「東京生まれの脚本家、倉本聰さんが北海道・富良野への移住を決めたのは40歳を過ぎた頃だった。この時、真っ先に見に行った場所の一つが病院だという。『ああ俺はこの病院で死ぬことになるンだな』。そう感じたと、回想録『獨白2011年3月』で振り返る。▼長く暮らした東京・杉並の街並みはすっかり変ってしまった。ふるさとらしいふるさとを持たなかった倉本さんにとって、ここで死を迎えてもいい』と思える富良野こそ、自ら選んだふるさとだった」と「日経」コラム<春秋>(8月13日)…。「死だの老いだの」…。えっ! |
全1ページ
[1]



