火山の独り言

時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり

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「万葉集」の巻1と巻2は橘諸兄の意向で<反藤原>の<勅撰集>とすべく天平勝宝5年(753年)に完成された。聖武上皇は許可したが、孝謙女帝と光明皇太后が同意しない。結局<準勅撰集>に留まった。
女帝と皇太后の女性二人は藤原仲麻呂を寵愛、その意向を受けて<勅撰>を許さなかった。

恭仁京への<遷都>失敗、東大寺建設による藤原氏の氏寺<興福寺>支配の失敗、万葉集<勅撰>の失敗――。橘諸兄・奈良麻呂父子の失敗が続いた。諸兄は東国からの防人徴集で仲麻呂打倒のクーデターを計画したらしい。だが仲麻呂の警戒網にひっかかり不発に終った。重なる<失敗>。天平勝宝7年(755年)の<防人閲兵>以降、大伴家持は橘を見限ったように見える。急に<仲麻呂>派の貴族へ急接近が始まる。

天平勝宝9年(757年)1月、諸兄が世を去った。邪魔者が消え仲麻呂(後の恵美押勝)の専制は加速された。かねて時をうかがっていた奈良麻呂が<暴発>せんとした瞬間、クーデターが露見する。仲麻呂が放っていた密偵がすぐ密告したのだ。大伴一族の多くはクーデターに加担、逮捕され、処刑された。だが家持は動かず、裏切り者、卑怯者の汚名を受けても<傍観>、甘んじて<長生き>しようと覚悟を決めていた。

古代最大の軍閥・大伴家。律令政治の中で次第に没落、藤原家から敵視されてきた家系だ。家持には仕官した時から橘家の引き立てを受ける以外はなかった。橘諸兄も奈良麻呂も、家持を<利用>する必要があった。これは<宿命>だったかもしれない。だが家持は<優柔不断>だた。梅原猛は「我々はもっと彼が勇敢であったらと思う。それでも大伴氏は滅亡していたかもしれないが、武勇の大伴氏らしい滅亡のしかたがあったと思う」(「天平の明暗」小学館「人物日本の歴史」第2巻・283頁)――。

若き日の家持はプレイボーイだった。わずか14歳で父旅人を失い、後ろ盾のない家持には宮廷社会での出世の道がない。そう考えたことと関係がありそうだ。特に藤原一族は武智麻呂以下4兄弟が健在、いずれ劣らぬ政治家。全盛を誇っていた。

「万葉集」巻4と巻8のおびただしい相聞歌。家持の相手は坂上郎女、坂上大嬢、笠女郎、山口女王、大神女郎、中臣女郎、河内百枝娘子、巫部麻蘇娘子、粟田女郎子、紀女郎、日置長枝娘子、その他ただの娘子、童女と書かれたものもある。凄い。「郎女というのは既婚者、女郎は未婚者を意味する。家持の恋の相手は人妻、娘の区別なく、また身分の上下の区別なく多岐にわたっていた。童女というようなものまでくどいているのを見ると、彼は漁色家であったとみてさしつかえない」(247頁)と梅原猛。

「万葉集」最大のスターは柿本人麿。<反藤原>の「勅撰集」を意図した原万葉集では<国家犯罪者>としての人麿の存在は欠かせない。梅原猛は「水底の歌―柿本人麿論」で「罪無くして死す」が人麿の歌に秘められたダイイング・メッセージと<論証>している。「原万葉集」は藤原不比等政権への痛烈な<告発>の書だったのだ。

人麿も多くの<恋愛歌>を残している。「漁色家といえば人麿も家持に負けず漁色家といわねばならない」(同・247頁)。だが歌は大きく違うという。
人麿は熱情的。恋に全身全霊をかけている。彼が愛した女性は一人ではない。だがどの恋も真剣。歌には熱情が溢れている。だが「家持は違う。彼はもっと冷静である。どうも恋に燃えない。どこか遊戯的である」(同・247頁)と梅原。「万葉集」巻4に<笠女郎>(かさのいらつめ)が家持に寄せた24首がある。

朝霧に おぼに相見し 人ゆゑに 命死ぬべく 恋わたるかも
思ふにし 死(しに)するものに あらませば 千(ち)たびそ われは死に返らまし
相思はぬ人を 思ふは大寺の 餓鬼の後(しりえ)に 額づくがごと

情(こころ)ゆも 我(あ)は思はずき またさらに わが故郷に 還り来むとは 
近くあれば 見ずともありしを いや遠に 君が座(いま)さば ありかつまじし

「ここに恋に燃ゆる女がいる。このような歌は実感なくしてはつくりえない。女はたいへんな男を恋したようである。非情でエゴイスティックな貴公子。恋すべきでない人を恋した女は自らを『大寺の餓鬼の後に額づくごと』と戯画化する」(同・248頁)。<家持>への<恨み>と<皮肉>である。
最初の3首の後、いったん別れた二人が再会。それが後の2首。家持も2首で答えている。

今更に 妹に逢はめやと 思へかも ここだわが胸 おぼぼしからむ
なかなかに 黙(もだ)もあらましを 何すとか 相見そめけむ 遂げざらまくに

女は再会して再び恋情を燃え上がらせる。自分の恋情に戸惑ってもいる。だが男の反応は「今更お前に遭おうとは――。どうせ一緒になれないのだから。どうしよう」と逃げ腰。笠女郎だけではない。紀女郎(きのいらつめ)にも家持は恨まれていた。歌がある(略)。

人麿の場合は歌集にあるのは人麿の歌ばかり。相手の歌はほとんどない。だが家持は逆。女たちが寄せた歌が多く、家持の歌は少ない。家持は愛するより、愛されることを好む――。「甘え子の心理。妾の子というコンプレックス。愛への欲求不満」と梅原猛は見る。
(平成18年5月24日)

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中学同期の句会「気まま会」。10月の「兼題」は「芋」「新米」だった。火山は珍しく「自由題」を2つ作った。クラシック大好きな火山、「月光」なら、すぐベートーヴェンになる。

♪月光に秘めし想ひやピアノ弾く(火山)

「ベートーヴェンが月夜の街を散歩していると、ある家からピアノの演奏が聞こえてきた。よく見ると、それは盲目の少女だった。感動したベートーヴェンはその家を訪れ、溢れる感情を元に即興演奏を行った。自宅に戻ったベートーヴェンは演奏を思い出しながら、ピアノ曲を仕上げた。それが『月光の曲』だ」――。このエピソード。ヨーロッパで生まれたというが、戦前の日本でも尋常小学校の教科書に掲載されていた。火山も知っている話。

だが火山の俳句は、これとは無縁。「秘めし想ひ」とは何か。誰がピアノを弾いているのか。「月光の曲」は正式には「幻想曲風ソナタ嬰ハ短調・作品27−2」または「ピアノソナタ第14番・月光」――。1801年、ベートーヴェン30歳の作品。貴族令嬢ジュリエッタ・グィチャルディ(1784〜1856)に献呈されている。「1801年11月16日付友人ヴェーゲラー宛の手紙に『この少女を愛している』」(平野昭「ベートーヴェン」新潮文庫・61頁)――。

ジュリエッタは1800年にウィーンに引っ越してきた。ベートーヴェンと交際が始まったが、彼女の母はブルンスヴィク伯爵家の出。だがブルンスヴィク伯爵家には長女テレーゼ(1775〜1861)と次女ヨゼフィーネ(1779〜1821)がいた。美しい姉妹のピアノ教師となったベートーヴェンは、いつしか姉テレーゼに「密かな想い」を抱くようになってしまう――。

テレーゼの「父ブルンスヴィク伯は、ハンガリーの古い貴族の出身であったが、1792年に47歳の若さで他界すると、母は一男三女を育て、1799年5月には長女テレーゼと次女ヨゼフィーネを連れてウィーンの社交界に登場する」(平野昭・69頁)――。そしてお立合い、テレーゼは音楽史上<最大の謎>とされるベートーヴェンの「不滅の恋人」候補の一人。だが妹ヨゼフィーネも候補。彼女は1799年、ダイム伯爵と結婚していたのだが…。

「『不滅の恋人』候補としてヨゼフィーネがクローズ・アップされ、姉テレーゼ説が一転して妹ヨゼフィーネになったのは、1949年に『(ベートーヴェンが)ダイム伯爵夫人(ヨゼフィーネ)に充てた13通の手紙』が発見されてからであった。恋文的内容をもったこれらの手紙には日付はないが、ヨゼフィーネがダイム伯と結婚した1799年から、1810年にシュタッケルベルク男爵と再婚するまでの間に書かれたものと推定されている」(121頁)――。だが平野昭「ベートーヴェン」(新潮文庫)によれば、新しい恋人が登場する。

1810年、ベートーヴェンは「ゲーテの悲劇『エグモント』のための付随音楽(作品84)に注力していた。佳境にあった5月頃、親友ヴェーゲラー(「月光の曲」献呈の貴族令嬢への愛を打ち明けた)に「自分の誕生年を調べてほしい」と頼んでいる。この依頼は「ベートーヴェンが真剣に結婚を考えていたことと結び付けて考えられている」(平野・105頁)。

「4月から6月頃のものと推定される日付のない多くの手紙がテレーゼ・マルファッティとの結婚の意志を物語っている。しかし、40歳の男が求婚した相手は18歳の娘――。テレーゼの姪はいう。『ベートーヴェンは伯母を愛し、結婚を望んでいましたが、伯母の両親が許さなかった』。ベートーヴェンは、またも苦い経験をする」(平野・105頁)――。

だがこの恋は人類に素晴らしいプレゼントを残した。ベートーヴェンはテレーゼにピアノ曲を献呈。それが「エリーゼのために」(ドイツ語原題:Für Elise)。この曲は本来「テレーゼ(Therese)のために」だった。だがベートーヴェンの悪筆が解読不能…。「エリーゼ(Elise)」となった。自筆楽譜がテレーゼの手紙箱から発見されたため「正体」が判明した。

だがこの頃、新しい恋が芽生えていた。キューピット役はベートーヴェンが歌曲や「エグモント」を作曲した文豪ゲーテと親交の厚かったベッティーナ・ブレンターノ。彼女にはウィーンの代表的文化人として信望の厚かった兄フランツがいた。彼の妻はマリア・テレジアとヨーゼフ皇帝の寵臣だったビルケンシュトック伯の娘アントーニエ(1780〜1869)。

ブレンターノ夫妻と交際を始めたベートーヴェンは「実父を亡くしたばかり、病気がちでベッドに伏すことの多かったアントーニエをしばしば訪れ、隣室からピアノ演奏で慰め力づける。こうした同情がいつしか<真の愛>へ変わっていった」(平野・106頁)。

「ベートーヴェンの死後に遺品中から発見された宛名不明の3通の情熱的な恋文、『不滅の恋人への手紙』がいつ、どこで、誰に宛てて書かれたかをめぐって、ベートーヴェン研究者たちは現在まで無数の推理と謎解きに夢中になってきた。(中略)相手が誰であろうと、数多く残された女性宛の手紙の中で“Sie”(あなた)ではなく、極めて親しい間柄だけに使い“Du”(お前)で呼びかけているのは、この3通だけ…」(平野昭・118頁)――。

アメリカの研究家M・ソロモンの説(1972年)。1812年7月のアントーニエとベートーヴェンの足跡を検証。「アントーニエは夫フランツと共にベートーヴェンと同じ頃ウィーンを発ち、プラハを経てカールスバート(手紙に現れるK)に到着。ベートーヴェンもプラハを経てテープリッツ到着。ここからKに向かって出る郵便馬車」(平野・120頁)に乗る。平野昭は「アントーニエとベートーヴェンはKで一夜を共にした」。これが“Du”の理由。
(平成23年11月6日)

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