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「『ガリ切り』の名人があちこちにいた――などと書いても、若い読者は首をかしげよう。その昔、手軽にプリントを作るには謄写版印刷機が欠かせなかった。ロウ引き原紙に鉄筆でガリガリと音をたて文字を書くからガリ版と呼び、その作業をガリ切りと言ったのだ。▼上手なのは、まず学校の先生だった。インクにまみれつつ、見事な『学級だより』を刷る人が少なくなかった」と「日経」コラム<春秋>(12月5日)…。今朝、発見。感無量――。
「ガリ切り」!火山の<人生>を決めた。そう言ってよいと思う。なぜか――。今春、<傘寿>80歳を迎えた火山、1960年(昭和35年)3月1日、中堅電機メーカーのわが社に、当年採用された1800名の新入社員の、誰よりも早く出社を命じられ、与えられた<初>仕事が「ガリ切り」だった。「60年安保」で自民党<岸信介>政権が国会デモ渦中にあった頃、わが社も<電機労連>史上に名を残す「100日闘争」で揺れていた。毎朝、労組は門前でチラシ闘争。会社側も対抗せざるを得ない。火山は「ガリ切り」で「会社の犬」となったのだ。
「君は、どこでガリを覚えたの」と上司の人事課長。第3次入試(社長面接)で火山を「アカ」かも…と目を付けた彼氏、「労組」加入できない「人事」に火山を配属、封じ込めを図ったが、それでも疑惑を忘れず、きっと「学生運動で覚えた」と言わせたかったらしい。だが意外、火山の答えは「中学時代。『学級新聞』です」というものだった。実際、中2の時、同級の「異人さんみたいな美少女」に恋した火山、彼女の気を惹きたくて「学級新聞」を企画・発行、ガリを覚え、切り続けたのだ。ゲーテの「若きヴェルテルの悩み」にも夢中――。
「もう一つ、熟練のガリ切り職人を多く生んだのは住民運動や学生運動である。粉砕!阻止!立ち上がれ!鉄筆でぎっしりと、こういう言葉を刻んだビラが大量に印刷されて街に、キャンパスにまかれた。▼消えてしまったはずの、そんな印刷物に千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で出合った。10日まで開催の『<1968年>無数の問いの噴出の時代』なる企画である。全共闘や反公害運動が最も高揚した68年を軸に据え、ナマ資料から往時を考える野心的な試みだ。あの時代が歴史展示となるだけの歳月が過ぎたのだろう」(春秋)――。
<60年安保>から半世紀超…。慶大<三田>キャンパス「平和の会」委員長も体験した火山、「学生運動」にも身を投じたが、例の「樺美智子」さん事件の時は、既にわが社で「ガリ切り」に励んでいた。でも既に<57年>の歳月が流れた。「♪若き血に燃え」ていた日も「♪月去り、星移り」(慶應賛歌)と遠くなってしまった…。「異人さんみたいな美少女」への恋も、既に<65年>の彼方だ――。でも火山の「学級新聞」は次々と<伝染>!ついに全学級、全学年に「飛び火」!一斉風靡の<嵐>を呼んだ。生涯の思い出とも言える――。
でも「ガリ切り」が「人生を決めた」とは――。1959年(昭和34年)、慶大経済4年となった火山、ゼミではマルクス「資本論」を専攻、「卒論」は「資本主義における窮乏化法則とプロレタリア革命」…。「格差」「貧困」に注目。「生涯を労働運動に捧げる」決意だった。だが「君に一つ確認したい。君は<思想>は大丈夫か」。社長面接に陪席の人事課長、創業者社長(資本家)のご下問「どうしたら、景気がよくなるか」「簡単です。<労働者>の賃金を上げてください」の回答に仰天!火山を採用したものの、人事に封じ込めた――。
「ケネディ、クリントン、そしてマルクス」――。これは火山が定年後、地元「公民館」主催「私の戦後史」記念文集に寄稿したタイトル。マルクスの「唯物史観」を学びつつも、米国大統領ケネディにも憧れ、「定年」直後、家内と米国東海岸を訪問、ニューヨークの名門ホテルでクリントン夫妻と同宿、更にブロードウェイでミュージカル「オペラ座の怪人」も夫妻と同じ舞台を鑑賞したという記録。「定年」時の火山は「理事・教育部長」…。「労働運動」どころか「資本家」陣営の<お先棒>まで演じた。これも<ガリ切り>が決めた――。
「▼500点に及ぶ資料に感嘆し、そうそう『ベ平連』は……などと語り合っている人たちの多くは<団塊>らしき世代だ。ガリ切り自慢だった人もいるに違いない。帰りがけには、往年の『タテカン』を模した案内板の前で記念写真。あまたの記録が来場者の記憶を揺さぶってやまないようだ。国立博物館の、思わぬ<挑発>である」(春秋)――。正直に書こう!火山、このコラムに「<今昔>の感」を覚えた。何が「べ平連」「タテカン」だ。火山の「60年安保」は1959年…。1968年とは「一世代」違う…。でも「笑うに笑えない」――。
1968年(昭和43年)…。火山、31歳。新婚3年目。「東京オリンピック」が終わり、火山の家電業界も日本経済も反動の<不況>下にあった。松下幸之助が営業副本部長の肩書で<現役>復帰。社業<再興>に乗り出して話題を呼んだ。不況といえば当時の火山、「人事エリート」の座を追われ、「生協」という名の会社売店に左遷されていた。でも<落魄>のはずが実際は「定時出勤」「定時退勤」の毎日、現役時代で一番恵まれていたのかも――。
しかも「ビッグストアへの道」(渥美俊一。川崎進一)で<SSDDS>も研究・実践…。「公認会計士」資格も目指して頭角、「日本生協連」本部から「経営コンサルタント」(公認会計士)と「横浜生協」(現・COOP「神奈川」)から「マーチャンダイザー」(役員待遇)のスカウトも得て光り輝いていた。やがてわが社「人事部」からも「凱旋」話が持ち上がる――。
「ガリ切り」で当時の人事課長、火山を「アカ」(学生運動)と睨んだが、実際は「学級新聞」と知ると、今度は<PR>(Public Relations)=「社内報」編集長に抜擢・起用した。これが1987年2月、国内営業に新設の「マーケテイング推進本部<初代>研修部長」拝命となり、1997年(平成9年)6月20日の定年。「理事・教育部長」につながった――。
(平成29年12月5日)
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