火山の独り言

時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり

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「西行ほど桜の歌を数多く、しかも生涯、歌い続けた歌人はいない。吉野の桜だけでも、六十余首を数えるが、古典和歌をざっと調べてみても、実際に吉野の山に踏み入り、そこに咲く桜を目のあたりにして詠んだ歌人は、西行以外にはほとんど無かったといってよいのではないか」(河野裕子<西行と桜花>・小松和彦ほか「西行と兼好」ウエッジ・53頁)。

この連載を「花に狂ふ西行」と名づけた。それは西行が生涯、桜を歌い続けたからだ。しかも西行の桜の歌が他の歌人と決定的に違うのは<歌枕>として想像された<架空>の地の吉野ではなく、実際に吉野に足を運び、桜を自分の目で見、触り、香を嗅ぎ、風にそよぐ桜の音を聞いて、歌を作っていることだという。

聞きもせず たばしね山の さくら花 吉野のほかに かかるべしとは(西行)

「あの名高い吉野以外で、これほど素晴らしい桜を目にするとは、束稲(たばしね)山が桜の名所などとは聞いたこともございませんでした」(志立正知秋田大教授)。

火山が3月27日、東京・隅田公園の観桜散策から戻ったら、中学同期の句会の仲間<風鈴>さんから、大きな封筒の郵便が来ていた。開けたら「感じる旅、考える旅『トランヴェール』3月号<特集>平泉の桜とみちのくの西行を旅する」という雑誌が出てきた。西行のことがいろいろ分った。西行は26歳の時、陸奥の旅をしていることも分った。

行く春や 西行法師の 夢を見る(火山)

これは火山の近作。それを知っていて<風鈴>さんが送ってくれた。「句会の前に、この雑誌を読んでいたら、火山の句を評価できたのに…」という趣旨だ。有難い。実は火山のこの自信作、仲間では誰も選句してくれなかった。

だが<よい句ですね>――と評価してくれた方が現われた。なんと<吉野の宮司>という方。インターネットで火山の記事を読んでくれたのだ。世の中、実に面白い。
「行く春やの句は最高にいいですよね。桜の下で酒を飲み明かし、満月に照らされ、起こしたけれど起きなかった人生こそ・・・俳人の廃人たる真骨頂です。『咲けなくて何の己が桜かな』『酒無くて何の己が火山かな』」――。こんな痛快なコメントまで付いていた。

<陸奥の歌枕に憧れた若き歌人・西行>――。「西行が陸奥へ初めて旅をしたのは、康治2年(1143年)の26歳のときではないかと推察されている。その旅の目的は、100年以上も前の歌人で陸奥の歌枕を旅した能因法師の足跡を慕い、その地を実地に訪ねることにあった。陸奥の歌枕に憧れたのは、西行や能因ばかりではない。王朝の歌人にとって、陸奥は歌枕の宝庫として限りない憧憬の対象にされていたのである」(「トランヴェール」8頁)。

西行の先祖は藤原秀郷。平泉に<中尊寺>など黄金文明を開化させた藤原秀衡も西行の遠縁に当たる。前記の桜の<束稲山>は平泉の高館(義経終焉の地)から望むことができる。「『吾妻鏡』の文治5年(1189年)9月27日条は、束稲山の桜の規模について『三十余里の際(あいだ)の桜樹を並べ植う』と記している」(「トランヴェール」7頁)――。西行が眺めた<束稲山の桜>は西行の歌のとおり素晴らしいものだったのだ。

前回の「<遁世>は<この世>と<あの世>の境界にある<もう一つの世>」で触れた<出家遁世>――。西行もまた23歳の若さで妻子を捨て<遁世>を選んだ。「世捨てはブームのようなもの。できるのは貴族や武士階級に属する人たちだ。民衆とは縁がない。世に捨てられたような彼らの立場からすれば贅沢な行為」(「西行と兼好」35頁)。

鳥羽上皇の院を守る「北面の武士」だった佐藤義清(西行)が保延6年(1140年)23歳の時に出家していることは内大臣の藤原頼長の日記「台記」に書かれている。「康治元年(1142年)3月15日に法華経の勧進のため西行が当時23歳だった頼長を訪問、頼長は法華経28品の一つ<不軽品>(ふぎょうぼん)を自筆で書写することを承諾」したという記事だ。

これを読んだ火山。思わず唸った。西行の凄さを考えた。頼長は時の摂政関白太政大臣・藤原忠実(ただざね)の次男。史上最年少の17歳で内大臣になった頼長は「日本一の大学者、和漢の才に富み」と謳われた。その頼長に取り入り、勧進をさせ、日記にまで自分を記録させた。並みの<才覚>ではない。しかもこの時、西行は25歳、まだ出家して2年。

因縁は恐ろしい。この頼長は後に保元・平治の乱を引き起こす。しかも平治の乱では後に鎌倉に武家政権を開く頼朝の父・源義朝が敗死する。義経が平家を滅亡させながら、後に<平泉の高館>で自刃するのも無関係ではない。――だが西行の出家に話を戻す。「西行の出家遁世もブームにあやかった向きもある。限りなく隠遁したとは言えきれず、かといって法衣をまとって旅に終始した」(「西行と兼好」35頁)のでもなかったという。

「歌人たらんとする欲求が強ければ旅は重要な手段となるが、それだけでない目的で旅に出たこともある。勧進である。『世を捨つるとも世に捨てられずば、遁れたるにあらず』と言い放ったのは明遍(みょうへん)であるが、ここには西行への皮肉がこめられている」(同)――。明遍は西行より24歳若く「往生論五念門略作法」を著した法師。面白いのは平治の乱で義朝が殺した時の権力者<藤原信西>の遺児ということ。げに因果は巡る。
(平成19年4月3日)

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「全般に、パリはずいぶん変わりました。15年前のような礼儀正しさをフランス人はもうとっくになくしてしまったのです。今ではほとんど粗野といっていいくらいで、その傲慢さも実に鼻持ちなりません」――。モーツアルトがパリに着いてから父レオポルドに書いた手紙の一節だ。頼りにしてきたグリム男爵もよそよそしかった。「グリム氏は子どもには力も貸してくれるでしょうが、大人には何もしてくれません」。<神童>と騒がれた頃と最近とを比較した皮肉だ。

「毎日モーツアルト」(3月31日)に登場したのは指揮者の大野和士。モーツアルトがパリ滞在中に作曲した「交響曲」第31番ニ長調を紹介した。「壮大に始まる華麗な曲」という。「まずグランディオーソ(荘重に)。そして(音階が)上がっていく。そしてこれもモーツアルトの特徴の一つだが、上がると必ず下がる」と解説。確かにそうだ。面白い。「葉っぱが落ちるように下がる。<対照>の妙、洒落ている。茶目っ気たっぷり。そしてトランペットとティンパニーが荘厳に響く――」。指揮者らしい親切な解説が続く。

モーツアルトは就職活動に追われながらもチュイルリー公園によく足を運んでいた。公園の一郭にある宮殿では<コンセール・スピリチュエル>という18世紀に始まった新しいスタイルの演奏会が開かれていた。ヨーロッパ中から演奏家が集まり、競い合っていた。パリには当時の最大規模57人のオーケストラがあり、音楽監督のルグローがモーツアルトに「オーケストラの性能をフルに発揮できる交響曲を作曲して欲しい」と依頼してきた。

モーツアルトは飛び上がった。久しぶりの大仕事。「10種類の楽器のための交響曲」――。ヴァイオリンやチェロなど弦楽の他に、木管や金管を駆使した壮大な曲を計画した。モーツアルトには珍しく、何回も推敲を重ねた。実際、モーツアルトが大きく<×印>を書いた自筆の楽譜がテレビに何回も写し出された。びっくり。天才モーツアルトは「泉のように湧き出す音楽をひたすら書きなぐるだけ」。そう信じていただけに、火山も仰天。

1778年6月、演奏会当日。聴衆の反応が気になったモーツアルトは客席に座ってワクワクしていた。だがナレーション。モーツアルトの言葉だ。「第一楽章の途中で、ここは必ず<ウケルに違いない>と思っていたところが来ると、聴衆は大喜び、拍手喝采をした」。嬉しくなったモーツアルトは演奏会場を飛び出し、カフエやレストランが当時、たくさん集まっていた広場、パレ・ロワイアルへ行った。そして大好物のアイスクリームを買って舌鼓を打ったという。パレ・ロワイアルの夜景が映った。凄い。

この「交響曲」(K297)は<パリ交響曲>という愛称で親しまれている。モーツアルトはこの<大成功>で久しぶりに<自信>を取り戻した。

しかし、その喜びは長くは続かなかった。母・アンナ・マルアの死が迫っていたのだ。有頂天のモーツアルト。まだそれを知らなかった。

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「名曲探偵アマデウス」(NHK)で昨3月12日(金)、「リスト・時を超えた名ピアノ曲」を観た。「エステ荘の噴水」を美女ピアニスト<小山実稚恵>が弾く。「巡礼の年・第3年」の第4作。1877年の作曲というから、リスト(1811〜1886)66歳の作品。ラヴェル(1875〜1937)の「水の戯れ」。ドビュッシー(1862〜1918)の「水の反映」に影響を与えたという。リストが「印象派」の魁(さきがけ)となる作品を遺していたとは驚きだ。

その昔、中学の恩師、亡き<K>先生が「リストには天才と凡人が同居している」とピアノを弾きながら放言したのが、妙に印象に残っている。たぶん、大作曲家リストを<凡人>と決め付けた大胆さに、ビックリしたのだ。そのカッサン(ニックネーム)が「モーツアルトが好きだった」と未亡人で元・絶世の美女<S>先生から、数年前に聞き、また驚いた。

1847年、35歳のリストはロシアのキエフで、28歳の侯爵夫人カロリーネ・イワノフスカと出会う。リストは彼女に夢中になる。夫と別居中だった彼女、離婚してリストと結婚することを決意するが、宗教上、法律上の問題が壁となる。二人が結婚式を挙げることになったのはリスト49歳の1861年だった。胸弾ませて、ローマに急行したリスト。

だがリストに敵意を持っていたロシア側の親戚が抗議、結婚式を挙げることはできなかった。失意のリストは1865年、ヴァチカンに引越し、聖職者となる。そんな中、作曲されたのが「エステ荘の噴水」。陰鬱な曲ばかりの「第3年」。唯一の明るい響きが、この一曲。

若き日のリスト、火山が大好きなショパンとも親交があった。1831年2月26日、パリのプレイエルホールで開かれたショパン「デビュー演奏会」が出会い。「ショパンは自作のノクターン、マズルカ、ピアノ協奏曲を弾いたが、リストはショパン特有のポエジー、夢見る繊細な美しさ、ハーモニーの大胆な転調、自由自在な音色の切替え、ノクターンとマズルカにおけるデリカシーなテンポ・ルバートには類を絶する深い感銘を受けた」という。

最後にとっておきのエピソード。明治の元勲<伊藤博文>がリストに会ったという。時は1883年1月1日、伊藤博文はワイマールに着いた。「明治憲法」制定<研究の旅>。 伊藤はワイマール大公と知り合いだったため2日間滞在、大公から夕食と夜会に招かれた。42歳の伊藤は、当時73歳のリストの演奏に強い印象を受け、「あの者を、わが国に連れて帰って西洋音楽の指導をさせたい」と言った。西園寺公望は「とんでもない。あの方は高齢だし、国宝級の偉い音楽家だからムリ」とあわてた。

「それなら四国の一つくらい与えて、四国の守にすればいい」――。 残念ながら、この話はリストに伝わらず、立消えになったという。だが明治の日本は、やがて西洋文化に狂う<鹿鳴館時代>に突入するのだ。凄い!
(平成22年3月13日)

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