火山の独り言

時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり

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「旧約聖書はイスラエルの建国史として読むことができたが、新約聖書の方は徹頭徹尾、信仰のための古典である。これを信仰を離れてダイジェストすることは思いの他、難しい。準備のため2年を越える歳月を費やしたが、適当な方針が定まらない。――どうしようかな…。『旧約聖書を知っていますか』の時には10日間ほどイスラエルに旅して、大いに収穫があった」と「日経」連載「私の履歴書」<阿刀田高>(6月15日)…。えっ、<新約聖書>!思わず、火山も刮目!若き日の火山、<初恋>にもつながる<古傷>が、ある――。

「じゃあ、今度はイタリア、トルコへ行こう――。史跡を巡るだけでなく、関連する民衆、風物、絵画などにも広く留意するよう努めた。信仰には余り触れず、旅のエピソードを交えながら新約聖書をダイジェストしよう、と、そんなプランである。いろいろな見聞が役立ってくれたが、とりわけ心に残ったのは、ヴェネチアの西、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁を飾るジョットのフレスコ画だった。文字の読めない人々に対してイエスやマリアの生涯を伝えてつきづきしい。

しかし新約聖書は少なくともイエスが何であったか、筆者が何ほどかの判断を持たなければ意味のあるダイジェストにすることさえ、難しい。早い話、綴られている数々の奇跡について、――こんな不思議なことがあったんですよ…。だけでは信仰を持たない読者への解説にはなりにくい。さりとて――お伽噺のようなものですね…、では、なお悪い」(日経)…。

「私は信仰こそ持たないが、信仰を持つことには深い敬意を抱いている。執筆する以上、新約聖書に記されている奇跡。常識では納得できないことについて私なりの考えを述べなければ<知っていますか>にはなりにくい。悩んだ。悩んだ末、とりあえずイエスを遠い混乱した時代の社会改革者と考えた。これだけでも信者諸賢の糾弾を受けることだろうが仕方ない。そして数々の奇跡の類は古い社会にありがちな伝承であり、そうではあるが、そこには表面に語られていることを越えて貫く英知があった、という解釈を採った」(日経)――。

<阿刀田高>(1935年1月13日〜)は作家、小説家。『奇妙な味』の短編で知られる。2007年から2011年まで日本ペンクラブ会長。東京生まれ。両親は共に宮城県仙台市出身。父方の伯父の阿刀田令造は西洋史学者で第二高等学校第9代校長。名校長と謳われた。令造の父の阿刀田義潮は宮城県名取郡下増田村(現:名取市)の初代村長」と「ウィキペディア」。

「本籍は東京・西荻窪。戦時中は宮城県の名取に疎開、増田小学校に通学する。16歳の時、長岡市で鋳物工場を経営していたエンジニアの父を亡くし、貧しい母子家庭で苦労して育つ。長岡市立南中学校、新潟県立長岡高等学校を経て東京都立西高等学校に転校、長岡空襲で被災。少年時代から科学が好きで、海軍技師、医師、薬剤師と志望を変えた。1954年、早大第一文学部フランス文学科に入学。もっぱら奨学金と家庭教師のアルバイトで自活。

早大に入学した当時は新聞記者を志望していたが、1955年に結核を病んで休学、16か月間の療養生活を送る、このため志望変更を余儀なくされ、1960年に大学を卒業した後、文部省図書館職員養成所に入学する。1961年から国立国会図書館に司書として勤務する。この頃、恩師が出版した日本語関係の小冊子に、古今東西の殺し文句に関する随筆を発表したところ、思いがけず『朝日新聞』の文化欄に取り上げられて喜ぶ。1964年9月、池田書店からの依頼で『ころし文句』(長崎寛との共著)を上梓する」(ウィキペディア)――。

「引き続き、池田書店から『笑いのころし文句』『ユーモア一日一言』などの随筆集を刊行する。1969年、著書『ブラックユーモア入門』(KKベストセラーズ)がベストセラーとなったことに勇気を得て、1972年に退職し、筆一本の生活に入る。ミステリーやブラックユーモア分野でのショートショート、エロスが盛り込まれた短編が多く、今日までに書いた短編の数は800にもおよぶ。ショートショートに関しては、『星新一ショートショートコンテスト』の審査員を引き継ぐなど、星新一死後の第一人者的存在である。

また『ギリシア神話を知っていますか』など、世界各国の古典を軽妙に読み解いた随筆でも知られる。世界の宗教ダイジェスト本『旧約聖書を知っていますか』『新約聖書を知っていますか』『コーランを知っていますか』の三部作を出版している」(ウィキペディア)――。

「イエスは新しい<哲学>を抱いて人々の心に訴え、考えを変えさせ、よりよい社会の可能性を示唆したのである。神の子であることと神の子にふさわしい未来を語ることは、実際的には差異が薄い。人々が救済されれば……敢えて言えば<結果オーライ>なら大衆は充分に満足できるのだ」と「日経」連載「私の履歴書」<阿刀田高>(6月15日)――。

「たとえばイエスの復活、あれは自らの教えが神の教えであることを……それに等しいものであることを実証する最後の、決定的な方策であった。そうであればこそ弟子のアリマタヤのヨセフたちが敢行したのだ、と見れば、誠に、誠に下衆の猿知恵と言われても仕方のない解釈だろうが、何とか説明はつくだろう。詳しくは、こんな思案の末、書きあげた『新約聖書を知っていますか』を瞥見していただきたい」(日経)…。

「この小著は読書界で一定の評価を受けた。多くの読者を得ることとなった――。よかった!悩みながら訪ねた古い町、小さな村、山中の教会などなど取材地のくさぐさが尊く、とても懐かしい」…。<阿刀田高>は結ぶ――。「新約聖書」!火山も耽読した時期がある。81歳ともなると「遠い昔」と言いたくなるが、ウソ。今も涙したい昨日のような過去――。
(平成30年7月6日)

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日経夕刊のコラム<明日への話題>に連載中の長谷川真理子教授。6月12日は「過剰生産性のゆくえ」――。火山、彼女が毎週<月曜日>に執筆する都度、<目の敵>にしてきた。特に<集団と個>などは<無知!>と口汚くコキおろした。<独断>が多く<論理>にも飛躍がある。これでよく<総合研究大学院>大学などという<凄い>研究機関に<職>を得られたとびっくりしたのだ。きっと「<美人>に違いない。だからスカウトされた」と推測した。ナントしばらくしたらNHKのクローズアップ現代に登場した。自然環境の保護、個体の保全といったような話題だったと思う。仰天!!やっぱり<美人>だった。タレント並だ。

だが――。今度ばかりは<感心>した。ご立派! やはりただのムジナではなかった。いや、こういったらムジナに失礼だろうか。「先週、男と女の生産性について述べた。狩猟採集生活という生業形態を見ると、男性の食料生産性は10代後半から20代前半にかけて急激に上昇し、自らが消費する量の数倍もの生産性をあげる。一方、女性の食料生産性は思春期にはさほど急激に上昇はしないが、以後もずっと上昇し続け、45歳から65歳にピークを迎える」と始まった。

「女性の食料生産性は、なぜ思春期に急激に上昇しないのか」――。ここからが面白い。「それはこの時期の女性が、食料生産ではなく、子どもの生産の繁殖の時期に入るからだ」と続く。「この時期の女性は、持てるエネルギーの多くを妊娠、出産、授乳という大仕事に費やす」――。面白い。実に素晴らしい着眼。

だが――。もっと面白いのがタイトルとなった「<過剰生産性>のゆくえ」という話だ。「(男性の潜在的生産力の行方を考えると…)チンパンジーだって、他の哺乳類だって、雄は思春期以後に急速に力をつけ競争力を増強する。そして雄どうしで闘い、勝った個体だけが繁殖できる。厳しい闘いの結果、雄は競争に勝とうとする動機付けや強大な筋力やリスクを省みない情動を身に付けた」――。凄い。長谷川真理子教授のような<美女>からそういわれると火山でも<勇み立つ>! なんちゃって…。

だが自然界の<掟>は厳しい。<弱肉強食>だ。ヒト以外の動物の世界では<負けた雄>が持っていた<潜在的生産力>はすべて<無>に帰する。生かされることなく消える。<優勝劣敗>―――。<非情>の論理が支配する。だが、何とかこの<潜在力>を生かす<道>はないか―――というのだ。しかも<美女>長谷川教授は<ヒト>の<男>に求める。<動物>の<雄>は除外。問題は<男>だ!

「人間でも、男性の生産性や攻撃性、競争に勝ちたいという動機付けは、もともと他の哺乳類と同様に雄どうしの競争の結果として獲得された。それを個々の雄どうしの闘いのみに終らせることなく、その過剰生産能力を、社会全体のために使う方策を見出したところに、人類発展の鍵があるのだ。『男とハサミは使いよう』というと失礼かもしれないけれど」と<可愛らしく>終る―――。ブラーヴァ!!

今回はこれでよい。だが前回、火山、またもや<カッ>となりかかった。題して「男と女の生産性」――。

「狩猟は男の仕事である。一人の男性がどれだけの獲物を捕ってくるかを測定したところ、それは10代後半から20代前半にかけて急激に増加し、30代でピークを迎え、45歳を過ぎると急速に落ちる。一方、植物性食品の採集は女性の仕事である。女性では思春期にそれほど急激に生産性が高まるわけではないが、以後もずっと伸び続ける。そしてピークはなんと45歳から65歳なのである」――。

何が<カッ>となったか。もちろん男性の生産性が「45歳から急激に落ちる」だ。これを平気で聞けるとしたら<男>じゃない。火山の現役最後の10年は人事制度が<年功序列>から<能力主義>に移行する時期だった。だから年収は下がっても仕方がない。<目標管理>で自己申告した目標を自己査定、上司と協議して<年俸>が決まる。だが幸い火山の年俸は伸び続け、定年直前が<ピーク>。住宅ローンも完済していたので、家内と二人で一応、ゴールデンエイジをエンジョイした。だから激怒!なんちゃって…。

長谷川真理子教授に言わせると「以前から、学生を見ていて、男子学生は20代前半で見るべきところが見えないとその先も伸びないが(残酷な言い方。美人特有の冷たさ――)、女子学生は、もっとずっと長く見ないとわからない(勝手な言い分。独断!――)という気がしていた」…ですと!!「この直観には本当に根拠があるかもしれない」と終っていた。どう思いますか。

もっとも、昨日の<過剰生産性のゆくえ>は、どっちにしろ<ブラーヴァ>だ!!!火山も<美女>の<ハサミ>になりたい。

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東横線・桜木町駅が消える日の夜が明けた。今日(平成15年2月1日)の深夜、正確には31日午前零時44分、桜木町発元住吉行きで横浜・桜木町間が廃止になる。いざとなると限りなく淋しい。(これは我が人生の大きな<節目>の思い出話。3年前の日記です)。では……

1997年6月20日は金曜日でした。会社から我が家に電話、家内と桜木町駅の改札口で待ち合わせをしました。思い出の場所でランデブー。なんかトキメキました。実は1963年11月17日(日)にもランデブーしていたのです。二人だけで初めて会ったのがこの日。3年半後に結婚。33年後のランデブーは「定年」の日でした。

会社で贈られた大きな花束と「記念品に・・・」と会社を描いた額入りの大きな水彩画を抱えていました。後輩の日曜画家から突然渡されてしまったのです。重かったけど、一生懸命この日のために絵筆を取ったといわれては受け取らないわけには行きませんでした。

生涯、ただ一度しかない日。重い荷物を持っても、家内と「みなとみらいでワインで乾杯」と気取りたかった。入ったのはイタリア人楽士が生演奏を聴かせてくれるイタリアン・レストラン。赤ワインがおいしかったが、気に入ったのがカンツォーネの粋な演奏。ギター、アコーディオンにヴァイオリンというトリオでした。思い入れたっぷり、テーブルを回ってヴァイオリンのソロが大サービスをしてくれます。酔うほどに興に乗って、思わず「オオ・ソレ・ミオ」をリクエスト。

家内が「およしなさい」と止めるのも聞かず、「ケ・ベラ・コーサ、ナイゥナータ・エ・ソーレ・・・」と歌い始めてしまいました。イタリア人トリオも郷里の言葉を聴いて大喜び。
一段と演奏に気合が入りました。

いつの間にか、周囲はしーんとなり、演奏ばかりが盛り上がる。最後に一段と声を張り上げて、息の続く限り伸ばして歌い、一気に終わり。途端に満座の大拍手。うーん、最高にいい気分でした。ついぞ、やったこともないチップなども弾んでしまい、ワインも杯を重ねて、みなとみらいの夜は夢のように更けました。

この投稿をと思い始めてから、突然、あの大拍手は熱演したイタリア人トリオに来たものでは、と思い始めてしまいました。酔っ払いによく付き合ってくれましたネ、と。

あの頃はまだ、ノドも舌もよくまわったけれど、最近はカラオケもカラキシだめ。年はとりたくないものです。

さらば、桜木町駅・・・。

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東欧2日目は麗しの都ドレスデン。現地ガイドはフンボルト大・日本語科卒のユニークな方と添乗員さんの事前案内。バスは美しい公園に留まった。気持ちが良い。紹介されたガイドのトーマスさんはナルホド、手八丁口八丁のやり手オバサンだった。

後ろからゾロゾロ付いて行くのが嫌いな火山。ガイドさんと肩を並べ先頭を切った。途中、散歩道のベンチに初老の男性が可愛い小犬とチョコンと座っていた。通り抜けようとした途端、この犬、猛然と火山に飛び掛ってきた。驚いた。

「ごめんなさい。大丈夫ですか」とトーマスさん。心配してくれた。とっさに火山<Kein Problem>と言った。カイン・プロブレーム…<ご心配なく>というドイツ語。英語ならノー・プロブレム(問題ありません)――。トーマスさん、複雑な表情を見せた。一行の最初に声をかけた日本人が流暢な(?)ドイツ語をしゃべった。ギョッというところか。でもすぐ大笑いした。火山も笑った。

ツヴィンガー宮殿は素晴らしかった。<アウグスト強王>と言われたフリードリッヒ・アウグスト1(2)世が建てた。無類の女好きで子どもを354人生ませたという精力絶倫の王様。国中から美女を漁り、夜毎にベッドを堪能した。トーマスさん、口を極めて罵った。彼の心臓を納めた小箱は居城に隣接する旧宮廷教会の地下に今も安置されているが、美女が通りすぎるたびに静かに<鼓動>するという。

さて火山、実はこの東欧旅行に備え、出発前2週間断酒、ついでに人間ドック並の健康診断を受けた。勢力絶倫のアウグスト一世とは偉い違いだ。そこで帰国2日目の午後、主治医を訪ねて<断酒減量>の結果を聞いた。去年は「理想的です」と言われた。これを願っての受診だった。で、今回は――。

「体重、最高です。今のまま維持してください。血圧も最高、何の心配もありません。血液検査、すべて問題ありません。血管は動脈硬化の予兆もありません。糖尿病も心配ありません。カイン・プロブレーム。

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モーツアルト<生誕250年>という。BSで「毎日モーツアルト」を見、ブログに投稿を続けている。放送がある月曜から金曜まで、毎日必死にメモ。西川尚生「モーツアルト」(音楽之友社)や田辺秀樹「モーツアルト」(新潮文庫)を参照、「ピアノ協奏曲」20番から27番を聴きながら、モーツアルトの人生を追体験している。

モーツアルトのコンサートも、カブリツキからいろいろ聴いた。文献もずいぶん読んだ。講演も聴いた。効果は抜群。モーツアルトの理解が進んだら、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ショパン、リストが違ってきた。特に面白くなったのがベートーヴェン。

モーツアルトは1756年(宝暦6年)の生まれ。8代将軍<吉宗>が死んで5年目。一方、ベートーヴェンは1770年(明和7年)、10代将軍・家治の時代の生まれ。2年後に田沼意次が老中となり賄賂が横行する。時計を現代に移すと14歳若いベートーヴェンの<生誕250年>は平成32年。火山はたぶん生きていない。でもモーツアルトとベートーヴェンの<意外>な関係は書いておきたい。

二人は<直接>会ったことがあるのだろうか。さっきの二つの「モーツアルト」論では「残念ながら確実な証拠は残っていない」とある。でも有名な指揮者<近衛秀麿>の「ベートーヴェンの人間像」(音楽之友社・昭和45年初版)に面白い記事がある。近衛秀麿は日中事変から太平洋戦争へ日本が暴走した時期に総理になった近衛文麿の異母弟。戦争中はドイツで音楽活動をしていた。

「暇さえあればウィーンに足を運んで、ウィーン生まれの音楽家ヒューブナー兄弟たちを案内に立てて、主としてベートーヴェンやシューベルトの旧跡を行脚した。親しくベートーヴェンの巨像に近づくためには、ウィーンその他の民間に伝わった秘話、逸話などを、注意深く、良心的に取捨して、この大天才の生活記録を再現する」(同書・1頁、4頁)。これが近衛の執筆態度。「伝記や文献の研究には新しい発見の余地はない」と覚悟していた。平野昭「ベートーヴェン」(新潮文庫)にも見逃せない記事がある。

「ベートーヴェンがモーツアルトのレッスンを受けたことは、おそらくなかったであろうが、第一回ウィーン旅行の1787年4月中旬頃に、少なくとも一度は会っていた」(33頁)。なぜか。幼い頃からベートーヴェンは音楽家だった父ヨーハンからモーツアルトの神童ぶりを聞かされ、負けないピアニスト、作曲家になるよう期待されていた。ベートーヴェン家の<話題の中心>はモーツアルトだった。17歳で初めて<音楽の都>ウィーンに旅行、そこに住む<憧れ>のモーツアルトを訪問しないはずがない。<千載一遇>のチャンスだ。

「代々続いた音楽一家から出た作曲家が皆そうであるように、ベートーヴェンも最初の教育は父から受けている。父が息子に授けたのはクラヴィコード(チェンバロと並ぶもう一方のピアノ前身)奏法であった。またたくまに豊かな楽才を示し始めた息子に(父)ヨーハンは当時話題になっていたザルツブルグの神童を夢見ていたに相違ない」(平野・14頁)。<当時>とは1770年代。1770年4月、モーツアルトは14歳、父とイタリアにいた。ローマの聖ペテロ大聖堂で17世紀の作曲家アレグリの秘曲「ミゼーレ」を一度聴いただけで写譜、周囲を驚嘆させた大事件があった。ベートーヴェンはその年の12月に生まれる。

モーツアルトはイタリアで対位法やオペラを学び、<神童>から<青年>へ大成していく。一方のベートーヴェンは1778年3月26日、ケルンでデビューする。父ヨーハンは「当年6歳の息子を世に送り出す」と予告。これは「7歳と3ヶ月になっていた息子の年齢を1歳若くすることにより、世間に天才少年として印象付ける策略であった」(平野・15頁)。

<der wird einmal in der Welt von sich reden machen!>――。近衛秀麿「ベートーヴェンの人間像」(音楽之友社・164頁)にあるモーツアルトがベートーヴェンを評した言葉。「この才能に注意を払いたまえ。この若者は今に全世界の話題をさらってしまうだろう」。これはドイツ語だが、前半が脱落している。<der>は男性名詞の関係代名詞。<若者>の<Wursche>が男性名詞なのだ。<von sich reden machen!>は<評判になる>という熟語。<einmal>は<いつの日か><in der Welt>は<世界中で>――。

近衛によるベートーヴェン17歳(1787年4月)、二人の会見の模様は次回のお楽しみだが、ベートーヴェンがモーツアルトを尊敬していたことは確実。「幾度となくベートーヴェンが、モーツアルトの芸術について、異常な感激をもって人に語ったことが伝えられている。『モーツアルトは自分にとって、あらゆる時代を通じて最大の作曲家である』」(近衛・168頁)。ベートーヴェンがウィーンを2度目に訪れたのは5年後の1792年11月2日。21歳。モーツアルトは35歳で既に1年前に世を去っていた。

ハイドンや対位法の大家アルブレヒツベルガーなどに作曲法を学んだベートーヴェンは1795年3月、今度は最高のピアニストの評価を得ようと、公開の場へデビューする。3日目の3月31日はモーツアルト未亡人がブルグ劇場で主催した亡夫のオペラ<皇帝ティートの慈悲>上演の日。なんとベートーヴェンは<幕間>にモーツアルトの「ピアノ協奏曲」を独奏したのだ。「この時の曲は、後にベートーヴェン自らカデンツァまで書き残すほど気に入っていたニ短調協奏曲(K466)であったと思われる」(平野・42頁)。凄い!!

このニ短調協奏曲こそ、火山が今年突然モーツアルトが好きになった<因縁>の名曲です。
(平成18年12月14日)

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