火山の独り言

時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

梅原猛は藤原時代の書「栄華物語」の天平勝宝5年「橘卿諸卿太夫等集いて『万葉集』を撰んだ」という記事を検証、従来誤りとされたこの説は<史実>と考えた。そして自著「水底の歌」の人麿<研究>も踏まえ、<国家犯罪者>とされた人麿を巻2の<相聞>と<挽歌>のいずれにも中心的役割で登場させたのは「彼を死に至らしめた<藤原不比等>への批判」。即ち<反藤原>と断定した。少し詳しく検討してみたい。

梅原猛は「われわれは『万葉集』の歌を考える時、単に柿本人麿・山部赤人・山上憶良・大伴旅人の歌と考えてはならない。『万葉集』には決してそのように書かれていない。柿本朝臣人麿・山部宿禰赤人・筑前守山上臣憶良・太宰師大伴宿禰旅人と、そこに記されているはずである」(「人物日本の歴史」第2巻「天平の明暗」小学館・235頁)と指摘する。

徳川時代の国文学者、契仲・真淵は柿本人麿を低い身分と考えていたが、これは誤り。<朝臣>は朝廷第二位の身分。<宿禰>は第三位。憶良の<臣>は第六位の低い身分。また役職にも意味があるという。国学者たちの<芸術至上>主義的な見方では歌の真意を見過ごすと指摘しているのだ。

「7世紀から8世紀にかけてのこの時代は、はなはだ政治的な時代だと思う。政治的な時代において、あらゆるもの、文化的事業・宗教的事業といえども、なんらかの政治的意味をもたざるをえない」(237頁)。

この連載では「<藤>か<橘>か」と家持が越中に赴任中、幸福を呼ぶホトトギス(時鳥)を意識、盛んに歌に読んだ意味を両氏の<政争>を紹介しながら語ってきた。天武天皇が遺した<皇親>政治は藤原一族の<律令>制定過程で骨抜きにされ、皇親系の<長屋王>や<橘>氏が抹殺されていく。まさに高度の政治的時代だったのだ。

「万葉集」巻2の<挽歌>には「有間皇子の歌に始まり十市皇女、大津皇子、高市皇子、弓削皇子など、殺されたり、自然の死でも突然の死を遂げた皇子たちの挽歌があり、ついで、人麿の周囲の人々の死を嘆いた人麿の歌が続き、人麿自身の死をめぐる歌がそのフィナーレを飾る」(269頁)。

徳川時代の「万葉集」研究を経て「人麿は舎人として持統・文武帝につかえ、のちに地方官として、近江(滋賀県)、讃岐(香川県)などに赴任、最後に石見で死んだが、その位は六位以下であると考えられているが、この考えは契仲・真淵によってつくられた考えに過ぎず、古来から人麿は三位以上の高官と考えられ、高貴な女性を犯したため流罪になったのだと伝えられてきた」(269頁)。

つまり<人麿>伝承を徳川期の国学者が歪めたのだ。「万葉集」に<朝臣>と記載されている以上、身分が低いというのは誤り。しかも「人麿は死後すぐ神に祭られるが、日本で神に祭られるのは、なにか特別な力をもった人物であると同時に、その人が殺されたり、流されたりして、不幸な死に方を遂げることが必要だった」(269頁)。

「人麿は持統4年(690)から文武4年(700)まで、持統帝に寵愛され、身分高き宮廷歌人として活躍したが、大宝元年(701)、藤原不比等政権の成立とともに追放流罪され、和銅初め、石見国で殺された」(270頁)。梅原はこの人麿像は古くから伝えられてきたものを自分が復興したに過ぎないという。

人麿<復興>は不比等政権への<批判>。また人麿が親しかった<高市>皇子の復興。さらに<不比等>批判は現在の<仲麻呂>権力への批判であり、高市皇子の復興は<橘>氏が密かに<帝位>の座を予定していた高市皇子の孫<黄文王>の名誉ともなる。「天平勝宝5年(753)に撰せられたと思われる原万葉集は、このような複雑な政治的ねらいをもっているように思われる」(270頁)――。

「万葉集」は<大仏開眼>の翌年に撰せられた。これは<重要>と梅原は説く。諸兄は自分の<井手>別邸の近くの恭仁(くに)京への遷都を図って失敗。東大寺建立による仏教支配を図って失敗した。平城京をつくった不比等に対抗できなかった。東大寺も仲麻呂に功を奪われる。「万葉集」は<仲麻呂>勢力に対する「文化的戦い、イデオロギーの戦い」と梅原はいう。

東大寺の失敗とは何か。青木和夫「奈良の都」(中央公論社「日本の歴史」第3巻)で<大仏開眼>の盛儀について「『続日本紀』は『仏法東に帰してより、斎会の儀、いまだかつてかくのごとく盛んなることあらざるなり』と記している。孝謙女帝はその夜、12歳年長の従母兄大納言仲麻呂の邸に招かれて泊まった」(365頁)とあっさり書く。

女帝は34歳、仲麻呂は46歳。梅原はこれを<大人の関係>と見る。仲麻呂は女帝から歌をもらっても返歌しない。極めて親しいから。「女が男のところへ泊まる。もちろん男女の関係がないはずがない。そういうことを女帝は公然としたもうのである」(265頁)。「これはすべて仲麻呂の謀略だと思う。噂されている関係を、もう公然とだれの目にもはっきりさせる。しかもこの盛大なる歴史的儀式の日に。女帝は(自分の)恋人だ」―。家持はもちろん盛儀に列席した。だが歌は残されていない。不思議だ。この謎は次回!

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

モーツアルト<生誕250年>という。BSで「毎日モーツアルト」を見、ブログに投稿を続けている。放送がある月曜から金曜まで、毎日必死にメモ。西川尚生「モーツアルト」(音楽之友社)や田辺秀樹「モーツアルト」(新潮文庫)を参照、「ピアノ協奏曲」20番から27番を聴きながら、モーツアルトの人生を追体験している。

モーツアルトのコンサートも、カブリツキからいろいろ聴いた。文献もずいぶん読んだ。講演も聴いた。効果は抜群。モーツアルトの理解が進んだら、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ショパン、リストが違ってきた。特に面白くなったのがベートーヴェン。

モーツアルトは1756年(宝暦6年)の生まれ。8代将軍<吉宗>が死んで5年目。一方、ベートーヴェンは1770年(明和7年)、10代将軍・家治の時代の生まれ。2年後に田沼意次が老中となり賄賂が横行する。時計を現代に移すと14歳若いベートーヴェンの<生誕250年>は平成32年。火山はたぶん生きていない。でもモーツアルトとベートーヴェンの<意外>な関係は書いておきたい。

二人は<直接>会ったことがあるのだろうか。さっきの二つの「モーツアルト」論では「残念ながら確実な証拠は残っていない」とある。でも有名な指揮者<近衛秀麿>の「ベートーヴェンの人間像」(音楽之友社・昭和45年初版)に面白い記事がある。近衛秀麿は日中事変から太平洋戦争へ日本が暴走した時期に総理になった近衛文麿の異母弟。戦争中はドイツで音楽活動をしていた。

「暇さえあればウィーンに足を運んで、ウィーン生まれの音楽家ヒューブナー兄弟たちを案内に立てて、主としてベートーヴェンやシューベルトの旧跡を行脚した。親しくベートーヴェンの巨像に近づくためには、ウィーンその他の民間に伝わった秘話、逸話などを、注意深く、良心的に取捨して、この大天才の生活記録を再現する」(同書・1頁、4頁)。これが近衛の執筆態度。「伝記や文献の研究には新しい発見の余地はない」と覚悟していた。平野昭「ベートーヴェン」(新潮文庫)にも見逃せない記事がある。

「ベートーヴェンがモーツアルトのレッスンを受けたことは、おそらくなかったであろうが、第一回ウィーン旅行の1787年4月中旬頃に、少なくとも一度は会っていた」(33頁)。なぜか。幼い頃からベートーヴェンは音楽家だった父ヨーハンからモーツアルトの神童ぶりを聞かされ、負けないピアニスト、作曲家になるよう期待されていた。ベートーヴェン家の<話題の中心>はモーツアルトだった。17歳で初めて<音楽の都>ウィーンに旅行、そこに住む<憧れ>のモーツアルトを訪問しないはずがない。<千載一遇>のチャンスだ。

「代々続いた音楽一家から出た作曲家が皆そうであるように、ベートーヴェンも最初の教育は父から受けている。父が息子に授けたのはクラヴィコード(チェンバロと並ぶもう一方のピアノ前身)奏法であった。またたくまに豊かな楽才を示し始めた息子に(父)ヨーハンは当時話題になっていたザルツブルグの神童を夢見ていたに相違ない」(平野・14頁)。<当時>とは1770年代。1770年4月、モーツアルトは14歳、父とイタリアにいた。ローマの聖ペテロ大聖堂で17世紀の作曲家アレグリの秘曲「ミゼーレ」を一度聴いただけで写譜、周囲を驚嘆させた大事件があった。ベートーヴェンはその年の12月に生まれる。

モーツアルトはイタリアで対位法やオペラを学び、<神童>から<青年>へ大成していく。一方のベートーヴェンは1778年3月26日、ケルンでデビューする。父ヨーハンは「当年6歳の息子を世に送り出す」と予告。これは「7歳と3ヶ月になっていた息子の年齢を1歳若くすることにより、世間に天才少年として印象付ける策略であった」(平野・15頁)。

<der wird einmal in der Welt von sich reden machen!>――。近衛秀麿「ベートーヴェンの人間像」(音楽之友社・164頁)にあるモーツアルトがベートーヴェンを評した言葉。「この才能に注意を払いたまえ。この若者は今に全世界の話題をさらってしまうだろう」。これはドイツ語だが、前半が脱落している。<der>は男性名詞の関係代名詞。<若者>の<Wursche>が男性名詞なのだ。<von sich reden machen!>は<評判になる>という熟語。<einmal>は<いつの日か><in der Welt>は<世界中で>――。

近衛によるベートーヴェン17歳(1787年4月)、二人の会見の模様は次回のお楽しみだが、ベートーヴェンがモーツアルトを尊敬していたことは確実。「幾度となくベートーヴェンが、モーツアルトの芸術について、異常な感激をもって人に語ったことが伝えられている。『モーツアルトは自分にとって、あらゆる時代を通じて最大の作曲家である』」(近衛・168頁)。ベートーヴェンがウィーンを2度目に訪れたのは5年後の1792年11月2日。21歳。モーツアルトは35歳で既に1年前に世を去っていた。

ハイドンや対位法の大家アルブレヒツベルガーなどに作曲法を学んだベートーヴェンは1795年3月、今度は最高のピアニストの評価を得ようと、公開の場へデビューする。3日目の3月31日はモーツアルト未亡人がブルグ劇場で主催した亡夫のオペラ<皇帝ティートの慈悲>上演の日。なんとベートーヴェンは<幕間>にモーツアルトの「ピアノ協奏曲」を独奏したのだ。「この時の曲は、後にベートーヴェン自らカデンツァまで書き残すほど気に入っていたニ短調協奏曲(K466)であったと思われる」(平野・42頁)。凄い!!

このニ短調協奏曲こそ、火山が今年突然モーツアルトが好きになった<因縁>の名曲です。
(平成18年12月14日)

全1ページ

[1]


.
kom*_19*7
kom*_19*7
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28
友だち(24)
  • MAX
  • reikotamaki
  • nitoro
  • jujp4223
  • けんた
  • 涼ちゃん大好き
友だち一覧

過去の記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事