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「鹿児島県南九州市の『知覧特攻平和会館』は、散華した若者の遺書を数多く展示する。婚約者のマフラーを巻いて出撃した大尉(23)は『あなたは過去に生きるのではない』と彼女に新たな<伴侶>を探すよう諭した。<特攻兵>の殆どが大正生まれであることに気づく。▼大正世代は1912年から26年の生まれ。敗戦の年を19歳から33歳で迎えた。『大正生まれの俺たちは/明治のおやじに育てられ/忠君愛国そのままに/お国のために働いて…』。その名も『大正生まれ』という唄がある」と「日経」コラム<春秋>(2月22日)。
「生き残った者は<皇国>の崩壊後、どのような<倫理>に従って生きるのか、を問い続けることになる。▼評論なら吉本隆明、小説では島尾敏雄、俳句は大正8年(1919年)生まれのこの人だろう。一昨日、98歳で亡くなった<金子兜太>さん。『水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る』は南洋トラック島からの復員船で詠んだ。<非業>の死を遂げた戦友が眠る島へ続く白い航跡を魂に刻んだ。自由な社会を希求する句作の原点だ」(春秋)…。
「▼<兜太>さんは晩年、<一茶>が残した『荒凡夫(あらぼんぷ)』という言葉を好んだ。荒を『粗野な』の意味でなく『自由』と読む。凡俗だが自由で人さまに迷惑をかけない存在、と解釈、生の指針とした。大正生まれのなんとすがすがしい到達点だろう。『合歓(ねむ)の花君と別れてうろつくよ』。荒凡夫の愛に満ちた句を胸に、お別れしたい」(春秋)――。これは火山が昨夜(3月7日)に執筆したもの。そこで<旧作>(2009年)も添えたい。
「今年は高浜虚子没後50年で、記念の催しや出版が行われ依然人気が高い」とコラム「山頭火と放哉」は始まる。筆者は有馬朗人――。ハッキリ言おう。「世界一の借金王」を名乗り、盛大なバラマキをやった小渕恵三内閣の文部大臣。「文科官僚の言いなり」だった。その分<世渡り>上手」。だが「世渡りが下手」で知られた火山!好きになれるはずがない。だが最近、俳句を<多少>齧った火山、俳人で物理学者と知り<多少>見直しつつある。
「子規門下で虚子のライバルであった河東碧梧桐は定型を破り、無季も容認する新傾向俳句へ走り、晩年行き詰まり俳壇を引退した。新傾向俳句は現在は人気がない。しかし二人の例外がいる。それは種田山頭火と尾崎放哉である」とコラム(2009年5月23日)は続く。
鉄鉢(てっぱつ)の中へも霰(あられ) 山頭火
咳をしても一人 放哉
山頭火と放哉、どちらも経済的に恵まれた家に生まれ、放哉は東大卒(1909年)、山頭火は早大中退(1904年)。当時としては極めて高学歴。にもかかわらず二人とも家を捨て、<大酒>を飲み、放浪の果てに死ぬ。破滅型の人生。晩年は二人とも寺男。<大酒飲み>のホームレスでも、当時は<寺男>という逃げ場があったのだ。
「私はこの二人は本質的に違うのではないかと思う。山頭火は10歳の時に母の自殺に遭い、生涯悲しみと強い詩心を持っていた。一方放哉は東大を卒業(1904)し就職するがすぐ辞め、再就職しても不満で辞める。三度目の良い職も酒乱で首になる。酒乱の原因は従姉妹と結婚できなかったことである。作品も放哉は見るべきものは24年より26年までの3年間のものに過ぎない。それに反して山頭火は放浪の旅も40歳前後から58歳までと長く、どこでも人々に温かく受け入れられている。同じ破滅型でも一方は愛され一方はわがまま」。
「定型を破り、無季も容認する」河東碧梧桐――。調べて火山、ビックリ――。明治21年(1888)、伊予尋常中学(現在の松山東高校)に入学するが、翌22年(1889)帰郷した正岡子規に野球を教わったことがきっかけで、同級生の高浜虚子を誘い子規から俳句を学ぶ。少年時代は子規の友人で、海軍参謀・秋山真之を<淳>さんと呼んで敬愛していた。
虚子と碧梧桐。二人は子規門下の双璧と謳われたが、守旧派として伝統的な五七五調を擁護する虚子と碧梧桐は激しく対立した。新傾向俳句に走った碧梧桐は行き詰まり、俳壇から引退する。引退には虚子への<抗議>の意味もあったという。だがこの二人、中学から京都の三高(現在の京大)に進学しても同じ下宿に住み「虚桐庵」と名付けて親交を重ねた。それがなぜ痛烈なライバルに――。俳句の世界は摩訶不思議!
「山頭火と放哉」――。ともに世渡りが下手で大酒飲み。なんとなく火山を連想させるが、一方は愛され、一方はわがまま。「読んで救いがあるのは山頭火」と有馬朗人は結ぶ。
うしろすがたのしぐれていくか(山頭火)
妻老いぬ 小さき庭に 蝶の夢(火山)
伝統的な五七五を守る<守旧派?>の火山。その火山も古希をとうに過ぎた。
(平成21年6月1日) ⇒ (平成30年3月8日)――。
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