火山の独り言

時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり

戦略との出会い

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戦略とは何か。考えたことがありますか。企業の研修担当として「戦略をどう教えるか」、考え続けたテーマでした。ヒントは有名な「巌流島の決闘」にありました。

「戦略」とは「戦わずして勝つ」手配り。戦う前に全局の展開を予想し、必勝の条件を整えること。一方、「戦って勝つ」方法が「戦術」。汗もかくし場合によっては命を失う。だからあまり賢い戦い方ではない。

宮本武蔵と佐々木小次郎の技は「互角」。だから「勝負は五分五分」。勝敗は「時の運」でした。だが武蔵の事前の手配り、戦略で実は戦う前に勝敗は決まっていた。
武蔵は「決闘の場」として巌流島(孤島)を選んだ。もし小倉藩の城内なら小次郎は藩の剣術指南。全員が応援する。武蔵は孤立無援、不利になるはずだった。

(1) 小次郎の得意技「燕返し」が振るいにくい浜辺、砂地を「決戦の場」とした。
(2) 小次郎の太刀は日本一長い「物干し竿」。そこで武蔵は船中で櫂を削り、もっと長い木刀を用意した。
(3) 太陽を背にして戦える位置を選んで船から降りた。小次郎は眩しくなった。
(4) わざと遅刻し、小次郎の平常心を奪った。

砂地の浜辺、櫂の太刀、太陽、時間―――これらすべてが小次郎を殺す「凶器」と化した。これが武蔵の「戦略」でした。徹底的に不利な条件に追い込まれ、小次郎はもはや手も足も出ない「必敗の土俵」で戦わざるを得なかったのです。

「必勝の条件」をどう確保するか。事前の手配りが戦略なのです。

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「これは西軍が勝ちましたな」。明治政府が「富国強兵」にやっきの頃、作戦指導に来日したプロシャの名戦略家モルトケは、関が原に布陣した東西両軍の配置を見て、即座にこう断言したという。

そうであって欲しかった。判官びいきというだけでなく、石田三成の純粋な生き方が好きな私は、今もそう思っています。死ぬと分っていながら、三成の友情に殉じた大谷吉継も大好き。優柔不断、最後まで動かず身内から裏切りまで出した毛利に代わって、敢然と戦った西軍副将の宇喜田秀家にも感謝感激。彼が残した岡山の名城にも何回も行きました。

「名作愚演」とは堺屋太一が小説「大いなる企て」で評した関が原の石田三成評。勝てるはずの戦略を描き、あわやと思わせるところまで来ていたのに大きな「抜け」があった。天下盗りのために着々と布石を打ってきた徳川家康の「戦略」に敗れたのです。家康は内紛を抱えていた毛利一族を懐柔、大切な局面で小早川秀秋の「裏切り」を仕組んでいた。

 武断派といわれる福島正則グループ(秀吉恩顧の武将たち)と文治派といわれる石田三成グループを離間・仲違いさせ、さらに秀吉の正室ねねを抱きこみ、武断派を完全に握った。淀君との「女の戦い」も存分に利用したことでしょう。

 秀吉の盟友で豊臣家にとっては大事な後ろ盾の前田利家が世を去った好機も見逃さず、利家の妻(ねねの幼馴染といわれる)も江戸に人質にとって前田家を引き込んだ。 世の流れが大きく徳川に傾くのを見て、佐和山に閉じ込められていた三成がついに決起。五大老の一人、上杉景勝の家老、直江山城守と示し合わせ、家康を「会津討伐」に誘い出し、その留守に家康討伐の軍を起こすのが、三成の天下分け目の賭け。

 関が原は大好きで司馬遼太郎を筆頭に様々な小説、歴史書もいろいろ読みました。でも勝敗は戦う前に決していた。家康の手配り(戦略)の前には、いかなる「戦術」も無効だったのです。大谷吉嗣は全部見通していた。だから忠告した。「止せ。死ぬぞ」。でも三成は立った。だから吉嗣は三成と死んだ。そう信じています。

+++今日から<連載>の「戦略との出合い」…。火山の最も好きな分野です。

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1997年(平成9年)6月20日(金)午後5時30分。私は演壇を降りました。研修室に感動の拍手が起き、我ながらよくできた幕引きでした。各部門から管理職候補の優秀社員を厳選、18人ずつの研修第2グループ、2日間のコースが終わったのです。

会社の次代を背負う若手に後を託したい。そんな思いで研修体系に「新設」したプログラム。もちろん稟議で社長決済を得ている。独断でやったものではありません。しかし、半年前から密かに企んで実施したことも確か。各部門も本来、人事秘の候補者を快く推薦してくれました。

この日、この瞬間が、私の定年退職でした。気持ちよい達成感がありました。多くの会社では教育部長といっても世話係。講師やインストラクターを勤めることはありません。

私は研修課長の時から、講義も訓練も自分でやることを基本にしてきました。プロ並を目指し、周囲も認めてくれました。感受性訓練というグループでの体験学習、専門家でも難しいものですが、訓練を受け、こなしました。管理職のリーダーシップ開発に欠かせないからです。

定年を迎える1年半前の仕事納めの日、年末でした。いつものように役員応接で社長を囲んでワインを飲んでいました。社長になっていたあの「専務」がポツリと言いました。「君、再来年、定年だな。どうするつもりだ」。部長の中から選ばれて「理事」に昇格、定年が一年延びたばかり。何も考えていませんでしたが、とっさに「原節子の心境です」と答えてしまいました。

不遜なセリフだったと後で思いました。でも手遅れ。社長は大笑いしました。ある日、銀幕から消え、二度と姿を見せない(第二の職場は不要)。その決意と理解したからです。

部課長、支店長、新任管理職、中堅社員、新入社員等の「全階層」、営業や技術を含む「全部門」の研修を担当しました。マーケティング、構造改革、意識改革など<企業文化>の変革と取り組み、3度地獄を見ました。

どこへ行っても別世界から来たエイリアン。孤独と戦いながら、浮沈を繰り返しました。「良い仕事をしたい」と思ったことはあっても「偉くなりたい」と思ったことは一度もありません。だからポストを争ったこともありませんでした。
でも最後に「天職」と思える仕事にめぐり合い、納得できるまで自由に追求できました。<幸せな会社人生>でした。            (完) 

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この連載も明日が最終回。少し「裏話」も書かせてください。トップからある日、突然お呼びがかかったように書いてきました。でも多くの場合、事前に何かしらコネがあったのです。「経営戦略会議」のスタッフに抜擢された話も、まだ討ち死にしていなかった無線事業部の次長から電話があり、「一杯飲もう」と誘っていただいた裏がありました。

正面玄関に黒塗りの高級車が待っていました。助手席に乗ったら後部シートに副社長と次長。高級割烹で会食、話が弾んだ夜でした。その副社長が社長になったのです。

たびたび登場した<専務>。実は専務が大手から来た時、総合企画部の歓迎会で会い、学生運動で話が弾みました。専務も学生の頃、正義感に燃えていたのです。安保反対デモで意気投合、宴席で「国際学連の歌」(デモでよく歌う)を歌った専務とカラオケに行き、私は得意の「長崎は今日も雨だった」を熱唱、大拍手の中で専務も手を叩いていました。

もっともこの頃はまだ大手との関係がハッキリせず、専務も顧問という肩書き。その後、総合企画を追われた私は冷や飯が2年。後輩にも追い越され、落ちこぼれていたのを拾ってくれたのが「国際学連の歌」を歌った専務だったのです。

生協から人事に戻った当時(若い頃の話ですが)、社内報(社員向け雑誌)編集を担当していた私は、取材でトップに会う機会がよくありました。
昭和40年、銀行から来た社長はもの凄い教養があり、格調高い「就任挨拶」で全社に感銘を与えた方でした。昭和44年の正月、ご自宅で飲みながらインタビューする機会がありました。

部長と課長が同行しましたが、質問を私に押し付け、課長は録音係、部長は聞き役。飲むほどに気が大きくなった私は「家庭訪問」の取材が終わると、「雲の上の怖い人」ということを忘れ、学生運動の話を始めてしまいました。

社長は「私は共産主義では断じてないが社会主義だ」と言い出し、これまた意気投合。ヒルファーディングの「金融資本論」を読んだというだけだったのですが、話が弾み、社長は糖尿病の気があり、奥様がハラハラしていたのに二人で痛飲してしまいました。

でも翌日からが悲惨。消化不良で寝床に倒れたまま三日間、食事もできない。社長とは正月明けに原稿を見せる約束です。腹ばいになりながらただ必死、何とか完成させました。
何しろ「名文家」の社長です。どんな注文がつくか戦々恐々。でも「若い者が書いたものに注文はつけない」と一読でOK。安心した途端、会心作だったと思った私でした。
「異色人事とマーケティングの本をいただいた」社長も実は社内報で自宅を訪ねたご縁があり、「記事OK」の間柄でした。

裏話をもう一つ。人事部に戻り、全社の教育を預かるようになったある日、無線事業部長になったばかりのSさんが新任の挨拶にきました。昔の仲間です。「事業部が今日あるのは火山さんのお陰です。<戦略>のご指導には感謝しています。今も教わったとおりにやっています」。もちろんお世辞。でも追放された屈辱を体験しただけに何ほどかの「真実」はあると思いたくなる私でした。

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「研修は『アルペン』ということを知っているか」と専務。大手から当社再建に派遣されてきた重役ナンバー2でした。
―――「はあ…」「アルはアルコール。ペンは情報。楽しい研修をやってほしい」。マーケティング<戦略>を全社に徹底するため、営業マーケテイング部門に新設された<初代><研修部長>に抜擢され、就任挨拶に出向いた時、専務から言われた言葉でした。

福沢諭吉の弟子。<ペンは剣より強し>は理解できる。専務も百も承知でした。有難かったのはアルコールを公認していただいたこと。何しろ、仕事が終わって一歩、会社の門を出ると、ストレス解消のため飲まずにはいられない火山。早耳の専務は、知っていたのかも知れません。

火山が「立ち飲み」をしていることは有名でした。「やめた方がいい。出世の妨げになる」。忠告してくれる上司や同僚は大勢いました。でもやめられません。
やがて「立ち飲み」が「歩き飲み」になりました。裏門に近い雑貨屋でワンカップを買う。人通りの少ない裏道もありました。

忠告がさらに増えました。でも以前書いたように<偉くなりたい>と思ったことはない。「出世」など求めていない。良い仕事をしたいと思っていただけ。酔って歩いているといろいろと、知恵やヒントがよくひらめく。だからゴメンナサイ。心の中で謝るだけ。やめられませんでした。

余談はともかく、公認ですから火山の研修には講師、コーディネータ、事務局を含む全員のレセプション(飲み会)が必ず登場します。社長や役員が出席しても同じ。むしろトップとの<情報交換>…話せる絶好の機会でした。立食形式ですから自由に動いて話せる。

全国各地のセールスは本部や工場への要望や質問を一杯持っています。苦情も山ほど。だからリラックスした場で話し合えたら最高。火山の研修。初日の夜は必ずレセプション。これが好評だった。火山も大いに飲んだ。何しろ公認です。

営業マンとの<販売店攻略>の事例研究とグループ討議、近況スピーチ、挨拶、すべてレセプションの話題になります。話題は情報、ペンにもアル(ストレス解消)にもなる。
これが<企業文化>の<変革>…<戦略>の徹底に非常に役立った。再建に来た大手から学んだ最高の仕組みでした。

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