火山の独り言

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ベートーヴェン意外な関係

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25歳のベートーヴェンは「ウィーンで最高のピアニストとしての地位を得るべく公開の場へデビューする。1795年3月29日と30日の2日間に行われたウィーン音楽家協会主催の未亡人慈善音楽会において、ブルグ劇場の大ステージに登場したのである。
初日はピアノ協奏曲第2番(作品19)の独奏者として、翌30日にはピアノ即興演奏を行う。モーツアルト未亡人が主催した亡夫のオペラ<皇帝ティトゥスの慈悲>(K621)上演の幕間にモーツアルトのピアノ協奏曲を独奏」(平野昭「ベートーヴェン」新潮文庫・39頁)。

ベートーヴェンが幕間に弾いたピアノ協奏曲はカデンツァ(ソリスト用の華麗な独奏パート)を自分用に書き残すほど気に入っていた<第20番・ニ短調・K466)だった。
即興演奏を披露したのが1795年3月30日。これから142年経った同じ日に<火山>が誕生。その火山はこの<20番ニ短調>を2006年2月12日に東京文化会館で聴き、50年以上もほとんど見向きもしなかったモーツアルトを突然、好きになる。人生は不可思議だ。

さらにもう一つの不思議。1785年のこの日(時差で現地2月11日)にモーツアルト自身が<20番ニ短調>を独奏、初演したのだ。時に29歳。ウィーンで絶頂期を迎えていた。
華々しい活躍ぶりを父レオポルトに見せようと、故郷のザルツブルグから父を招待した。モーツアルトの家は現在「フィガロハウス」と呼ばれる豪邸。家賃450フロリン(450万円)というから豪華。レオポルトがモーツアルトの姉ナンネルに宛てた手紙が残っている。

「おまえの弟は家具類もすべて整った綺麗な家に住んでいる。こちらに到着した晩、私たちはあの子の予約演奏会の初日を聴きに入ったが、そこには身分の高い人々がたくさん集まっていた。演奏会は(ザルツブルグとは)較べようもない素晴らしさでオーケストラも見事だった。それからヴォルフガングの見事な新作のピアノ協奏曲が披露された」―――<新作の>とは<20番ニ短調>のこと。1785年2月11日だ。

そしてもう一つ。父レオポルトは誇らしげにナンネルに書いている。「翌日の晩にはヨーゼフ・ハイドン氏と2人のティンティン男爵が訪ねてこられて、ヴォルフガングが作曲した3曲の新しい弦楽四重奏を演奏した」(平野・110頁)。ハイドンとの親しい交際を伝える父の目撃談だが、新しい弦楽四重奏曲とはハイドンに献呈された<K465>のこと。

「いずれも充実し切った素晴らしい曲ばかりである。24歳年少のモーツアルトと共にこれらの曲を演奏しながら、ハイドンはどれほど深い感銘を受けたことだろうか」(平野・111頁)。そして有名なハイドンの言葉―――「私は神に誓って正直に申し上げますが、あなたのご子息は、私が名実ともに知る最も偉大な作曲家です。ご子息は趣味が良く、その上、作曲に関する知識を誰よりも豊富にお持ちです」はこの晩、レオポルトが聞いたものだ。

父レオポルトは65歳。2ヶ月余りのウィーン滞在だったが、大満足でザルツブルグに帰る。父は2年後に世を去る。永遠の別れだった。モーツアルトも6年後、35歳の若さで死ぬ。
ベートーヴェンは1795年3月31日、モーツアルト未亡人が主催した音楽会でモーツアルトの<20番ニ短調>を演奏した。自作の「ピアノ協奏曲」第2番に始まる3月29日から3日間の連続演奏がベートーヴェン25歳のウィーン楽壇への華々しいデビュー―――。
ハイドンがモーツアルトを絶賛して10年、モーツアルトが世を去って4年が過ぎていた。

「名演奏家のひしめく当時のウィーンにあってベートーヴェンが注目を浴びたのは独自の二つの武器、一つはボン時代のオルガン奏者として身につけた即興術であり、もう一つはネーフェ(ボン国民劇場の音楽監督)から学んで完成させていたクラヴィコード奏法に由来するレガート奏法とカンタービレ奏法であった。
この頃のウィーンではモーツアルトの演奏に代表される音の均質さ、響きの清澄さ、軽快な速度といった伝統的なチェンバロ奏法から来る真珠を転がすスタッカート気味のエレガントな奏法が流行していた。ベートーヴェンの生み出す響は新鮮だった」(平野・38頁)。

モーツアルトとベートーヴェンの時代はピアノが「チェンバロから現代のピアノに近いフォルテ・ピアノ」へ進化する時代。<弦>を<引っ掻いて><音>を出すチェンバロから弦を<叩いて><音>を出すピアノへ―――。奏法に変化があったのも当然だろう。

火山は<横浜みなとみらいホール>のレクチャーコンサート「ピアノの歴史」(全4回)を6月から聴講する。「もしショパンが現代のピアノを弾いていたら、あの美しい数々の名曲は生まれていなかったかもしれない」という。「ピアノの誕生」「謀略家としてのハイドン」「モーツアルト、クラヴィーア(チェンバロ)の深層」「ベートーヴェンとシュトライヒャー、ピアノの理想を求めて」―――。これが第一期のプログラム。火山は第二期を聞く。

ベートーヴェンのピアノ、特に<即興演奏>は貴族の邸で競演が開かれる都度、名ピアニストを次々と打ち破っていく。「即興演奏は与えられた主題を音形変奏していくか、次々に新しく美しい旋律を継いでゆくのが当時の流儀だった。ところがベートーヴェンの即興は時によってはソナタ楽章やロンド楽章仕立てで、主題動機の展開をもった構築性が追求され、またある時は幻想曲風な自由形式で、しかも構成感を併せ持ち、華麗な技巧的パッセージを織り込んだものだった」(平野・38頁)。

ベートーヴェンが自作の「ピアノ協奏曲」第1番ハ長調(作品15)を初演したのは同じ1795年の12月18日。ハイドン主催の音楽会。ベートーヴェン、栄光の日々のスタートだ。
(平成19年3月29日)

「ピアニスト<中村紘子>が<腕立て伏せ>宣言」と前回の「(ベートーヴェン意外な関係・10)で書いた。音楽監督の大友直人の指揮で<東京文化会館>が「ベートーヴェンのピアノ協奏曲<全曲>演奏会」を企画した。一日で<全曲>を聴く。午後2時開演で終演は午後7時15分という。<興味津々>の火山、大奮発。家内を説得してカブリツキの<S席2枚>を入手した。

ベートーヴェンが最初の「ピアノ協奏曲」第1番ハ長調(作品15)を作曲したのはいつか。火山、さっそく調べてみた。ベートーヴェンが25歳の1795年の春らしい。というのもベートーヴェンはこの1795年3月29日、ウィーンのブルグ劇場で「ピアノ協奏曲」第2番変ロ長調(作品19)を初演しており、作品目録には<第1番>も1795年となっているからだ。第1番が先だったことは作品番号からも明白。

前途有望なボンの宮廷楽師だったベートーヴェンは音楽の都<ウィーン留学>を許されて1793年11月10日、ウィーンに到着した。23歳の青年ベートーヴェン、モーツアルトの良き理解者だったリヒノフスキー侯爵の持ち家に寄宿する。残念ながらモーツアルトは2年前の12月5日に35歳で既に世を去っていた。二人が会うチャンスは永遠に失われた。

ベートーヴェンはモーツアルトの師だったハイドンに師事する。幼い頃から「<第二のモーツアルト>を目指せ」と父親から期待されていたベートーヴェン。ハイドンへの弟子入りには多大な期待を寄せていたろう。だが不思議なことにハイドンはベートーヴェンの指導にあまり熱心ではなかった。既に61歳の高齢に達していたことも一因かもしれない。

「師が自分のレッスンに対して情熱と誠意に欠けていると感じたベートーヴェンは、師ハイドンがロンドンに向けて出発すると、誰に気がねをすることもなく、対位法の大家ヨハン・G・アルブレヒツベルガーにも師事し、240あまりの課題に習作を残している。それらの中には2声から4声のフーガ48曲と二重対位法34曲が含まれている。1795年3月まで続けられたレッスンの後期には作品1となる3つのピアノ三重奏曲が生まれている」(平野昭「ベートーヴェン」新潮文庫・39頁)。

面白いのはこの「ピアノ三重奏曲」変ホ長調(作品1)はリヒノフスキー侯爵に献呈された。リヒノフスキーはモーツアルトと同じ1756年の生まれ、夫人とともにモーツアルトからピアノを習い、親交も持ち、音楽的教養も高かった。
1795年8月末、ロンドンから師ハイドンが戻ると、ベートーヴェンはリヒノフスキー侯爵邸で開かれた毎週金曜日の音楽会で、2年前から作曲を進めていた3つの「ピアノ・ソナタ」
(作品2)を披露し、師に献呈したという。

「(3つの「ピアノ・ソナタ」は)いずれも4楽章構成をとり、モーツアルトやハイドンの
ソナタとはかけ離れた様式を持ち、音楽内容の点でも当時まで類例を見ないこの3曲を献呈されたハイドンは、いかなる思いで弟子を眺めていたのだろうか。しかも師ハイドンに献呈されたこの作品は栄光の1番ではなく2番であった。ベートーヴェンの皮肉であろうか、それとの師に対する批判を暗示するのだろうか」(平野・43頁)―――。

ハイドンはかつて53歳の1785年2月、ウィーンのモーツアルト邸で開かれた音楽会で、モーツアルトの父レオポルトに「私は神に誓って正直に申し上げますが、あなたのご子息は、私が名実ともに知る最も偉大な作曲家です。ご子息は趣味が良く、その上、作曲に関する知識を誰よりも豊富にお持ちです」と絶賛していたのだ。時にモーツアルトは29歳。それから僅か10年。63歳になったハイドンの前に25歳のベートーヴェンが現われた。

ベートーヴェンが対位法を学んだアルヒツベルガー(1736〜1809)は1793年から聖シュテファン大聖堂楽長に就任していた。ハイドンやモーツアルトとも親しく、ヘンデルやバッハの音楽に精通していた。そして聖シュテファン大聖堂楽長とは生前のモーツアルトが91年まで<副>楽長を務め、密かに狙っていたポストでもある。もしモーツアルトが生きていれば、きっと手に入れていたと火山は思う。運命の巡り合わせだ。

ベートーヴェンはアルヒツベルガーの弟子である間に「ピアノ協奏曲」第1番と第2番を完成させ、第2番変ロ長調(作品19)の方を先に初演する。
「作曲の勉強をひと通り終えたベートーヴェンは創作もさることながら、ウィーンで最高のピアニストの地位を得るべく公開の場へデビューする。1795年3月29日と30日の2日間に行われたウィーン音楽家協会主催の未亡人慈善音楽会において、ブルグ劇場の大ステージに登場したのである。初日は自作のピアノ協奏曲第2番(作品19)の独奏者として、そして翌30日にはピアノ即興演奏を行う」(平野・39頁)。

「(ベートーヴェンが)ウィーンの寵児となった最大の理由はピアニストとしての実力であった。名演奏家のひしめく当時のウィーンにあってベートーヴェンが注目を浴びたのは独自の二つの武器、一つはボン時代のオルガン奏者として身につけた即興術であり、もう一つはネーフェ(ボン国民劇場の音楽監督)から学んで完成させていたクラヴィコード奏法に由来するレガート奏法とカンタービレ奏法であった。この頃のウィーンではモーツアルトの演奏に代表される音の均質さ、響きの清澄さ、軽快な速度といった伝統的なチェンバロ奏法から来る真珠を転がすようなスタッカート気味のエレガントな奏法が流行していた。ベートーヴェンの生み出す響は新鮮だった」(平野・38頁)。
(平成19年3月28日)

えっ!あの中村紘子が<腕立て伏せ>―――。「何ごとか」と思った。だがすぐ納得。
「ベートーヴェン〜ピアノ協奏曲<全曲>演奏会」の文字が目に飛び込んできた。面白い。いつ―――。火山、思わず目を凝らした。

東京文化会館―――。ルイ・コルビジェに師事。戦前、戦後を通じ日本建築史に大きな足跡を残した前川國男の最高傑作。いつ見ても素晴らしい。大好きなコンサートホールだ。
高い天井、<憩い>を提供してくれる広いホワイエ。上野公園の眺めに心が和む。<友の会>会員の火山、毎月のDMが楽しみだ。部厚い封筒を開けたら飛び込んできた。中村紘子が<腕立て伏せ>―――。

あれは大船駅から瀟洒な商店街を歩いて辿り着いた<鎌倉芸術館>の<講演会>だった。指揮者の大友直人が語った。「ベートーヴェンの交響曲<全曲>演奏会を一晩でやるって企画したら、皆から<あざ笑われた>―――。でも外国では珍しくない」。聞いた途端、火山、思わずヒザを打った。面白い。機会があったら、聴いてみたい。

大友直人は48歳の若さ。だが東響の常任指揮者。東京文化会館<音楽監督>―――。その大友が「中村紘子のベートーヴェン〜ピアノ協奏曲<全曲>演奏会〜」を企画した。
リーフレットを読んでさらに仰天。なんと一日で<全曲>を聴く。午後2時<開演>。<終演>は午後7時15分。5時間15分の長丁場だ。でも面白い。休憩時間に広いホワイエでゆっくりくつろぎ、場合によっては上野公園を散歩してもよい。

「最初から中村さんにお願いしようと思っていた。無理を承知でお願いした。クオリティの高い演奏を望みたい」と大友。「(私に)白羽の矢が立ったのは、体力を見込まれて(笑い)?!。ベストを尽くして演奏したい。今から腕立て伏せなどして、頑張ってまいりたいと思います」と中村も熱いメッセージ。

東京文化会館のチケット・サービスが始まる時間を待ちかねた。でも何度かけても<話中>―――。11時半、ようやくつながった。グダグダいう家内を強引に説得―――。家内は大友直人の大ファン。カブリツキ<S席2枚>を買った。文句をいわないこと。
火山が知っているベートーヴェンの「ピアノ協奏曲」は<皇帝>だけ。「ピアノソナタ」やピアノの小品は聴くが、「協奏曲」を聴く機会は多くはない。でも最近、知った。モーツアルトもベートーヴェンも、ウィーンでデビューした時、まずピアニストとして成功した。

2人に共通するのは<作曲>の才能。親しみやすい「主題」を選び、変幻自在の<変奏曲>で聴衆を捉えた。もちろん演奏のテクニックも抜群。モーツアルトにとって「ピアノ協奏曲」は自分を売り込む絶好の手段。若き日のベートーヴェンも同じだった。
ベートーヴェンが「ピアノ協奏曲」を最初に書いたのは1793年11月、23歳でウィーンに移住、ハイドンや対位法の大家ヨハン・G・アルブレヒツベルガーに師事、作曲の方法をひと通り終えた1年半後のことだ。

「(ベートーヴェンは)ウィーン最高のピアニストの地位を得るべく、公開の場へデビューする。1795年3月29日と30日の2日間にわたって行われたウィーン音楽協会主催の未亡人救済慈善音楽会においてブルグ劇場の大ステージに登場したのである。初日は自作のピアノ協奏曲第2番(作品19)の独奏者として、そして翌日はピアノ即興演奏を行う」(平野昭「ベートーヴェン」新潮文庫・39頁)―――。

面白いのは<即興演奏>の翌3月31日「モーツアルト未亡人が同(ブルグ)劇場で主催した亡夫のオペラ<皇帝ティトゥスの慈悲>(K621)上演の幕間にモーツアルトのピアノ協奏曲を独奏している」(平野・42頁)こと。
この時はベートーヴェンが後に自らカデンツァ(ソリスト用の華麗な独奏パート)まで書き残すほど気に入っていた<ニ短調協奏曲>(第20番・K466)を演奏している。

さらに面白いのは火山の体験。クラシック歴<55年>の去年、突然モーツアルトが好きになった。<第20番ニ短調>を聴いたからだ。火山もベートーヴェン並み!なんちゃって。
ベートーヴェンは25歳の1795年に二つのピアノ協奏曲を完成させる。第1番ハ長調(作品15)と3月29日に初演した第1番。第2番は同じ年の12月18日、ハイドン主催の演奏会に独奏者として初演している。

大友直人は「大晦日のベートーヴェン交響曲<全曲>演奏会に参加した経験があり、ベートーヴェンの作品を一気に通して聴くのは、演奏者にとっても、お客様にとっても意味のあることと思って発案いたしました」と語っている。確かに凄い。大晦日の<節目>。午後2時から始まって、終わるのはカウントダウンの深夜。カッコイイ。

「ベートーヴェン〜ピアノ協奏曲<全曲>演奏会」―――。ピアノの中村紘子は「第1番(ハ長調・作品15)から第5番(変ホ長調・作品73)まで通して聴くことで胸が打たれる。特に第3番(ハ短調・作品37)から第4番(ト長調・作品58)に入った時の変化は、一人(ベートーヴェン)の中でこれほど精神的に高まることがあるんだと感動した。
当日は弾き手と聴き手が一日でそれを体感できる。大友さんとご一緒。エキサイティングで幸福な、充実した演奏会になると確信しています」ですと。ワクワク。
(平成19年3月26日)

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「モーツアルトはウィーン移住後、またたく間に人気作曲家・演奏家となり、経済的にも大成功をおさめた。しかし、1786年頃から徐々に人気を失い、作品も難解という理由であまり演奏されなくなった。演奏会を企画しても客が集まらず、収入は激減し、妻の療養費なども嵩んで借金を重ね、人々に理解されぬまま、貧困のうちに35歳の若さで病没した―――多くの人が信じてきたのは、こうした<悲劇の天才>としての晩年像にちがいない」(西川尚生「モーツアルト」音楽之友社・190頁)。

火山は今までモーツアルトのことをほとんど知らなかった。貧窮のうちに若死に。墓さえない。でも妻はモーツアルトの父親と同じ墓に眠る。悪妻の典型。神童と騒がれ、数多くの名曲を残したにしては、実に気の毒な人生だった。知っていたのはこの程度。
だが最近の研究によればモーツアルトは晩年でも凄い収入があった。ウィーン最大の総合病院の院長より遥かに高額の年収があった。それも毎年のことだ―――。

「モーツアルト」(音楽之友社)の西川尚生によれば、研究者が楽譜出版社<アルタリア>などモーツアルトと関係のあった取引先の帳簿など記録を精査、推計した数字がある。
詳しくは前回をご参照いただきたいが、ブラウンベーレンス(1986)はモーツアルトが病死した1791年の年収は3725フロリン(3725万円)と推計している。これは確実な記録のあるものだけ。他に記録が残らないレッスン代、演奏会の収益、楽譜出版の報酬が相当あった。M・ソロモン(1995)の計算では同じ1791年の年収は3672〜5672フロリン。

「たとえ収入が減少し、(戦争で)物価が上っても、モーツアルトくらいの収入なら、生活を切り詰めれば何とか乗り切れたはずである。実際、モーツアルトは住居に関しては節約しており、1784年11月から住んでいた家賃460フロリン(460万円)という、シュテファン大聖堂近くの高級住宅(「フィガロハウス」)を1787年に引き払い、88年6月からは、家賃のずっと安い郊外のアルザーグルントの住居に住むようになった」(西川・193頁)。

だがその他では生活を切り詰めた形跡はない。「遺産目録」には「高価な衣類、家具、ビリヤード台、食器、書籍など400フロリン(400万円)以上の価値がある品々が並んでいた。モーツアルトが衣装に金をかけていたことは同時代者の証言から明らかであり、貴族や友人たちとの社交も欠かさなかったので、出費も多かったと思われる」(西川・193頁)。

晩年のモーツアルトは借金を重ね、死後、800フロリン(一説では2000フロリン以上)の負債が残り、手元の現金はわずか60フロリンだった。1フロリンは約1万円。現金60万円、借金800万円(一説では2000万円)になる。だがモーツアルトの借金は他にもあった。

「1789年には最高裁書記のフランツ・ホーフデーメルから100フロリン、1790年には商人のハインリヒ・ラッケンバッハーから『自分のすべての動産』を担保の1000フロリンを借りている。W・ブラウンアイスが近年発見した文書によれば1791年11月にモーツアルトは、かつて北ドイツ旅行に同行したリヒノフスキー侯爵から借金返済を求める裁判を起こされ、1435フロリン32クロイツァー(および裁判費用24フロリン)の支払いを命じられている」(西川・192頁)。リヒノフスキー候は3年後ベートーヴェンのパトロンになる。

では物凄い<高額所得者>で<金持ち>だったはずのモーツアルトが<借金地獄>に悩んだ本当の原因は何だったのだろうか。
「1789年以降、コンスタンツェは金のかかるバーデンでの療養をつづけていたし、息子のカール・トーマスがいれられていたベルヒトルヅドルフの寄宿学校は、年間400フロリン(400万円)もかかったという。多くの論者が指摘するように、こうしたモーツアルト一家のぜいたくな暮らしぶりも、困窮を引き起こした原因だったのだろう」(西川・194頁)。

西川尚生は学者だからあまりハッキリは断定しない。でも火山は自由の身。実はある大胆な<仮説>を持っている。それはモーツアルトと愛妻コンスタンツェの関係だ。以前、ウィーンで経済的に行き詰まったモーツアルトが、そこから抜け出す方策としてリヒノフスキー公爵に同行した<北ドイツ>旅行のことをご紹介した。モーツアルトは外国から来た優秀な音楽家を優遇するプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世のウワサを聞き、金策を思いつく。だがこれは前述のごとく失敗に終わった。

モーツアルト研究家M・ソロモンによると「モーツアルトがプロイセン宮廷で実際に演奏したかどうかさえ疑わしく、この旅行でモーツアルトが持ち帰った100フリードリヒ・ドール(ブラウンベーレンスに寄れば785フロリンに相当)は旅行の失敗を(愛妻)コンスタンツェに悟られないようにするため、リヒノフスキー侯爵かドゥーシェク夫人に借りたものではないか」(西川・177頁)というのだ。785フロリンは785万円。大金だ。モーツアルトはコンスタンツェを相当意識している。旅先から沢山出している手紙でも明白。

モーツアルトの父レオポルトは25歳のモーツアルトがウィーンで暮らし始めた頃、<お人好し>のモーツアルトが下宿先のウェーバー夫人から騙されるのではないかと心配した。夫人の評判が悪く「娘たちは<金遣い>が荒い」というウワサを聞いたからだ。
モーツアルトの初恋の相手はこのウェーバー夫人の娘アロイジア。美人だったが、自分がミュンヘン歌劇場のプリマドンナになった途端、モーツアルトを手酷く振った。父レオポルトは激怒した。それなのにモーツアルトは3年後に妹のコンスタンツェと恋仲になった。
しかも不美人。父はモーツアルトの結婚にはずっと反対だった。有名な話だ。ああ―――。
(平成19年1月15日)

「(晩年の)モーツアルトは借金を重ね、最終的に亡くなった時には、少なくとも800フロリン(一説によると2000フロリン以上)の負債があり、残された現金はわずか60フロリンだった」(西川尚生「モーツアルト」音楽之友社・192頁)という。
1フロリンは約1万円だから、手元現金は60万円、借金は800万円(一説では2000万円以上)になる。モーツアルトの借金はそれだけではない。有名な借金懇願の<プフベルク書簡>。プフベルクはウィーンの富裕な織物商人。彼にも借りていたことは明白。

「他の人物にも借金があり、1789年には最高裁書記のフランツ・ホーフデーメルから100フロリン、1790年には商人のハインリヒ・ラッケンバッハーから『自分のすべての動産』を担保の1000フロリンを借りている。さらにW・ブラウンアイスが近年発見した文書によれば、1791年11月にモーツアルトは、かつて北ドイツ旅行に同行したリヒノフスキー侯爵から、借金返済を求める裁判を起こされ、1435フロリン32クロイツァー(および裁判費用24フロリン)の支払いを命じられている」(西川・192頁)。

カール・リヒノフスキー侯爵(1756〜1814)はモーツアルトと同い年。夫人クリスティアーネとともにモーツアルトにピアノを学び、高い音楽的教養を身に付けていた。
リヒノフスキー候、モーツアルトの死後1793年11月、ベートーヴェン(23)がウィーンに留学すると持ち家に住まわせ、ハイドンのレッスンを受けられるよう支援する。ベートーヴェンは1795年に完成させた「3つのピアノ三重奏曲」(栄光の<作品1>)や「交響曲」第2番(作品36)など、数多くの作品を候に献呈、親密な関係を結ぶ。

晩年のモーツアルトは<極貧>だったのだろうか。長年大きな<謎>とされ、近年、様々な研究が進んでいる。モーツアルトを知るためには<非常に面白い>と火山は思う。
モーツアルトが困窮に落ち込んだ最大の原因は皇帝ヨーゼフ2世のオーストリア帝国が1788年初頭に参戦したトルコ戦争にある。輸入が途絶え、物価高騰や食糧不足は深刻。戦費調達の増税もあった。1788年7月31日にパンの分配を求める市民の暴動も勃発する。

「モーツアルトにとって打撃だったのは顧客だった貴族の多くが出征、あるいは領地に帰ってしまったため、演奏会が開きづらくなったことである。1789年7月に予約演奏会を企画した時、予約者がヴァン・スヴィーテン(1734〜1803)だけだったのは、モーツアルトの人気が落ちたからではなく、こうした外的な要因によるものだろう」(西川・192頁)。

スヴィーテン男爵は当時、宮廷図書館長。音楽への造詣が深く、長年バッハとヘンデルの楽譜を収集、毎週日曜日には宮廷図書館内の自宅で音楽会を開いていた。実は古くはハイドンもモーツアルトも、さらにはベートーヴェンまでも、スヴィーテン男爵を通じて<バッハ・ヘンデル体験>と呼ばれる研鑽を深め、対位法など音楽技法を磨いている。ベートーヴェン(30)は男爵に感謝、「交響曲」第1番(作品21)を1800年に献呈している。

1781年、ウィーンに定住した頃のモーツアルトは<予約演奏会>で人気を集めていた。「1784年の春には予約者は174名。名門貴族や裕福な市民たちがずらりと名を連ねる。モーツアルトは誇らしげに予約者全員のリストを父レオポルトに送った。わずか5年後に、予約者がヴァン・スヴィーテン男爵たった一人になってしまうなどとは、この頃のモーツアルトは夢想だにしなかったろう」(田辺秀樹「モーツアルト」新潮文庫・109頁)。

25歳でウィーンに移住。瞬く間に人気を得たモーツアルト。カリスマ・ピアノ教師、ピアニスト、作曲家として大成功する。だが30歳過ぎた頃から人気が翳り、晩年は借金漬け。
35歳で貧窮のうちに病死。埋葬には誰も立ち会わず、遺体は行方不明。墓もない―――。
これが普通のイメージ。だが本当にモーツアルトは貧乏だったのか。―――意外!!

「近年の研究は、モーツアルトがウィーン時代をつうじて、かなりの高額所得者だったことを明らかにしている。ここではブラウンベーレンス(1986)が計算した、各年の推定年収を挙げておこう。1781年<962フロリン>(962万円)、1782年<1526フロリン>、1783年<2250フロリン>、1784年<1650フロリン>、1785年<1279フロリン>、1786年<756フロリン>、1787年<3216フロリン>、1788年<1025フロリン>、1789年<2535フロリン>、1790年<1856フロリン>、1791年<3725フロリン>」(西川・191頁)。

1フロリンは約1万円。35歳で病死した1791年でさえ<3925万円>というから物凄い。患者を2000人収容できるウィーン総合病院の院長の年俸は3000フロリンだった。モーツアルトはその上を行く<高額所得者>だ。
しかも、以上の収入は資料的に確実なもの。この他に記録に残らないレッスン代、演奏会の収益、楽譜出版の報酬などがあった。ブラウンベーレンスは「それらを含めるなら実際の年収ははるかに高額になるだろう」(西川・191頁)と指摘している。

別の研究者M・ソロモン(1995)の計算では「ブラウンベーレンスで756フロリンだった1786年が2604〜3704フロリン、晩年で最も収入が少ない1788年が1385〜2060フロリン、最も収入が多かった1791年が3672〜5672フロリン」(西川・191頁)というのだ。

こんな物凄い<高収入>のあったモーツアルトがなぜ借金を重ねたか。そこに実に意外なモーツアルトの<素顔>が隠されている。火山も仰天した。モーツアルトを正しく理解するためには、この<借金の謎>は避けて通れないのだ。―――<続く>―――。
(平成19年1月9日)

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