火山の独り言

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大化改新の真相

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入鹿暗殺は645年6月12日。この日を境に政治の実権は中大兄皇子とその母・斉明女帝の手に移り、大改革<大化改新>が始まったとされる。天皇家を滅ぼそうとした大逆臣<蘇我>氏が倒れ、抵抗勢力が消えた。豪族連合の首長に過ぎなかった<天皇家>が<律令>による<中央集権>国家の中心に立ったというのが従来の定説だった。
だが2月2日、放送された「NHKスペシャル」<大化改新>「隠された真相」は<古代史>大好きな火山にとって<天地>が<逆転>するような<仰天>の内容だった。

飛鳥の甘樫丘(あまかしのおか)の上と下にあったとされる蘇我蝦夷、入鹿の館跡は「日本書紀」が記すような<大豪邸>ではなく<兵器庫>と<兵舎>―――。天皇の宮殿(板蓋宮>を囲む<大要塞>だった。
<逆臣>とされた入鹿はむしろ外敵の侵略から天皇家を守る先頭に立っていた。それだけではない。当時、中国で台頭、周辺諸国の<脅威>となっていた<唐>帝国と<融和>外交を結び、倭国(日本・大和朝廷)を唐の侵略から守ろうとした<忠臣>だったのだ。

東洋大の森公章教授は番組の中で、7世紀の日本の歴史を国際情勢から読み解き、<大化改新>とされる<大改革>は<入鹿暗殺>の645年ではなく、<18年後>の663年<白村江の戦い>の<完敗>の後に始まったと指摘した。

「それを物語る史料が近年、飛鳥で数多く出土している」と「NHKスペシャル」は放送した。出土したのは7世紀末の<木簡>――−。<竹田五十戸>とか<諸岡五十戸>とか読める。いずれも<納税>の記録。それまで豪族が集め<国庫>に納入されていたものが、直接<中央政府>の<徴収>に代わったという記録。いずれをとっても白村江の敗戦<663年>以降の年号なのだ。不思議なことに、それ以前の木簡は一つも発見されていない。

<蘇我>研究の第一人者、大阪府立大の門脇禎二名誉教授は指摘する。「入鹿と中大兄は外交路線で対立していた。東アジアの情勢に通じていた入鹿は<唐>を中心とする<開明的><先進的>な外交を展開しようとしたが、中大兄は<百済>を中心に<保守的><反動的>路線をとった。それが<入鹿暗殺>というクーデターの背景にあった」―――。

蘇我氏の先祖には<高麗>とか<韓子>とか朝鮮半島の地名を持つ先祖がいる。蘇我氏の古墳からは<ガラス製の椀>や<火熨斗>(古代のアイロン)など渡来人がもたらした品々が多く出土している。大陸や朝鮮半島の情勢に通じていた。630年に長らく途絶えていた<遣唐使>を再開したのも入鹿の父<蝦夷>だった。

一方、入鹿暗殺の後の中大兄皇子も行動を見ると、蘇我氏が<飛鳥防衛>と<唐外交>に心血を注いだのに対し、唐を警戒したり、防衛しようという政策を採ろうとしていない。
当時の飛鳥では<酒船石遺跡>とか<須弥山石>とか天皇の<祭祀>用の風変わりな建造物、あるいは大規模な運河とか、天皇の権威を高める土木工事の遺跡が発見されるだけ。

660年、唐と新羅の連合軍が百済を滅亡させると、中大兄皇子は百済の王子を匿い、唐に敵対するような外交を行う。その結果が唐・新羅連合軍と倭国(日本)の<白村江の戦い>。
「我ら先を争はば彼自ずから退くべし」(我々が攻め立てれば唐の軍勢は逃げる)と中大兄はタカをくくっていた。だが実際には倭国の軍船は唐の巨大の軍艦(楼船)に完膚なきまでに撃滅されてしまう。海は倭国の兵の屍で埋まり、血で海は赤く染まった。

<白村江の完敗>の後、中大兄は唐の侵略に備え、飛鳥の丘陵の尾根に周囲8キロの<城壁>を構え、外側に数多くの<物見台><ノロシ台>を構えた。さらに瀬戸内海から北九州に及ぶ<山城>を各地に建設した。

岡山県総社市に遺る古代の山城<鬼の城>は全長2.8キロの<土塁>が山頂を囲んでいる。
土塁は<版築>(はんつき)という土を何層にも固めた当時最新の技術で造られた<築城>。延べ数十万人の労働力が動員されたと試算されている。
中大兄から即位した<天智>天皇はこの<山城>を瀬戸内海から北九州まで、中国・朝鮮からの侵略ルートに沿って数多く築き、飛鳥から北九州にいたる<大防衛網>とした。唐の大軍が攻めてくるという切実な<危機感>が<政治改革><律令体制><中央集権>国家を作らせた。これが<大化改新>の<真相>。入鹿は<逆臣>だったというのは捏造だ。

古代中国語が専門の京都産業大の森博達教授は「大化改新を記述した『日本書紀』の巻24と巻25は、大陸から渡来した中国人によって正しい発音と語法で書き上げられた後、中国語の知識を欠いた日本人の手で<改竄>された」と分析。「<潤色加筆>は事実だ。だから『日本書紀』に書かれたことが実際にあったとはいえない」と断言する。つまり<入鹿>=<逆臣>とはいえない。大化改新も入鹿暗殺とは関係がない。

飛鳥の発掘調査は1300年の歳月を超えて大変な古代史の真相を暴き出した。「日本書紀」の編纂をしたのは「大化改新」の<功臣>とされる中臣鎌足の子<藤原不比等>と中大兄皇子(後の天智天皇)の娘<持統女帝>と<元明女帝>の3人。完成したのは720年。奈良へ都が移された710年(和銅3年)の10年後だ。大化改新の75年後。
もう一つ指摘したい。火山は「聖徳太子は実在しない」(書庫)を連載した。これは古代史が専門の大山誠一教授「聖徳太子の誕生」(吉川弘文堂)がベース。大山博士は「日本書紀」が<聖徳太子>を<捏造>したことを様々な角度から<検証>したのだ。これも凄い。
(平成19年2月19日)

2月2日放送「NHKスペシャル」<大化改新>「隠された真相」は驚くべき内容だった。「蘇我氏は天皇を滅ぼそうとした<大逆臣>」という通説が発掘調査で覆された。
奈良文化財研究所が行った甘樫丘(あまかしのおか)一帯の発掘調査の結果、<大豪邸>と言われた蘇我蝦夷、入鹿父子の邸宅跡から発見されたのは兵器庫と兵舎ばかり。天皇の宮殿<板蓋宮>を囲んで蘇我一族は邸宅や飛鳥寺を構え、外敵の侵略から防衛する形。遺構は朝鮮半島の百済の都<プヨ>(扶余)とソックリ。入鹿は逆に<大忠臣>だったのだ。

東アジア、中国や朝鮮半島の情勢に通じていた蘇我入鹿は飛鳥の防衛を固める一方、唐との融和を図るため外交にも積極的だった。瀬戸内海を通じ東アジアにつながる難波の港を重視、大阪の中心部に外交拠点を置こうとしていた。テレビでは入鹿の時代、飛鳥で流行していた<伎楽>が紹介された。唐の文明や文化を賛美する内容だったという。

古代中国語が専門という京都産業大<森博達>教授がテレビで指摘した。「大化改新が記された『日本書紀』の巻24と25は古代中国語の正しい発音と語法で漢字が使われている。大陸から渡来した中国人が執筆したと考えられます―――。
ところが巻24の中大兄皇子が入鹿暗殺の大義を天皇に述べた箇所には中国人が犯しそうもないミスがある。『豈(あに)天孫をもちて鞍作(入鹿)に代えむや』(天皇の子孫をなぜ入鹿に代えるか)。<天孫>と<鞍作>の位置が逆。つまり正しい<漢文>になっていない。

また巻25の『入鹿暗殺の直後から<改革>が行われた』という部分には<24ヶ所>も誤りがある。これはどういうことか。中国人の執筆者が亡くなった後、『日本書紀』編集の最終段階で大化改新の記事に大幅な手が加えられた。これは事実です。となると『日本書紀』に書かれたことが実際にあったとは言えなくなる」―――。森博達教授は断言した。

中大兄皇子と中臣鎌足による入鹿<暗殺>は朝鮮三国からの使節を迎える儀式の中で起った。「臣、罪を知らず」(私に何の罪があるのでしょう)―――。頭と肩を切られた入鹿はそう絶叫して息絶えた。翌日、甘樫丘で焼き討ちにあった蝦夷は抵抗せずに滅亡した。
「日本書紀」はその直後から<大化改新>が始まったと書く。だが―――。

「NHKスペシャル」では入鹿暗殺の後、飛鳥では不思議な土木工事が始まったという。<酒船石遺跡>―――。亀の形を石造りの誘水施設。天皇の祭祀に利用された。聖なる山<須弥山>を象ったとされる<須弥山石>―――。天皇の権威を知らしめるために使われた。大規模な土木工事によって建設された<運河>―――。建設には数万人の労働力が動員された。いずれも外敵の侵略に備えた緊迫感はない。

645年6月の入鹿暗殺の後、政治の実権を握ったのは中大兄皇子と母の斉明女帝。その後、東アジアの政治情勢は緊迫していた。660年、唐は新羅と連合して13万の大軍を倭国(日本)の友好国<百済>に送った。百済の首都<プヨ>から戦いの結果を如実に示す瓦が出土している。プヨは唐によって占領された。遺跡から<大唐>と刻印された瓦が大量に発見されている。唐の司令部の屋根の軒先を飾ったものだ。

隣国の<百済>は滅亡した。それは唐の脅威が倭国に迫ったことを物語る。だが中大兄は百済の王子を匿い、その再建を支援する。唐を敵にまわすかのような外交を展開した。
その一方、国内では唐の侵略に備える気配はない。入鹿暗殺から既に15年が過ぎていた。つまり<大化改新>と言われる政治改革が進んだという形跡はない。

「それはかつて入鹿がとった<唐>を中心とした先進的な外交政策とは正反対。むしろ<百済>一辺倒の保守的政策。唐に対する外交路線で対立していた入鹿を中大兄ら反動的な勢力が倒したクーデターだったのではないか」とは京都府立大・門脇禎二名誉教授の解説。

「入鹿死後18年の663年、中大兄の外交路線が試される時が来た。倭国軍が朝鮮半島の百済に出兵、唐・新羅の連合軍との決戦に及んだ」と「NHKスペシャル」は語る。
<白村江の戦い>―――「我ら先を争はば彼自ずから退くべし」(真正面から攻めれば唐は一目散に逃げる)。中大兄は甘く見ていた。だが唐は巨大戦艦(楼船)を持ち、圧倒的な軍事力を誇っていた。倭国の軍船は次々と撃破され、海は倭国の兵の屍で埋まり、血で赤く染まった。倭国の完敗。中大兄は大きく政策転換を余儀なくされる。

<八釣ヤマキ遺跡>が映った。飛鳥を囲む丘陵の尾根から謎の<掘立柱>の列が発見された。発掘調査を行った明日香村教委の相原嘉之さんが解説する。「柱の跡は一直線に並び、飛鳥を囲んで8キロに及ぶ。これは飛鳥全体を防衛する<城壁>だった」―――。
飛鳥から4キロ離れた<森カシ谷遺跡>。円形に並んだ柱は物見(ノロシ)台の遺構。城壁の外には同じような施設が数多く残っている。<天智>天皇になった中大兄が建設した。

東洋大の森公章教授は7世紀の国際情勢から飛鳥防衛網を読み解く。<白村江の敗戦>で<唐>侵略に備え天智天皇は政治改革を急いだ。防衛網は瀬戸内海から北九州に及ぶ。
岡山県に古代の山城<鬼の城>(総社市)がある。似た山城がずっと連なって残っている。
天皇は今まで豪族連合の<首長>に過ぎなかった。だが<白村江の完敗>―――。
天智は唐の侵略に脅え<中央集権>国家=律令体制への改革を急ぐ。これが<大化改新>の真相。蘇我入鹿は<逆臣>などではなかった。唐と百済を巡る外交政策で中大兄と対立、その犠牲となったのだ。「日本書紀」の記述も<逆臣>と捏造していたに過ぎない。
(平成19年2月18日)

<古代史>最大の政変<入鹿>暗殺は西暦645年6月12日に起った。そして<天皇>中心の<律令>体制、中央集権国家への大政治改革<大化改新>が始まった。蘇我一族は「天皇を滅ぼそうとした<大逆臣>」というのが従来の通説―――。

だが飛鳥・甘樫丘(あまかしのおか)一帯の発掘調査の成果は、それを覆す<重大>な<真相>を明らかにした。大化改新を主導した鎌足の子・藤原不比等が編纂した「日本書紀」の記述にも信憑性が疑われる<新事実>が浮かんでいる。さる2月2日に放送された「NHKスペシャル」<大化改新>「隠された真相」は驚くべき内容だった。

大化改新の<功臣>鎌足を祭る段山神社(奈良県桜井市)に伝わる「多武峰(とうのみね)縁起絵巻」によれば「蘇我蝦夷・入鹿父子は甘樫丘に天皇家を脅かす大豪邸を建てた」。だが発掘で発見された遺構は武器庫、兵舎が主体。豪邸は見当たらなかった。蘇我氏の邸宅跡は氏寺の飛鳥寺を含め、天皇の宮殿を取り囲み<大要塞>の性格を持っていた。それらは<外敵>の襲来に備えたものだったのだ。

では外敵とは―――。海の向こうの大陸に誕生した大帝国<唐>だった。唐は強大な軍事力を背景に周辺諸国に侵略の手を広げようとしていた。朝鮮半島には高句麗、新羅、百済の3国があり、日本列島には倭国があった。飛鳥に本拠を置く<大和>朝廷だ。

テレビに北京大学図書館が映った。中国の歴代諸王朝の軍備を集大成した資料が保存され、唐の軍事力を知る手がかりがあった。放送では主力となる<軍艦>の絵姿が紹介された。
三層の<櫓>(やぐら)を載せた巨大な軍艦。全長120m、高さ30m。広い甲板は車や馬が走り回れる。巨大な<楼船>には攻撃と守備のための様々な装置が装備されていた。

<櫓>の壁は水を含んだ厚い<牛革>で覆われ<火矢>が突き刺さっても火災にならない。兵士が隠れながら<矢>を放つ<女墻>(ひめがき)も装備。遠方の船を狙う<投石機>もあった。ユニークなのは<発竿>(はっかん)。間近に迫った船に石を落として撃沈する。唐はこの軍艦を海に繰り出し、周辺国を脅かしていた。唐の<軍隊>を現した<兵馬俑>がテレビに映された。<兵>も<馬>も<軽装>で<機動力>に勝れている。

<巨大軍艦>で<海上防衛線>を突破すると<軽騎兵>が怒涛の勢いで<都>へ攻め上る。唐の軍隊は周辺国の恐怖の的。<飛鳥>の<入鹿>が恐れていたのは、この<唐>からの<侵略>だったのだ。

「NHKスペシャル」の画面が一転。映し出されたのは<韓国>中部の町プヨ(扶余)。<唐>の脅威から身を守ろうとした<百済>の都があった。クアンプクリ遺跡―――。発掘が進み<首府>と表記された<瓦>の破片が出土した。<王宮>の跡だ。

プヨでは丘陵の地形を生かして都の<要塞化>が行われていた。王宮に隣接して山小高い丘がある。プソ山。山上に<兵器庫>と<兵舎>があった。王宮を守る軍事拠点だ。飛鳥の甘樫丘にソックリ―――。韓国チュンナム大スンパル教授が登場した。
「構造的に見ると、甘樫丘はプソ山と同じ役割を持っていた。つまり飛鳥は韓国のプヨの都をモデルにして造ったのではないか」。

なぜ蘇我氏はプヨを飛鳥のモデルにできたのか。蘇我氏は朝鮮半島と密接な関係を持つ豪族だった。入鹿には<高麗><韓子>など朝鮮半島の地名を持つ先祖がいる。百済出身の渡来人との説もあるほど。入鹿は渡来人から大陸や周辺国の情報を得て、唐の脅威を察知、プヨの都をモデルに飛鳥の防衛に全力をあげた可能性がある。

入鹿が行ったのは防衛だけではない。唐の侵略を受けないよう友好関係を築く外交にも力を注いだ。630年、父・蝦夷は唐との交流を深めるため<遣唐使>の派遣を始めている。入鹿はこの外交路線を引き継いでいた。
藤原一族の「藤氏家伝」に唐から帰国した僧の入鹿に関する談話がある。「我が堂に入る者、蘇我の太郎(たいろう=入鹿)に如くはなし」(我が弟子で入鹿に勝る者はいない)。「入鹿は国際情勢に通じた<開明的>な人物だった」とNHKスペシャルはいう。

後に<難波宮>が置かれた大阪の中心部がテレビに映った。入鹿はこの難波に<外交拠点>を置き、唐との外交を推進しようとしていた。「そう、読み取れる記述が『日本書紀』にある」と京都府立大の門脇禎二教授の解説。門脇教授は<蘇我>研究の第一人者という。

当時の難波は海に面していた。瀬戸内海を通じて直接<東アジア>につながる海の玄関口。
「入鹿が難波を重視したのは唐を中心とした新しい外交政策、軍事的政策を考えていた。海外の文化的情勢など多面的に情報を把握しながら唐と融和、その他の国々とどう対応するか。入鹿は一方で都の防衛を固めながら、もう一方では唐との外交を進めるという両面作戦で侵略を防ごうとしていたのです」と門脇教授。

しかし、645年6月12日、入鹿に運命の時が訪れる。この日、宮中では朝鮮3国からの親善使節を向かえる儀式が行われることになっていた。入鹿はその儀式に参列するため御前に控えていた。その時、柱の陰に隠れていた中大兄皇子と鎌足の刺客が襲った。頭と肩を切られた入鹿。瀕死の中で叫んだ。「臣、罪を知らず」(入鹿に何の罪があるのでしょう)。
(平成19年2月16日)

2月2日(金)夜、放送の「NHKスペシャル」<大化改新>「隠された真相」―――。「古代史」大好きの火山には<驚天動地>の大事件だった。何しろ天皇家を滅ぼそうとした<大逆臣>という蘇我入鹿が実は<大忠臣>だったというのだ。
蘇我一族は東アジアを制圧した大帝国<唐>の侵略から倭国(日本)を防衛しようと天皇の宮殿<飛鳥板蓋宮>を囲む<大要塞>を甘樫丘(あまかしのおか)一帯に構築していた。それが最新の発掘調査と「日本書紀」の研究から分ってきたというのだ。

大化改新は古代史を揺るがす最大の<政変>。西暦645年6月12日の<入鹿暗殺>に始まった。襲ったのは天皇(皇極女帝)の長男・中大兄皇子と中臣鎌足。頭と肩を切られた入鹿は「臣、罪を知らず」(私に何の罪があるのでしょう)と女帝に訴えながら息絶えた。

大化改新の<功臣>鎌足を祭る談山神社(奈良県桜井市)に伝わる「多武峰(とうのみね)縁起絵巻」には「蘇我一族は甘樫丘に天皇の権威を脅かす<大豪邸>を建て専横を極めた」と<絵詞>にある。そこで昨年8月から奈良文化財研究所は「日本書紀」の記述「谷(はざま)の宮門(みかど)」を手がかりに甘樫丘東麓を発掘、伝説の<大豪邸>を探してきた。

放送の前日に発表された結果によると、建物の柱跡が次々と現われた。土器などの出土品から7世紀の建造物、つまり入鹿の館跡と判明した。地下から「盛土」の跡が発見された。
「恐らくこの周辺は凄い斜面だった。利用するには<平坦>にしないといけない。土を運んできて何回も積み重ねた。かなり力を入れて工事をしている」―――。発掘した奈良文化財研究所の<西田紀子>さんのコメント。さらに掘り進めると堅固な石垣も現われた。

「この土地は<窪地>だった。そこに盛土を重ね石垣で補強している。大規模な造成工事を経て館を築き上げた」と西田紀子さんはことばを続ける。だが甘樫丘の前面にはムリをしなくても建物を建造できる平坦な土地がいくらでも広がっていた。入鹿はなぜ、大規模な造成工事まで行って<ここ>に館を築いたのか。

京都橘大の猪熊兼勝教授は建物の<裏山>が<見晴らし>の良い丘であることに注目する。
「遠くから外敵がやってきても、いち早く察知できる。ここで見張れば状況をよく把握できる。入鹿はそれを考えて、わざわざこの土地を選んで館を築いたのではないか」―――。
大和平野の東南の隅に位置する<飛鳥>の都。甘樫丘など小高い丘が天然の<要害>となっていた。外敵が侵入するとすれば丘が途切れる<北>と<南>―――。甘樫丘はその北に突き出ている。大和平野から来る外敵をいち早く察知、防御できる位置にある。

南側には何があったか。実は蘇我氏の邸宅があった。天皇の宮殿<板蓋宮>の南800mのところに<馬子の墓>と伝えられる<石舞台>古墳がある。馬子の邸宅<島庄>遺跡が隣接していたのだ。最近の発掘調査で、その規模が分ってきた。敷地は6.5haと甲子園の1.5倍。多くの建物が点在していた。南から侵入する外敵は馬子の邸宅群にぶつかる。
そして反対側の北側―――。意外な建物があった。蘇我氏の氏寺<飛鳥寺>。

昭和31年以来の発掘調査で<飛鳥寺>の全容が見えてきた。南北300m、東西200m。<一棟三金堂>の威容を誇る大伽藍。巨大な寺院だった。
昨年11月、講堂を支えた礎石が4つ発見された。直径60cmの太い柱を支えたもの。飛鳥寺は最新の技術を導入した最も頑丈な建造物。伽藍の周囲は堅固な築地塀で囲まれていた。「日本書紀」には「飛鳥寺は有事の際には<砦>として活用された」と記されている。

一方、甘樫丘東麓で進む発掘調査。入鹿の館跡と見られる遺跡がいくつも姿を現した。大豪邸が予想された。だが発見されたのは10坪ほどの小屋の跡ばかりだった。
注目されたのは柱の配置。住居の跡であれば<周囲>に並んでいるだけの柱が<中>にも建っている。倉庫特有の建て方という。何のための倉庫か―――。「日本書紀」に手がかりとなる記述があった。「家の外には城柵を巡らせ、門の畔には兵器庫を設けた」―――。

奈良橘大の猪熊兼勝教授は「小屋は兵舎、倉庫は兵器庫と考えてよい。いざという時、武器を取り出して丘の上に駆け上がる。まさに全体として<お城>のような雰囲気をもっていたと考えて間違いない」と断言した。
テレビ画面に発掘された遺構を基に再現された入鹿の邸宅が映された。中央に母屋。その奥に兵舎と武器庫が並ぶ。周囲は城柵で囲まれ、全体で山城のような構造になっていた。

さらに驚くべき事実。甘樫丘の上には「上の宮門(みかど)」と呼ばれる蝦夷の邸宅があった。丘の上下にあった蝦夷と入鹿の邸宅は軍事上、重要な位置にあったと考えられる。
「日本書紀」には「天皇の存在を脅かす」とあった。しかし、飛鳥<発掘>の成果は「日本書紀」の記述とは正反対。<脅威>どころか天皇を<守ろう>とした姿が浮かんでくる。では入鹿は何から飛鳥を守ろうとしたのだろうか。

「<脅威>は海を越えた大陸にあった」と「NHKスペシャル」は指摘する。中国大陸には強大な軍事力を誇る<唐>王朝が誕生、周辺諸国に侵略の手を広げようとしていた。
当時、朝鮮半島には<高句麗><新羅><百済>の3国、海を越えた日本列島には<倭国>が存在した。朝鮮半島から渡来したとも伝えられる<蘇我>一族。大陸情勢に通じていた。天皇の宮殿(板蓋宮)を護衛しようと武器庫、兵舎、飛鳥寺を建ち並べた蘇我氏。なぜ滅亡したのか。なぜ中大兄皇子、中臣鎌足は蘇我入鹿を<暗殺>したのか。<続く>
(平成19年2月14日)

「古代史」大好きな火山。「大化改新」(645年)と「壬申の乱」(672年)は興味津々だ。
今回の「NHKスペシャル」<大化改新>「隠された真相」、火山は見逃せるはずがない。娘に頼んでビデオ録画しながらでテレビに見入った。内容は驚天動地。古代史の<常識>を覆す<大発見>というものだった。

「大化改新」は645年6月12日、奈良・飛鳥の板蓋宮(皇居)で政界第一の実力者<蘇我入鹿>の暗殺から始まった。刺客はなんと皇極女帝の長男・中大兄皇子ら数名。黒幕は中臣(後の藤原)鎌足というから驚く。しかも惨劇は女帝の眼の前で突然起った。
女帝は驚愕のあまり「これは何の真似ですか」と絶叫。頭と肩を切られ、重傷の入鹿も死に臨みながら「臣、罪を知らず」と無実を女帝に訴えた。これが「日本書紀」の記述だ。

入鹿は父の蝦夷とともに天皇の宮殿<板蓋宮>を見下ろす甘樫丘(あまかしのおか)に豪邸を構え、権勢を振った。挙句の果てには天皇家を滅ぼそうとした<大逆臣>。そこで<大忠臣>鎌足が中大兄皇子と語らってクーデターを起こし、入鹿<暗殺>を契機に<大化改新>という大改革を進めた。
改革の狙いは東アジアに覇を唱えていた大帝国<唐>の脅威に対抗すべく、豪族連合の首長に過ぎなかった天皇の政治を改め、<中央集権>の律令国家を作ること。中大兄と鎌足は協力して日本初の強力な統一国家を建設した。歴史書の多くはそう書いてきた。

だが今回の「NHKスペシャル」<大化改新>「隠された真相」によれば放送1日前に発表された「飛鳥発掘調査報告」によって<仰天>すべき<新事実>が判明したというのだ。
発掘を行ったのは奈良文化財研究所のチーム。「日本書紀」に「入鹿の館が<谷(はざま)の宮門(みかど)>と呼ばれていた」と記録されているのを手がかりに甘樫丘の東の麓に狙いを定めた。発掘が進むと入鹿の館らしい遺構が発見され、多数の<柱>跡が現われた。

蘇我の蝦夷、入鹿父子は大豪邸に住んでいた。大化改新の<功臣>中臣(後の藤原)鎌足を祭った談山神社(奈良県桜井市)の「多武峰縁起絵巻」にその豪邸ぶりが描かれている。
「蝦夷、入鹿の二人は悪行を積み重ねること年毎に深く、君臣の情を破り、国家を我が物にしてきた。甘樫丘の館を宮門(みかど)とさえ僭称した。豪邸は天皇を脅かす権勢の象徴とし、専横の限りを尽くした」と絵巻はいう。

テレビ画面に甘樫丘東麓遺跡が映った。この一帯を発掘した結果が今年2月1日、つまり放送の前日に発表されたという。それによれば言い伝えどおり、入鹿の邸宅跡と思われる遺構が発見された。だがそれは大邸宅ではなかった。次々と発見された<柱>跡は小さな掘立小屋のもの。しかも住居ならあるはずのない柱が小屋の内側から発見された。それは倉庫特有の建て方。研究者によれば小屋群は外敵から飛鳥を守るための<武器庫>だった可能性が高いという。

「甘樫丘は見晴らしのよい小高い丘。いざという時には武器を取り出して上の方へ駆け上がったのではないか。付近一帯はお城のような雰囲気を持っていた可能性が高い」―――。
京都橘大の<猪熊兼勝>教授(考古学)の話だ。
「これまで続けられてきた発掘調査によって、蘇我氏の邸宅や寺の持つ特殊な性格が明らかになってきた」とNHKスペシャルのナレーション。「それらは天皇の宮殿を取り囲むように配置されている。天皇を守る<要塞>のような役割を担っていたのではないか」。

「<逆臣>とされる入鹿は実は先頭に立って天皇の政治を守ろうとしたのではないか。入鹿を倒した直後から大政治改革<大化改新>が始まったとされる『日本書紀』の記述そのものの<信憑性>も疑われ始めている」―――。ナレーションは重大なことを語る。何ごとか。古代中国語が専門の京都産業大<森博達>教授が登場した。

「漢文で書かれた『日本書紀』を古代中国語の音と語法に照らして分析しました。大化改新が記された巻24と25は古代中国語の正しい発音に基づいた漢字が使われている。当時、大陸から渡来した中国人が執筆したと考えられます。ところが巻24で中大兄皇子が天皇に入鹿暗殺の大義を述べた箇所には中国人が犯しそうにない誤りが見られました」と森教授。

「豈(あに)天孫をもちて鞍作(入鹿)に代えむや」(天皇の子孫をなぜ入鹿に代えるか)という部分。古代中国語の語法によると位置が逆。つまり意味が反対となり、正しい語法になっていない。中国人が書いたら、こんな初歩的ミスは絶対犯さない。
また巻25。入鹿暗殺の直後から<改革>が次々と行われたと記述されている部分についても森教授は中国人が犯しそうにない語法の誤りを<24>ヶ所も発見したという。

「これは一体どういうことか。中国人の執筆者が亡くなった後、『日本書紀』編集の最終段階になって<潤色加筆>が行われた。つまり大化改新の記事は最終段階で大幅に手を加えられた。これが事実です。となると『日本書紀』に書かれたことが実際にあったとは言えなくなる」―――。森博達教授(京都産業大)ははっきり断言した。

詳細は次回に譲る。だが結論だけ急ぐと「<中央集権>国家を目指す大化改新は645年(入鹿暗殺)に始まったのではない。実は倭国(日本)遠征軍が18年後の663年<白村江の戦い>で唐・新羅の連合軍に完敗した後から始まった。中大兄と鎌足の入鹿暗殺は<改革>が目的ではない。入鹿は<大逆臣>などではなかった」ということなのだ。―<続く>―
(平成19年2月12日)

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