火山の独り言

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ピアノの歴史

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「1830年にパリで起きた7月革命は音楽史的にも非常に重要な意味を持っていた。<革命>とはいっても7月革命は決してギロチンなどといった血なまぐさいものではなく、上流ブルジョワによる無血革命。つまり金持ちの商人や法律家や銀行家――いずれもサロン文化の担い手だった成金たちである――が、反動的なシャルル10世を追放して、自分たちの言いなりになるルイ=フィリップを国王に据え、金持ちによる傀儡政権を樹立した革命だった」(伊東信宏編「ピアノはいつからピアノになったのか」大阪大学出版会・184頁)。

1830年から次の革命の起こる1848年までの時代が<7月王政>の時代。実質的な支配者は国王ルイ=フィリップではなく、「尊大で悪趣味でブランド好きの成金たちであり、一種のバブル時代が始まったのである。音楽史的には7月王政はグランド・オペラの隆盛とヴィルトゥオーソの黄金時代の到来を意味していたのである」(185頁)―――。困ったことに、これが火山の趣味。まさに火山が好きなショパンの世界なのだ。

1831年3月9日、ヴィルトゥオーソ・ピアノ音楽にとって<衝撃>の出来事が起こる。「悪魔に魂を売って魔術のような技巧を手に入れた」と噂された稀代のヴァイオリニスト<パガニーニ>のリサイタルがパリで開かれ、それを<リスト>が聴いたのだ。
この時、パガニーニ48歳、リスト19歳。若いリストは<人間離れ>したパガニーニの超絶技巧に驚嘆。パガニーニが見せた<ヴァイオリン>のテクニックを<ピアノ>に移植しようと試みた。翌年、リストが書いたのが<ラ・カンパネッラによる幻想曲>だ。

「リスト以外の誰が鍵盤楽器からあのような効果を引き出すことを考えだろうか。<ラ・カンパネッラ>の技巧がなかったら、それ以後のピアノ音楽のレパートリーは存在しただろうか。ピアノ演奏技巧の歴史にまったく新しいページを開いた作品であった」(185頁)。リストのピアノ(作品と演奏)がヴィルトゥオーソであったことは紛れもない。

だが1831年9月、もう一人のヴィルトゥオーソがパリにやってくる。ショパン21歳だ。
「ショパンとリストという二人の天才――彼らがいなければ<ヴィルトゥオーソの時代>は永遠に到来しなかったことだろう――が開花するのが1830年代のパリである」(184頁)。だが重要なのは<ヴィルトゥオーソ>が、いつの時代にもあったのではないということ。

「それは歴史的な現象、極めて19世紀的な現象であって、舞踏会とワルツと馬車が象徴する古き良きベル・エポックの時代の申し子」(175頁)だったのだ。しかも「そこに集う紳士淑女は決して<本物の>貴族ではなかった。フランス革命のどさくさに紛れて一代で財産を築き、金で貴族の称号を買ったような成金たちこそ、サロンの主役」(176頁)だった。

「金と権力」「豪奢」「金メッキ」「シャンデリア」「ろうそくのきらめきと火花」「恋と冒険」―――。この<成金的性格>こそ「サロン/ヴィルトゥオーソ音楽」の本質だった。「ショパンの感傷と気取りと慇懃。リストの軽薄と誇張と華麗」(178頁)―――。
何から何まで貴族の真似をしたがる成金たち。そして彼らの妻や愛人や娘たち。彼らは皆、何かしら自分を<ハイソ>な気分にしてくれる音楽を求めた。

7月王政時代のパリ社交界最大の事件が1836年のマイヤーベーア(1791〜1864)のオペラ<ユグノー教徒>初演だった。マイヤーベーアは忘れかけられてはいるが、19世紀で最も人気のあったオペラ作曲家。甘ったるいメロディと豪華絢爛たる彼のグランド・オペラは今で言えば豪華なハリウッド映画。ブルジョワたちはこぞってそれに群がった。

1831年、パリにやってきたショパンも11月21日に初演されたマイヤーベーア<悪魔ロベール>の初演を見て、その感激を家族に手紙で知らせている。
こうした時代の雰囲気に最も<敏感>に反応したのが、意外にもベートーヴェンの弟子カール・チェルニー(1791〜1857)。ピアノ<教則本>で有名な、あのチェルニーだ!彼は「細かい音階や分散和音を至る所にちりばめ華やかな跳躍パッセージやスタッカートを縦横無尽に駆使する<真珠のパッセージ>を10代の弟子リストに徹底的に叩き込む。

「われわれが相手にしている聴衆は玉石混合であって、その大半は感銘を与えるよりもアッといわせる方が容易な連中だ」(183頁)。
チェルニーの薫陶を受けたリストは1923年、12歳の若さでヨーロッパの中心だったパリへ旅立つ。そのリストが<パガニーニ>のヴァイオリンを聴いて驚愕。<人間離れ>した超絶技巧に<悪魔の魂>を見た。それをピアノに移し替えたのが<ラ・カンパネラ>だ。

リストはやがてマリー・ダグー伯爵夫人と恋に落ち、スイスへ駆け落ちする。リストから<当代随一のピアニスト>の座を奪ったのが、ジギスムント・タールベルク(1812〜1871)。「ダイヤモンドのカフスボタンをつけて弾くので有名な伊達者ピアニストの売り物は<タールベルクのハープ>という技巧。両手を駆使、低音から高音までハープのようなアルペジオを縦横無尽に奏でる。右手と左手でもって交互に中音域のメロディを弾く<曲芸>のようなワザ」(188頁)。まるで3本の手で弾いているように聴こえ、大評判になった。

タールベルクの評判を聞きつけたリストは<ナンバー・ワン>ピアニストの座を奪われてなるものかと、すぐパリへ引き返す。かくて1737年3月31日、イタリア貴族クリスティーナ・ベルジョイオーソ侯爵夫人のサロンで行われたのが音楽史上に名高い二人の<決闘>だった。二人の間に飛び散った強烈な<ライバル意識>の<火花>はまた次回!!
(平成19年9月6日)

1789年7月14日、バスティーユ襲撃を機に「自由・平等・博愛」を理念とする<フランス革命>が起こった時、19歳のベートーヴェンはボン大学の学生だった。啓蒙思想家のオイロギウス・シュナイダー教授の熱のこもった革命思想の講義を聴いていたベートーヴェンはひどく感激した。ベートーヴェンが大卒のインテリだったことを知らなかった火山、正直びっくりした。しかも、この感激が「ピアノの歴史」を変えたかも知れないというのだ。

ベートーヴェンは酒びたりで労働意欲を失った父ヨーハンに代わり、16歳頃からボンの宮廷オルガニストを勤め、一家の柱となるべく頑張っていた。貴族の子弟にピアノも教えていたが、ブロイニング家にも出入り、娘エレノーレに教えるうちに、彼女に恋をする。
ベートーヴェンはブロイニング家で多くの名士と知り合うが、中にウィーン名門のヴァルトシュタイン伯爵がいた。

伯爵は自らもピアノを弾き、作曲する音楽愛好家。ベートーヴェンの才能を愛し、当時、ボンに数台しかなかったアウグスブルグのJ.A.シュタイン製のピアノを贈った。ベートーヴェン18歳の時だ。「以後ボン時代のベートーヴェンの作品はすべてこのピアノから生まれている」(平野昭「ベートーヴェン」音楽之友社・27頁)。

「アウグスブルグのJ.A.シュタイン製のピアノ」と平野昭はあっさり書く。火山も何気なく読み飛ばした。だが<アウグスブルグ>はモーツアルトの父レオポルトが生まれ育ったところ。そして<J.A.シュタイン>とは当時<一世風靡>したウィーン式アクションを創案したピアノ製作者ヨハン・アンドレアス・シュタイン(1728〜1792)のこと。

当時のアクションにはウィーンで支配的な<跳ね返り式>と、ロンドンやパリで盛んな<突き上げ式>があった。跳ね返り式はタッチが軽く、速いパッセージに素早く対応できた。一方、突き上げ式はダイナミックレンジが広く、特に低音が豊かで力強い響きを出せた。

ベートーヴェンに当時最高のピアノを贈ったヴァルトシュタイン伯。16年後の1804年に
「ピアノ・ソナタ」ハ長調<第21番・ヴァルトシュタイン>(作品53)の献呈を受ける。
面白いのはこの作品、ベートーヴェンが1803年にパリのエラール社のピアノを贈られ、それを使って作曲した新作。シュタインのアクションはウィーン式<跳ね返り>式だったが、エラールはパリ、ロンドンで普及していた<突き上げ>式。ハンマーの強打とダンパー・ペダルの弦の開放、ダイナミックな演奏が<新作ソナタ>の第三楽章に現われる。

つまり「ヴァルトシュタイン」はシュタインの<跳ね返り>式ピアノからエラールの<突き上げ>式に乗り換えたベートーヴェンの最初の作品かもしれないのだ。
もっと面白いのは、シュタインはモーツアルトが生涯、愛してやまなったピアノ。「作曲家とピアノ製作者の関係としては、バッハとジルバーマン、モーツアルトとシュタイン、ショパンとプレイエル等が知られている」(伊東信宏「ピアノはいつからピアノになったか」大阪大学・105頁)とある。モーツアルトが父レオポルトに書いた手紙も残っている。

「シュタインを見ていないうち、僕はシュペート(レーゲンスブルクの楽器製造者)が一番好きでした。でも今はシュタインの方がまさっていると言わざるをえません。レーゲンスブルク製よりも、共鳴の抑えが利くからです。強く叩くと、指をおこうと離そうと鳴らした瞬間に音は消えてしまいます。あの人のハンマーは鍵盤を叩くと、そのまま抑えていようと離そうと弦の上に弾ねかえり、瞬間に下がります。あの人は一台作り上げると、いろいろなパッサージュや走句や跳躍を験して、削ったり、さんざんやってピアノが何でもできるようになるまで止めないのです」(伊東・54頁)―――。

「あの人は自分の利益のためではなく、音楽のために働く」―――。モーツアルトは絶賛する。モーツアルトの時代にも、こうした発想があったのかと思うと何か、親しみが湧き、モーツアルトの肉声が聞こえるかのような錯覚を覚える。

シュタインを18歳から使ってきたベートーヴェン。「彼の演奏は軽いタッチによるニュアンスの豊かな演奏を基本としており、ウィーンのピアノの特性を生かした弱音重視の作曲手法を1802年(32歳)頃まで堅持していた。しかし、ベートーヴェンはウィーンのピアノに完全に満足していたわけではなく、むしろ、豊かなフォルテが出せないというウィーンのピアノの最大の欠点に、慢性的な欲求不満を抱いていたに違いない」(伊東・106頁)。

そのベートーヴェンが1803年、パリのエラールのピアノを寄贈された。ベートーヴェンはその音量の大きさに、最初、大喜びした。しかし、すぐエラールにはウィーンのピアノが持つ弱音域の微妙なニュアンスの表現力が欠けていることに気づく。音量不足は我慢できても繊細さの不足は致命的。悩んだあげく、ベートーヴェンはピアノソナタの作曲を中断したという。そしてウィーンに移住していたナネッテ・シュトライヒャー(1769〜1833)に改良を依頼する。運命は面白い。このナネッテはあの偉大なシュタインの愛娘なのだ。

アウグスブルクのシュタインの工房で知り合った二人。作曲家と楽器製作者の関係でピアノの歴史を変えていく。ナネッテとの協力はベートーヴェン16歳の時から56歳で世を去るまで40年間も続く。彼女の夫ヨハン・アンドレアス・シュトライヒャーは詩人でピアニスト、ピアノ教師でもあった。しかもこのヨハン。<第九交響曲>の<歓喜の歌>を作詞したシラーとも親密。ベートーヴェンとシラーを結ぶ唯一の友人だったという。
(平成19年8月24日)

「ピアノの歴史」は<みなとみらいホール>主催のレクチャー・コンサートのタイトルだ。モーツアルト<生誕250年>の昨年、BSで「毎日モーツアルト」を見て感激。このブログに「毎日モーツアルト」195編を書き残した火山だが、6月から「ピアノの歴史」を学び始めて、さらにモーツアルトとベートーヴェンのピアノ曲が好きになった。

モーツアルトの時代、<クラヴィーア>といえばチェンバロのこと。だがベートーヴェンの時代になると<ハンマークラヴィーア>が登場する。チェンバロは弦を引っ掻いて音を出すが、ハンマークラヴィーアはハンマーで弦を叩いて音を出す。<フォルテピアノ>と呼ばれるピアノの前身。これが産業革命の技術革新を経て現代の<ピアノ>になる。

モーツアルトもベートーヴェンもウィーンで<ピアニスト>として楽壇にデビュー。あっという間に即興演奏で名だたるピアニストたちを打ち負かし、当代随一の名声を獲得する。
モーツアルトはクラヴィーアが大好きだった。モーツアルトの「ピアノ協奏曲」は全部、自分が独奏者、聴衆の拍手喝采を狙って作曲されている。名ピアニストとして自分の腕を存分に発揮できるよう組み立てられている。その工夫が随所に見える。

だがモーツアルトの演奏を聴いたベートーヴェンは、後に弟子だったツェルニーに「モーツアルトの演奏は見事であったが、ポツポツと音を刻むようでレガートではなかった」(平野昭「ベートーヴェン」新潮文庫・23頁)と批判的に述べていたという。
ツェルニーはあの「ピアノ教則本」で有名。リストにピアノを教え、彼自身も当代隋一の<名ピアニスト>として名声を博した。そういう意味で聞き捨てならない。

だが「ピアノの歴史」を考えると、まず楽器が違う。また楽風も違う。モーツアルト(1756〜1791)はチェンバロが基本。ベートーヴェン(1770〜1827)はピアノフォルテが基本。チェンバロは構造上、キータッチで音の強弱を表現できない。
一方、ピアノフォルテは文字通りフォルテ(強音)とピアノ<弱音)を表現できる。ただベートーヴェンの時代、まだ発展途上、様々な楽器職人が改良に取り組んでいた。

ベートーヴェンは自分の使うピアノを生涯に何度か取り替えた。ボン時代のアウグスブルクのシュタイン社(1773年製)に始まり、パリのエラール(1803製)、ウィーンのシュトライヒャー(1819製)、グラーフ(1825製)まで15種類。
当時のメカニズムはウィーンで支配的な<跳ね返り式>とロンドンやパリで盛んな<突き上げ式>があった。跳ね返り式はタッチが軽く、速いパッセージに素早く対応できた。一方、突き上げ式はダイナミックレンジが広く、特に低音が豊かで力強い響きを出せた。

ベートーヴェンは14歳年長のモーツアルトをどう見ていたか。近衛秀麿(指揮者)には「ベートーヴェンの人間像」(音楽之友社・昭和45年刊)という素晴らしい著書がある。
「戦前から探求に憂き身をやつし、暇さえあればウィーンに足を運んで、ウィーン生まれの音楽家ヒューブナー兄弟たちを案内に立てて、主としてベートーヴェンやシューベルトの旧跡を行脚したものである」(1頁)。以下は近衛文麿の調査結果だ。

「1787年、彼は初めてウィーンに旅をしている。モーツアルトの前で即興演奏したのも
この時である。初め、頭から問題にしていなかったモーツアルトは、演奏を聴き終わるとすっかり驚いて『この若者にみな注目しなさい(Auf den geb Acht)、いまに世界中の話題をさらうような者になるに違いない』という有名な言葉を発した。
それから5年後、彼は意を決してウィーンに移り住んだ。その時モーツアルトはもうこの世にいなかった。ここでベートーヴェン本来の生涯が始まる」(8頁)。

「モーツアルトこそは彼のあとを受けて音楽の世界を背負って立つ若者ベートーヴェンにとって最大の教師であった。事実ベートーヴェン自身、彼の修行の初めからモーツアルト音楽の熱烈な崇拝者であった。ボンで、親たちの膝元で育った頃、既に一家はモーツアルトのことばかり語り合っていたという。彼の中のモーツアルトに対する理解と尊敬は年とともに深まってゆき、その賞賛の度合は、ついに留まるところを知らなかった」(168頁)。

日本最初のオーケストラの指揮者といわれた近衛秀麿。モーツアルトとベートーヴェンの違いをどう見ていたのだろうか。「ベートーヴェンの人間像」(音楽之友社)にある。
「モーツアルトもベートーヴェンも、それぞれの時代の最も勝れたピアニストと呼んでも誰しも異論をさしはさむ者はなかった。しかし、両者の演奏ほど対照的なものはなかった。モーツアルトのピアノの優雅さは全く古今に比類がなかった。一方のベートーヴェンは、往々にして何者をも焼き尽くさずにはおかない烈火のような峻厳さがあった」(175頁)。

モーツアルトは幼時から郷里ザルツブルグの大司教コロレドと25歳で喧嘩別れした後、ウィーン市井の自由人となったが、楽風や演奏スタイルは宮廷風。生涯、変わらなかった。
一方、ベートーヴェンはモーツアルトの死と前後するフランス革命の甚大な影響を受け、
「人類のかち得た自由、解放の歓喜を大衆の前で弾きまくった。力強い演奏に耐ええるためにピアノの構造上の改良が促され、ベートーヴェンの出現によってピアノの先祖であるハンマークラヴィーアの開発に、ピアノ製造業者たちを刺激する結果となった」(176頁)。

「ベートーヴェンとナネッテ・シュトライヒャー(1769〜1833)の関係はピアノの歴史に
おける作曲家と楽器作者の協力関係で最も独特で濃密なものであった」(伊東・105頁)。
(平成19年8月23日)

「音楽は時代とともに変わる。音楽家の経済生活を、誰が、どの階層が支えるかで大いに変わる。たとえば教会に支えられたバッハは宗教音楽的であり、宮廷に支えられたモーツアルトの音楽が一面は宮廷的、ベートーヴェンが一面は貴族的である」(倉田・158頁)。

1792年11月、ウィーンへ音楽留学にきた22歳のベートーヴェン。リヒノフスキー侯爵の家に下宿、名門ヴァルトシュタイン伯爵の援助を得て、上流社会の人々と交流を深める。ベートーヴェンが瞬く間に貴族たちの寵児となった理由はピアニストとしての実力だった。
ベートーヴェンには二つの強力な武器があった。

「一つはボン時代にオルガン奏者として身に付けた即興演奏術。もう一つはネーフェ(ボン時代の恩師)から学んで完成させていたクラヴィコード奏法に由来するレガート奏法とカンタービレ奏法だった。この頃のウィーンではモーツアルトの演奏に代表される音の均質さ、響きの清澄さ、軽快な速度といった伝統的なチェンバロ奏法から来る真珠をころがすようなスタッカート気味のエレガント奏法が流行していた。ベートーヴェンの生み出す響きは新鮮だった」(平野昭「ベートーヴェン」新潮文庫・38頁)。

この記事は実に興味深い。「ピアノの歴史」から見ると、キータッチで<強弱>を表現できないチェンバロに適合したモーツアルトの奏法、そのチェンバロに飽き足らず、新しい楽器(フォルテピアノ)と新しい音楽表現を模索、チェンバロの限界を超えようとするベートーヴェンの意欲を感じるのだ。だが―――。

「ベートーヴェンの活動していた時代のピアノ音楽の世界は、その後の時代のピアノのあり方とは非常に違った<古い>体質を残していた。ベートーヴェンもまた、そういう体質を身につけていたのであり、彼の音楽をわれわれの時代の側から見てしまうと多くのことが見落とされてしまう。他方でベートーヴェンは、そういう中で楽器の表現の可能性を徹底的に引き出そうとしたし、この時代に次々と生み出される新性能のピアノに貪欲に飛びついたりもしたのだ」(伊東信宏「ピアノはいつピアノになったのか」大阪大・79頁)。

「1803年、パリのエラールからピアノを寄贈された時、ベートーヴェンを喜ばせたのが音量の大きさであったことは想像に難くない。しかし、エラールのピアノには、ウィーンのピアノの持っている微妙なニュアンスの表現力が欠けていることに気づく」(伊東・108頁)。

モーツアルト(1756〜1791)とベートーヴェン(1770〜1827)は会ったことがあるのか。音楽史上最高のロマンだ。ベートーヴェンの父親はヨーロッパ中に<神童>の名を轟かせたモーツアルトの存在を十分知っていた。それどころかベートーヴェンを<第二のモーツアルト>に仕立てようと息子の年齢を幼く見せようとウソまでついている。1778年3月26日、ケルンで行われた公開演奏会。父ヨーハンは息子を<6歳>と売り出したが、もちろん実際は7歳3ヶ月だった。

1787年3月下旬、16歳のベートーヴェンはウィーンへ初めての旅に出る。「彼に注目したまえ。今に世の話題になるだろうから」。モーツアルトが語ったとされる有名なエピソードが生まれたのが、このウィーン旅行だった。ベートーヴェンはモーツアルトの豪邸を訪ね、モーツアルトから与えられた主題で即興演奏をした。「残念ながら、この言葉の真偽は明らかではない」(平野昭「ベートーヴェン」新潮文庫・23頁)。

「確実なのはベートーヴェンが後年に弟子のチェルニーに語っているように、モーツアルトの演奏を聴いていたということである。『モーツアルトの演奏は見事であったが、ポツポツと音を刻むようで、レガートではなかった』と批判的に述べている」(平野・23頁)。
これは<楽風>の違い。<楽器>の違いもある。モーツアルトは強弱がないチェンバロの世界。ベートーヴェンは既に<ピアノフォルテ>の時代に生きていた。面白いのはモーツアルトもベートーヴェンも共にピアニストとして楽壇にデビュー。大成功を収めたこと。

「即興演奏は与えられた主題を音形変奏してゆくか、次々と新しく美しい旋律を継いでゆくのが当時の流儀であった。ところがベートーヴェンの即興は時によってはソナタ楽章やロンド楽章仕立てで、主題動機の展開をもった構築性が追求され、またある時には幻想曲風で、構成感を併せ持ち、華麗な技巧的パッセージを織り込んだものであった。変奏は圧倒的な力と情熱と感情表現をもって行われる」(平野・38頁)。

モーツアルトも即興演奏の名手だった。愛妻コンスタンツェはモーツアルトのロンドが大好きだった。モーツアルトがベートーヴェンと出会っていたら、主題を与え、即興演奏を求める。大いにありえる。モーツアルトに憧れて育ったベートーヴェン。生涯、尊敬の念を捨てなかった。そのベートーヴェンが初めてのウィーン訪問。モーツアルトを訪ね、会わないはずがない。火山は、そう考えている。「日本最初の指揮者」といわれる近衛秀麿も同じ意見だ(「ベートーヴェンの人間像」音楽之友社・163頁)。

「貴族の邸でしばしば開かれる即興演奏で、彼(ベートーヴェン)はウィーンの名ピアニストをことごとく打ち破ってゆく。こうして彼は音楽を愛好する有力な貴族のロプコヴィッツ侯、シュヴァルツェンベルク侯、ヴァン・スヴィーテン男爵に可愛がられるようになり、上流社会での交流の環は急速に広がった」(平野・38頁)。
(平成19年8月23日)。

「クラヴィーアと言えば現在ではピアノのことだが、バロック時代までは鍵盤楽器の総称。音楽家は<音楽の場>やその時の目的によって、オルガン、チェンバロ、クラヴィコードを使い分けていた。バッハは教会ではオルガンで壮大なコラール変奏曲を弾き、サロンではチェンバロで華麗な組曲を弾き、家庭では弟子を教育するためにクラヴィコードで『インヴェンション』などを弾いていた。バッハの作品は<クラヴィーア練習曲集>として出版されているが、実際は様々な鍵盤楽器で演奏されていた」(伊東信宏「ピアノはいつピアノになったか」大阪大学出版会・7頁)。

ピアノはこれら3つの鍵盤楽器に続けて新しく開発された<第4の鍵盤楽器>だった。指先でピアノ(弱音)とフォルテ(強音)を自在に表現でき、ハンマーで弦を叩く鍵盤楽器というアイディアはかなり以前からあったが、現実化していくのは、イタリアのメディチ家に仕える楽器職人クリストーフォリ(1655〜1731)以降だ。

「ピアノの誕生を考える上で大切なこと、それはピアノはサロンから生まれたのであって、コンサートホールからではない、ということである。当時はコンサートホール、いやそもそも今日、われわれが<音楽の場>として考えるような<コンサート>(音楽会)、つまり『入場料を払って音楽だけを聴きに行く』という音楽の社会的ありかたそのものがなかった。教会、劇場、サロンだった」(伊東・16頁)。

だが、それらは音楽だけを聴きに行くところではない。教会はミサなど宗教儀式に参加するため、劇場はオペラやバレエを見るため、サロンは社交や宴会などを楽しむためだった。鍵盤楽器との関係ではいえば教会とオルガン、サロンとチェンバロという組合せが大事だった。<第4の鍵盤楽器>として、指先でピアノ(弱音)とフォルテ(強音)を自在に表現できるフォルテピアノは「最新式の、ちょっと風変わりなチェンバロ」として貴族の客間、サロンに登場したのだった。

19世紀後半以降もピアノの発展は<コンサート>の広がりと深く関っている。「ヨーロッパでは古くはオルガンが<楽器の女王>と呼ばれた。オルガンという楽器は石造りの巨大な空間を満たす豊かな音量とその多彩な音色から、まさにそう呼ばれるにふさわしい。しかし19世紀後半以降、<音楽の場>は教会や宮廷のサロンではなく、市民のホールに移り、多数の聴衆を前にしてオーケストラと協奏曲(コンチェルト、即ち英語ならコンサートの意味)を弾くことの楽器が求められるようになる」(伊東・16頁)。

ベートーヴェンは音量が大きく、しかも弱音域で微妙な音の陰影を表現できるピアノを渇望していた。だがそれは彼の死後、ようやくやってきた産業革命がもたらした技術進歩と資本主義経済の発展がもたらしたブルジョワジーの台頭なくしては実現しなかった。
このプロセスを経て、「ついに<現在のピアノ>が生まれ、ピアノは圧倒的な人気を博し<コンサートの女王>の地位を不動のものにしていく」(伊東・17頁)。

「音楽は時代とともに変わるものである。それは音楽家が時代の気分を取り入れたり、先輩音楽家に影響されながら、自分で新しいものを作ることによって変わる。しかし、音楽家の経済生活を、誰が、どの階層が支えるかによっても、大いに変わるであろう」(倉田稔「ハプスブルグ歴史物語」NHKブックス・158頁)。

ヨーロッパのクラシック音楽創始者はヨハン・セバスティアン・バッハ(1685〜1750)。
彼は神のために、教会のために作曲した。教会に付属、キリスト教のために音楽を作った。
教会は富裕で芸術を、つまり画家と音楽家の生活を支えた。だがバッハはドイツのキリスト教を受け入れねばならなかった。

音楽家の生活を支えた者は他にもいた。皇帝・国王だ。ハプスブルグ帝国の宮廷では、音楽好きのマリア・テレジア(1717〜1780)が音楽家を支えた。グルック(1714〜1787)は「オルフェオとエウリディーチェ」でオペラを形式的芸術から人間的感情表現へと深化させる革命を行ったとされるが、マリア・テレジアの宮廷音楽家だった。
テレジアの息子ヨーゼフ2世(1741〜1790)は教養豊かな啓蒙君主として名高いが、グルックが死ぬとモーツアルト(1756〜1791)を宮廷音楽家に登用した。

モーツアルトは宮廷に愛される音楽を作らなければならなかったが、才能豊かな彼は「フィガロの結婚」や「ドン・ジョバンニ」「魔笛」など大衆に愛される音楽も作った。ヨーゼフが死ぬと宮廷は音楽を支えなくなった。新しい皇帝は音楽に理解がなかったからだ。
ベートーヴェン(1770〜1827)は宮廷ではなくハプスブルグ帝国の貴族たちに保護された。彼の先輩ハイドン(1732〜1809)も貴族エステルハージに保護された。宮廷にも貴族にも保護されなかったのはシューベルト(1797〜1828)。彼は貧困のうちに若くして死んだ。

1848年フランス2月革命(「共産党宣言」発表)とベルリン・ウィーン3月革命(メッテルニヒ失脚)の後、「貴族の勢力は衰え始め、音楽への興味が減少すると、貴族は音楽家を保護しなくなった。その代わり、主に音楽を保護したのはブルジョワジーであった。ブラームス(1833〜1897)やシェーンベルク(1874〜1951)はブルジョワジーに支えられた。彼らはコンサートの入場券や楽譜を買うことによって音楽家を支えたのである」(倉田・157頁)。コンサートホールで音楽を聴く。これがピアノを大きく変えていく。
(平成19年8月20日)

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