火山の独り言

時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり

山本五十六アラカルト

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

その人の話は、幼い頃から繰り返し聞かされてきた」と始まる。この<その人>が山本五十六。聞かせたのは著者の母。「何しろ海軍さんですもの。そりゃあスマートだったわよ。とにかくねぇ、あの人がいる限り、きっと日本をなんとかしてもらえるって、そんなふうに思っていたの。東条じゃダメよ。陸軍がダメだって、なんとなく日本人は知っていたわよ…」――。

この書き出しに火山は震えた。工藤美代子「海燃ゆ」(新潮社)だ。凄い。
同じような話を母から火山も聞かされた。戦前、川崎の六郷に住んでいた時だ。五十六戦死のニュースは母にもショックだったらしい。

さて「海燃ゆ」。「戦艦大和の悲劇」に引用した。裏表紙の扉を見て少し感激した。日経の書評が切り張りしてあった。昨年8月29日の記事。「様々な横顔と家庭への信頼」と見出しがある。買ったのは9月1日――。関東大震災で亡くなった母方の祖父の命日だ。

評伝はノンフィクション。だから「史実」にどれだけ肉薄するか。伝えられる様々な風聞や記録から、どのような<実像>を描きあげるか。これが大切。いくら面白くても<虚像>では困る。巻末をみると参考文献が3頁にわたってびっしり、あった。

著者の工藤美代子は1950年(昭和25年)生まれ。朝日新聞社から出版した「工藤写真館の昭和」で講談社ノンフィション賞を受賞。「ラフカディオ・ハーンの生涯」「悲劇の外交官ハーバード・ノーマン」の著書がある。ノーマンの本は火山、学生時代に読んだ。明治維新史。つまり、相当信頼できる書き手と見た。

今回、必要があって読み直し、著者の取材と解釈の正確さに驚いている。実は火山、海軍軍人の評伝は五十六はじめいろいろ読んだ。だが惜しい。数年前ほとんど処分してしまった。今にすれば痛恨の極み。大切な資料だったのだ。

山本五十六が霞ヶ浦海軍航空隊に着任したのは「関東大震災」の翌年。大正13年の初冬。震災の時はロンドンにいた。在留邦人が色を失った時、五十六は一人悠然としていて「日本経済はかえって良くなるから今のうちに株を買っておきなさい」と実業家たちに勧めたという。凄い<卓見>だ。

五十六が霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭に着任した時から20年、五十六の身近に仕えた三和義勇が「山本元帥の思い出」という手記を残した。部下に慕われた五十六の人柄が伝わってくると工藤美代子。

その三和が上司から新進の山本大佐の当番(副長付甲板士官)に推薦され、憤然とした。五十六が航空隊出身ではなかったからだ。ヨソモノ、新米…そんな気分。<真っ平御免>と怒り狂って五十六のところへ「ノコノコ出かけた」。いざ何か言おうとしたが、気迫に打たれて言葉も出ない。

五十六が口火を切った。「隊の現状を見たところ軍紀風紀に遺憾な点が少なくない。具体的には毎日のように絶えない遅刻者、脱営者を皆無にしたい。『君ばかりにやらせるのではない。自分もやるから君も補佐するように』との言葉。三和は思わず『懸命に努力いたします』と答えてしまった」という。

「三和はなんとなく『こりゃ偉い人だぞ』という気がして、自分で満足して」しまった。
「そのつもりで見ていると、五十六の敬礼が極めて正しいことに気づいた。『士官に対しても兵隊に対しても山本大佐の答礼は少しも区別なく、シャンと指を伸ばして教範そのままのようにせられる』のである。確かに五十六の敬礼が美しかったのは有名で、やがてそれは戦時下の青年たちの憧れともなった。三和は『これは只人ではない』との思いを強くする」(112頁)。

「五十六が最も力を入れた教育の一つに『作文』があった。『どうも飛行機屋は喋らせれば相当のことをいうが、書かせればなっていない。あれじゃいかん。思うことが書けないようでは将来困りものだ』と冗談のように言って、ことあるたびに『そりゃよい。すぐ書いて出せ』とか『君の意見として進達するから書け』と言った」という。面白い。火山も賛成だ。

本日からの連載。工藤美代子さんの「海燃ゆ」(新潮社)をベースに独自の調査、見解を加えお届けします。今の時代に通じるヒントを満載の決意です。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

「勝算のない戦い」…五十六は<対米戦争>を阻止すべく終始、必死だった。だが歴史は彼に味方をしなかった。1921年(大正10年)のワシントン会議、1930年(昭和5年)のロンドン会議。軍縮協定に日本も調印した。国内から猛反発が起きた。五十六の悲劇の原点はここにある。

「軍の編成は天皇の大権に属する。軍縮条約は天皇の<統帥権><干犯>に当たる」という議論が出てきた。これで軍部を抑えようという動きはすべて封じ込められていく。軍縮条約への不満から海軍の若手将校が起こした五・一五事件。議会政治はとどめを刺される。
日本は立憲君主制の天皇制国家から現人神(あらひとがみ)が治める超国家主義的神政国家へ変身する。二・二六事件(1936年)。クーデタは未遂に終ったが、以後、日本は<陸軍>が国政をほしいままにする時代に突入する。

激動の中で山本五十六は何を考え、何をしていたか。工藤美代子「海燃ゆ」(講談社)を参考に考えてみたい。「海燃ゆ」は各種資料・伝記を比較研究した素晴らしい良書だ。
五十六は日・独・伊の<三国同盟>を急ぐ陸軍に昭和13年8月はっきりと反対した。ドイツと手を結べば<米英>と戦争になる。海軍には<対米戦>の勝算はないと述べたのだ。

昭和14年夏、五十六は米内海軍大臣から意外な話を聞かされる。「あの男は有名な占い師だよ。またやってきて君の顔に死相が現れている。気をつけないといけないといった。妙な話だが、どうも引っかかってね。まあ、しばらく安全な海上暮らしをするさ…」(282頁)。米内は海軍大臣を辞す。次官の山本は留任を望んだが、連合艦隊司令長官へ転出する。五十六を暗殺しようという動きがあった。

第一次世界大戦後の恐慌は政府の救済で一応収まったが、不況は続いた。日本資本主義はヨーロッパ諸国が復興してくると戦争中に拡大した市場を巻き返された。中国で排日運動が進んだことが日本商品の市場を狭くした。

第一次世界大戦後の米・英・日の建艦競争は厳しかった。アメリカは1916年から世界最大の海軍国イギリスに反発、海軍拡充計画を立てた。日本も艦齢8年未満の戦艦と巡洋戦艦8隻ずつを主力とする<八八艦隊>計画を立てた。イギリスも建艦競争に乗り出した。
1921年、戦後恐慌が拡大すると、建艦競争の負担に耐えかねた各国から<軍縮>の声が起こった。列強の利害調整、特に太平洋・極東地域の戦後処理が焦点だった。

第一が「山東」問題。日本はドイツから譲渡された租借地を返還、代わりに山東省で利権を入手しようとしていた。
第二はシベリア出兵問題。アメリカなど各国はロシア革命への干渉を諦め撤兵したが、日本だけは駐兵。アメリカは日本への反発を強めた。
第三は<日英>同盟。アメリカは<日米>戦争が起きてもイギリスが日本を援助しない約束を1911年に得ていたが、疑念を残していた。日本は日英同盟を解消すれば国際的に孤立する。更新を熱望していた。

1921年(大正11年)11月12日、ワシントン会議。アメリカ全権のヒューズ国務長官が第一回総会で劇的提案を行い、万雷の拍手を得る。「米国は建造中の巨艦15隻61万トンを率先廃棄する」と述べた。拍手で演説は幾度も中断。「英・米・日の海軍比率を<10:10:6>とする」と提議した。翌日のアメリカの新聞は絶賛、外国特派員も拍手した。

第二回総会でイギリス全権のバルフォーア枢相も「世界最大の海軍国の地位を犠牲にしても英米均勢を受諾する」と述べ、拍手を得た。日本全権の加藤友三郎海相も「主義では喜んで受諾、軍縮を行う。ただ<国防上7割>は必要」と主張した。英米両国は固く結束、最後まで譲らなかった。

加藤友三郎全権は識見の高い人。「国防は軍人だけの問題ではない。軍備より国力が重要」と考え、加藤寛治中将を抑え対英米<6割>で受諾。引換えに太平洋地域の現状維持を獲得した。ワシントン会議の結果、アメリカはイギリスと並ぶ世界第一の海軍国となった。日本との対立でも有利な解決を得た。日本は進路に枠をはめられ、日英同盟も終わった。

大正10年(1920年)7月、五十六はアメリカ留学から帰国した。石油と航空機に関する豊富な情報を得た。第一次世界大戦で日本は列強の仲間入りを果たしたが、前途には<暗雲>が見えていた。
五十六は井出謙治大将とともに欧州各地に視察を命じられる。訪れたのはイギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、モナコ、アメリカ合衆国の7カ国だった。

「山本五十六」は連載。工藤美代子さんの「海燃ゆ」(新潮社)をベースに毎日、独自の調査、見解を加えお届けします。今の時代に通じるヒントを満載する決意です。ぜひご愛読ください。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

「42年6月5日に戦われたミッドウエー海戦の敗北を巡り、淵田美津雄は忌憚のない山本五十六批判を行なっている」と「サピオ」(1月23日号)。中学同期の俳句仲間の風鈴さんが記事のコピーを送ってきた。火山が敬愛する山本五十六に別の面があったと添え書き。
淵田美津雄――。1941年12月8日、海軍中佐で総指揮官として真珠湾攻撃において最初の爆撃を行い、『トラトラトラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)』の暗号を打電した男。理由は二つ――。

「世界最強の機動部隊(真珠湾攻撃の主力となった6隻からなる空母の艦隊)を、中央当局と連合艦隊司令部とで、これを解いて弱体化した」。そして「ミッドウエー作戦における部隊編成は旧態のままの戦列、山本大将は旗艦大和に座乗、直率の戦艦部隊を依然として主力部隊と呼び、全兵力の後方三百マイルにあって全作戦を支援すると誇称した。アメリカはいち早く空母主力の機動部隊へと戦術を切り替えていた。山本大将の主力部隊は全作戦の支援どころか、あわれにも身をもって、すたこら逃げ帰るほかなかった」(自叙伝)。

だがここには本人が自分を美化しがちな「自叙伝」特有の事実誤認や我田引水がある。この連載、過去4回、それを暴露してきたが、ここでトドメを刺そう。ノンフィクション作家・工藤美代子「海燃ゆ」(講談社)の引用。
前回、工藤が近衛文麿の評伝を書くために英国で貴重な史料を発見したことを紹介した。彼女はいつも綿密な考証を行っているが、今回の引用、実は司馬遼太郎の孫引き。司馬も膨大な史料を駆使する作家だ。

「『2・26事件当時の横須賀鎮守府司令長官は米内光政(中将)で、参謀長は井上成美少将」だった。この二人に、当時航空本部長だった山本五十六(中将)を加えると、この当時の海軍におけるもっとも戦闘的な良識派がそろう』。彼らが望んだのは。陸軍の独走を止め、日独伊三国同盟の締結にはげしく抵抗することだった。五十六が軍人として高く評価される理由を普通は、真珠湾攻撃の立案者であり、それを成功させたためだと考える人は多い。しかし、それだけだったとは思えない。五十六の軍人としての真価が最も問われたのは、実は2年7ヶ月に及ぶ次官時代の闘いなのである」(「海燃ゆ」221頁)。

前半が司馬の「三浦半島記 街道をゆく42」。後半が工藤の意見。工藤の意見は続く。「しかもなんとも皮肉なことに、戦争のために存在し、『常在戦場』を座右の銘とする軍人の五十六が、平和のために最も精力を傾けたのがこの(次官の)時代だった」と続く。
<航空本部長>だった山本。「国防の主力は航空機である。海上の艦船はその補助である。日本海軍はこの信念で大革新をせよ」(205頁)。この掛け声で戦っていたのが航空本部長時代の山本。淵田の「自叙伝」がいかにいい加減か、この一事でも明白。

だが「日本海軍はこの信念で大革新せよ」という山本の意見は猛烈な反対に遭う。「海軍の首脳部、特に艦政本部と五十六は真っ向から衝突することとなった。五十六は国防の主力として航空機の時代が到来すると信じていた。そこにこそ兵力を集中させようとした五十六の主張は正しかった。しかし、航空本部長に就任した当時の海軍では、むしろ彼は少数派だった」(同)

「昭和9年10月に軍令部より艦政本部に18インチ砲搭の新戦艦を建設する案が出された。その戦艦、『大和』と『武蔵』の建造が決定されるのは昭和11年7月だった。決定までにほぼ2年近い年月がかかっている。このとき職を賭して反対したのが山本五十六だった」(同)。山本五十六は「以前から『海軍航空育ての親』と目されていた。山本自身「航空本部長なら一生でも勤め上げたい」と周囲に漏らしていたと多くの証言がある。そんな山本が淵田が「自叙伝」に書いたような男であるはずがない。

「ミッドウエー作戦における部隊編成は旧態のままの戦列、山本大将は旗艦大和に座乗、直率の戦艦部隊を依然として主力部隊と呼び、全兵力の後方三百マイルにあって全作戦を支援すると誇称した」―――。これが淵田の書いた文章。なんとも空々しい。

過去、何回も火山は書いた。火山が敬愛するのは<軍政>時代の山本。真珠湾やミッドウエーは関係ない。山本自身、米内光政海軍大臣との名コンビ、海軍次官に留まることを熱望していた。だが日独伊三国同盟から太平洋戦争、日米開戦へと暴走を始めてしまった陸軍。山本は邪魔だった。結局、連合艦隊司令長官へ<祭り上げられて>しまう。

工藤美代子が発見した記録。近衛文麿の証言が残されている。「『近衛が戦争を何としても回避しようと心に決めた』のは山本五十六連合艦隊司令長官の言葉を聞いたからだった。山本は『連合艦隊は1年半ほどは戦えるだろうが、それ以降は戦えるとは思わない』と話したという。それを最も印象深く感じ、『戦争が始まれば日本に望みは全くない』と思った。

『どうやって戦争に勝つか日本で誰もわからないまま真珠湾攻撃が行われたと理解してよいですね』という質問に対しては、『1年で戦争が終結できると思わないと彼らに聞きましたが、それでも彼らは戦争に突入しました』と証言。尋問者に『あきれて口がふさがりません』と言わせている」――。平成6年7月18日の日経夕刊だ。

真珠湾攻撃の時、突撃隊長だった淵田美津雄は海軍中佐。軍政など分かるはずがない。ミッドウエーの敗戦は山本の戦略・戦術が間違っていたというが、軍政を忘れた戦略など、空理空論。はっきり言おう。淵田に山本五十六が語れるはずがない。
(平成20年3月10日)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

戦史に燦然と輝く<真珠湾攻撃>(1941年12月8日)。海軍中佐で総指揮官として最初に爆撃、『トラトラトラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)』を打電した淵田美津雄の「自叙伝」が出た。
その淵田が「山本五十六は<凡将>」と批判(「サピオ」1月23日号)。「火山さんが敬愛する山本五十六に別の面が…」とは句友の風鈴さんの手紙とコピー。火山、飛び上がった。

「太平洋戦争の勝敗を決したミッドウエー海戦の戦略・戦術・指揮に問題があった」が<凡将>の理由。負けたのは事実。だからもっともらしく聞える。だが問題は「なぜ負けたのか」だ。敗因を正確に分析しないと、山本五十六を<凡将>とは断定できない。

「日本はなぜ勝ち目のない日米開戦に暴走したのか」――。火山が学生時代からずっと追及してきたテーマ。その原点は<明治維新>の研究にある。
明治維新は「天皇制絶対主義」への改革か。それとも「ブルジョワ民主主義」革命だったのか。「民主主義」は維新でどの程度<芽生え、育った>のか。自由民権とは何だったのか。

司馬遼太郎が「坂の上の雲」に描いた<明治の理想>は日清・日露の勝利をもたらした。だが明治維新の「文明開化」「殖産興業」「富国強兵」の目標が、なぜあの悲惨な敗戦を招き、日本を焦土にさせ、多くの人命と資産が失われたのか。

山本五十六について、いろいろな伝記、史書を読んだ。敬愛しているのは事実。だが真珠湾やミッドウエーを戦った連合艦隊司令長官の山本ではない。日独伊三国同盟や日米開戦に命を賭して反対、大艦巨砲主義は時代遅れと論じた<軍政>の見識、時流に逆らっても孤軍奮闘、勇気への賛辞なのです。

ミッドウエーの敗因。連載で指摘した。「水雷屋の南雲に機動部隊を預けた軍の人事ミス」(第1回)。「南雲が犯した致命的な判断ミス。<5分の差>」(第2回)。「『太平洋戦争は僕のせいで負けた』と自認した黒田飛行長の索敵ミス」(第3回)―――。

「帝国海軍VS米国海軍―日本はなぜ米国に勝てなかったのか」(「文藝春秋」07年11月号)の座談会で半藤一利、秦郁彦など「昭和史」「軍事史」専門家が敗因を分析している。
「日本海軍の基本戦略、組織、リーダーシップ、技術など、スタート時点から<天地雲泥>の差があった」。「日米戦争は<総力戦>。日米の国力、組織のあり方、国民性が問われた」というのが結論。戦う前から勝敗は決していたのだ。

山本五十六は大正8年(1919)4月、35歳でアメリカ駐在を命じられる。華やかなキャリアのスタート。2年余の留学中、山本は米国の石油事情と航空機について徹底的に調査・研究する。その経験、知見があったから国力差がありすぎる日米開戦に反対した。大艦巨砲主義の時代遅れも指摘した。火山の敬愛する<軍政家>としての山本五十六だ。

昭和15年12月10日、嶋田繁太郎(大将)に出した手紙に苛立ちが出ている。「日独伊同盟前後の事情その後の物動計画などを見るに現政府のやり方すべて前後不順なり。今更米国の経済圧迫に驚き憤慨困難するなど小学生が刹那主義にてうかうか行動するにも似たり」(工藤美代子「海燃ゆ」講談社 307頁)―――。見事な<軍政>批判だ。

「海燃ゆ」は2004年9月1日、御徒町で購入した山本五十六の評伝。僅か2日前、日経が「書評」で絶賛した。工藤美代子には著書に「悲劇の外交官 ハーバード・ノーマン」(岩波書店)がある。ノーマンは明治維新を研究した日本通。彼の著書、火山は学生時代に読んだ。ノーマンに着目した書いた工藤美代子、素晴らしい。

「日米開戦の直前まで首相を務めた近衛文麿(1891〜1945)を米国の調査団が尋問した時の記録が英国で見つかった。『(太平洋戦争は)最初から負けると思っていた』などと証言。無計画な軍に引きずられた自身の力のなさを吐露している」(「日経」06年7月18日夕刊)。
「記録はこれまで公開されていなかった。今年3月、ノンフィクション作家の工藤美代子氏が、近衛を題材に本を執筆するため訪れた(英国)ナショナル・アーカイブズで発見された」と日経。凄い。工藤美代子は実証的な作家なのだ。

近衛に尋問したのは日本に派遣された米戦略爆撃調査団。1945年11月、米国駆逐艦アンコン号の艦上で尋問は行われた。
「37年から3度、首相を務めながら、なぜ戦争を避けることができなかったのかという質問に対しては『方針の多くが軍に左右され、一定の妥協をする必要がしばしばあった』とした。さらに軍の方針は知らされていなかったが、『軍が総合的な計画を持っていたとは思えない』と発言している」(「日経」)。

「近衛が『戦争を何としても回避しようと心に決めた』のは山本五十六連合艦隊司令長官の言葉を聞いたからだった。山本は『連合艦隊は1年半ほどは戦えるだろうが、それ以降は戦えるとは思わない』と話したという。それを最も印象深く感じ、『戦争が始まれば、日本に望みは全くない』と思った」―――。
何と生なましい証言だろう。これが山本五十六の真髄。山本は連合艦隊司令長官を固辞する。米内光政海軍大臣を補佐する海軍次官に留任したかった。だが時代が許さなかった。簡単にいえば<正論>が邪魔だったのだ。
(平成20年3月5日)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

「米海軍では1926年ごろから空母の艦長、航空隊の司令は全員パイロット出身でなければならないと、決められています」。「航空機中心の時代を迎えようとしている時期に、指揮官に実際にパイロットとしての経験、見識を要求したのは、まさに卓見です」。「もし山本五十六や南雲にパイロットの経験があったら、真珠湾攻撃にしても、ミッドウエー海戦にしても相当、結果は異なっていたかもしれません」。「確かに水雷屋の南雲に、いきなり空母部隊を率いて航空決戦をやれ、というミスマッチは起らなかったでしょう」――。

「帝国海軍VS米国海軍―日本はなぜ米国に勝てなかったのか」(「文藝春秋」07年11月号)の一節。最後の発言は「昭和史」の半藤一利。発言者は昭和史・軍事史の専門家ばかり。
この座談会は「日米海軍の基本戦略、組織、リーダーシップ、技術などを具体的に論じて、今にも通じる問題を考えていきたい」という企画。「昭和の陸軍」(6月号)、「昭和の海軍」(8月号)と「文藝春秋」が連載してきた最後のまとめ。

「淵田美津雄自叙伝」の山本五十六<凡将>論(「サピオ」1月23日号)など佐官クラスで真珠湾攻撃を体験した攻撃隊隊長の<我田引水>的な視野とは大違い。座談会では日米戦争を専門家らしく分析、山本五十六の歴史的評価も行っている。
結論はアメリカ海軍を指揮した最高責任者アーネスト・キング合衆国艦隊司令長官兼作戦部長は、日本海軍の永野修身軍令部総長と山本五十六連合艦隊司令長官を足した二人より遥かに優秀。「人事もリーダーシップも作戦立案能力も卓越」していた。

座談会を通読、火山は彼らの意見から学ぶことが多かった。「キングと永野を比べたら80点対30点くらいでしょうか。本来、軍令部総長は海軍の全作戦を統括する重職ですが、永野はそれに相応しい働きなどひとつもしていません」―――。発言は秦郁彦。肩書きは日大講師。だが2月27日(水)「その時歴史が動いた」の「軍服を脱いだジャーナリスト〜水野広徳が残したメッセージ〜」にも出演。「昭和史の謎を追う」「統帥権と帝国陸海軍の研究」などの著書がある。

「永野が30点とは驚きました。高過ぎますよ、10点が精々でしょう」と半藤一利。「太平洋戦争を通じて、米海軍は26人の指揮官をいろいろな事情で更迭しています。日本は本当にクビにしたのはゼロに近い。勝った方が多くの指揮官を替えている」と半藤一利。
「アメリカは平時と戦時ではシステムをガラッと変えてくるんです。ところが日本は平時と同じ人事ローテーションでやっているから、大敗して逃げ出しているところへ辞令の電報が来て、『栄転です』というバカなことがまかり通ってしまう」―――。前記の秦郁彦。

「日本海軍がなぜ懲罰人事をやれないか考えていくと、天皇を頂点とした国家体制の問題に行き着く。統帥権は天皇にあり、最高司令官は絶対無謬の天皇陛下です。とくに軍令部総長や連合艦隊司令長官といった親補職は天皇が直接辞令を出す。彼らの責任を追及すると、天皇まで責任がいってしまうため、結局、誰も責任を取れない。責任が宙に浮く構造になっている」とは戸高一成(海軍史研究家)。

「山本大将は旗艦大和に座乗、直率の戦艦部隊を主力部隊と呼び、全兵力の後方三百マイルにあって全作戦を支援すると誇称した」と渕田美津雄は「自叙伝」で批判した。だがここにも大きな<誤り>がある。これは日本海軍の伝統。山本五十六の意志ではない。

座談会でも「山本自身『ニミッツ(太平洋艦隊司令長官)はハワイにいるのに、なぜ俺はトラックにいなければならないのか』とこぼしていますね」と戸高一成。「だから総力戦時代になって戦争の形態が変わり、『連合艦隊司令長官は常に旗艦にいるべし』という慣例が無意味になったのだから、さっさと場所変えすれば良かったんですよ」と秦郁彦。

「それが海軍の伝統だった」と半藤一利。日本海軍は無責任にも<官僚化>していた。
「作戦遂行に支障が出ているのに、儀礼的な意味しかない不文律をなぜ変えなかったのか。そこが不思議でならない」と秦郁彦。いい得て妙、的確な指摘だ。
これは火山のいう<組織文化>の問題。組織の構成員が<無意識>のうちに従っている<習慣>や<思考方法>!<個人>で変えるのは至難なのだ。「出る杭を打つ」「和をもって尊しとなす」という日本特有の<文化の壁>。「根が深い」のです。

「何が(ミッドウエーの)決定的は敗因につながったのか。転機となったポイントを一点だけあげるならば、索敵の成否が勝敗を分けた。まず重巡『筑摩』から黒田飛行長の索敵機が飛ぶのですが、実はその下にアメリカの機動部隊がいた。しかし、雲があったものだから、雲の下を飛ばずに上を飛んで――これは索敵の原則に違反する――敵を見落とした。『筑摩』の索敵機が雲の下を飛んでいたら、あの戦いは勝てました。戦後、黒田さんは航空自衛隊へ入ったのですが、『太平洋戦争は僕のせいで負けた』と自認していた」。

この重大発言は「その時歴史が動いた」にテレビ出演した秦郁彦。「まことに具体的、かつ明快な説ですが、背景には南雲司令部が<集団催眠>にかかっていたことが挙げられる。つまり、敵機動部隊は出てこないと初めから決めこんでいたのです」(半藤一利)。
「心、そこにあらざれば見れども見えず」――。ミッドウエー敗戦の原因を山本五十六だけに帰すのはムリ。南雲こそ問題があった。彼を起用した人事、組織がダメだったのだ。
淵田美津雄の「山本五十六<凡将>論」など論外。歴史の批判に耐えられる所説ではない。
(平成20年3月4日)

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]


.
kom*_19*7
kom*_19*7
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
友だち(24)
  • jujp4223
  • MAX
  • reikotamaki
  • 土佐文旦
  • ★オオクワ★
  • 銀ちゃん
友だち一覧

過去の記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事