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その人の話は、幼い頃から繰り返し聞かされてきた」と始まる。この<その人>が山本五十六。聞かせたのは著者の母。「何しろ海軍さんですもの。そりゃあスマートだったわよ。とにかくねぇ、あの人がいる限り、きっと日本をなんとかしてもらえるって、そんなふうに思っていたの。東条じゃダメよ。陸軍がダメだって、なんとなく日本人は知っていたわよ…」――。 |
山本五十六アラカルト
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「勝算のない戦い」…五十六は<対米戦争>を阻止すべく終始、必死だった。だが歴史は彼に味方をしなかった。1921年(大正10年)のワシントン会議、1930年(昭和5年)のロンドン会議。軍縮協定に日本も調印した。国内から猛反発が起きた。五十六の悲劇の原点はここにある。 |
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「42年6月5日に戦われたミッドウエー海戦の敗北を巡り、淵田美津雄は忌憚のない山本五十六批判を行なっている」と「サピオ」(1月23日号)。中学同期の俳句仲間の風鈴さんが記事のコピーを送ってきた。火山が敬愛する山本五十六に別の面があったと添え書き。 |
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戦史に燦然と輝く<真珠湾攻撃>(1941年12月8日)。海軍中佐で総指揮官として最初に爆撃、『トラトラトラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)』を打電した淵田美津雄の「自叙伝」が出た。 |
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「米海軍では1926年ごろから空母の艦長、航空隊の司令は全員パイロット出身でなければならないと、決められています」。「航空機中心の時代を迎えようとしている時期に、指揮官に実際にパイロットとしての経験、見識を要求したのは、まさに卓見です」。「もし山本五十六や南雲にパイロットの経験があったら、真珠湾攻撃にしても、ミッドウエー海戦にしても相当、結果は異なっていたかもしれません」。「確かに水雷屋の南雲に、いきなり空母部隊を率いて航空決戦をやれ、というミスマッチは起らなかったでしょう」――。 |




