火山の独り言

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新編「聖徳太子は実在しない」

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一代の<英傑>不比等は「日本書紀」が完成した養老4年(720年)、この世を去った。
「<法と制度>を充実、時には謀略で権力を握った古代国家最大の政治家―――。擁立すべき男子の天皇に恵まれず、幼少7歳の皇子<軽>と<首>を2代にわたって<皇太子>に仕立て<中継ぎ>の女帝を立て成人を待つ。辛抱の限りを尽くした不比等だった。
だから「日本書紀」で<聖徳太子>を捏造、孫の<首>の即位を願っていた。だが長屋王の事実上のクーデターで皇位を<元正>女帝に奪われてしまう。

儒教精神<和を以て尊し>と強調したかった聖徳太子<像>。だが長屋王に迎合した執筆者<道慈>の道教好きで歪められてしまう。
佐保の別邸に文人を集めて夜を徹して神仙思想の幻想的世界に遊ぶのが長屋王詩苑だった。老い先が短くなった「不比等の暗然たる姿が浮かぶ」とは大山誠一教授「聖徳太子の誕生」(167頁)の言葉だ。

だが長屋王の運命が暗転する日が来た。不比等の死の翌年の養老5年(721年)12月7日、長屋王を支えた元明女帝(正妻の母)が亡くなった。間もなく長屋王政権は崩壊する。
養老8年(724年)2月4日、元正女帝(長屋王の正妻の姉)が<譲位>、不比等の嫡子・武智麻呂の擁する<首(おびと)>が即位する。聖武天皇。長屋王は正2位左大臣へ昇進するが、権力基盤はない。実権は中納言の武智麻呂と聖武天皇の皇后光明子に移った。だが長屋王は認識していなかった。生まれながらの高貴の血筋。権力を自分の力で勝ち取ったのではないからだ。

権力の座を追われていた長屋王の運命は武智麻呂と光明子の手に握られた。そこへ光明子に不幸が起きた。神亀4年(727年)閏9月、光明子が基王を出産、11月に異例な赤子の立太子が行われた。光明子は不比等の娘、武智麻呂の異母妹だ。藤原一族から皇嗣を出したいという焦り。強引な立太子。だが翌神亀5年9月13日、あっけなく皇太子が夭折。
光明子は悲嘆にくれ、皇嗣を失った武智麻呂はさらに焦った。

翌神亀6年(729年)2月10日、聖武天皇の六衛の兵が長屋王邸を囲んだ。<謀反>というのだ。追い詰められた長屋王は自刃。正妻の吉備内親王とその子どもたちも自経した。
もちろん謀反の事実はなく、武智麻呂らの謀略。つまり<でっち上げ>だった。あまりにも高貴な血筋を持つ長屋王への藤原一族の嫉妬と警戒心。当時の世の人々にも真相は自明のことだったらしい。恐ろしい。東大寺の大仏を建立した聖武天皇、慈悲深いことで知られる光明皇后のはずだが、これが史上名高い<長屋王の変>だ。

「死は人の評価を変えるものである」と大山教授。「長屋王が好んだ老荘隠逸の六朝風は、あまねく当時の文人たちに浸透していた。長屋王詩苑の自由で幻想的な日々の思い出は、次第に長屋王を美化した。長屋王の変の22年後の天平勝宝3年(751年)に長屋王詩苑を中心に据えた『懐風藻』が編纂されたのも一つの証左だろう。政治家としての資質に欠けていたことはもはや問題にはならない。一方、武智麻呂と光明子には、謀略により長屋王を亡ぼしたという暗い影が投げかけられた」(169頁)。

長屋王は消えた。しかし、子孫は残った。彼の妻には不比等の娘もいた。彼女はもちろん保護され、彼女が生んだ安宿王、黄文王らは長屋王の分身として、人々の期待を担っていた。彼らを通じて長屋王はいつまでも生き続ける。武智麻呂と光明子らは長屋王の影に脅えていた。

武智麻呂政権は確立した。だが<長屋王の変>の衝撃は人々の心から容易に消えなかった。武智麻呂の政治を大山教授はまとめている。
第一が皇位への執着。神亀6年8月、<天平>と改元、光明子は正式に<皇后>となった。皇后は即位の可能性があるから従来は皇族出身の女性に限られていた。<法>を無視した。
第二、治安を厳しくした。特に<呪詛>を厳禁した。長屋王の<亡霊>に脅えていたのだ。

第三に儒教思想の確認。「憲法17条」は儒教の強調。上下の秩序を徹底、「和を以て尊し」と臣下の心得、精神を強く訴えた。藤原氏の<栄華>には<和>が絶対必要だった。
火山はこのことを特に強調したい。だから<全会一致>も<改革>の邪魔になる。菅直人の「大臣」(岩波新書)でも強調されている<事務次官会議>の弊害。詳しくは火山の<無題>の「書庫」をご参照ください。
第四は仏教思想への傾斜。東大寺の大仏造営。光明皇后の名で「施薬院」も設置された。

要約すれば<法>による統制と<儒教><仏教>の重視で<長屋王の変>後の難しい政局を乗り切ろうとしたのだ。(続く)

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不比等は怒涛のように日本に流れ込んでくる中国思想の中で、日本にも儒教・仏教など中国理解に強い聖天子が実在、今日の繁栄をもたらしたと内外に誇示しようとした。それが「日本書紀」の編纂。政界のトップ・不比等にはもう一つの悲願があった。早世した
前天皇<文武>の遺児<首>の即位を実現すべく<皇太子>制の<尊厳>を徹底すること。

そのため<強力>な<皇太子>の実例として選ばれたのが「大化の改新」を断行、部族連合の日本を<中央集権>国家に統合した<中大兄>だった。当時、<皇太子>制は存在せず、単に有力な皇子の一人に過ぎなかったのに、これを<皇太子>に仕立てた。
都合が良いことに<中大兄>の時代も<女帝>の<斎明>が即位していた。厩戸王の時代も<推古>女帝だった。そこで<聖徳太子>を<捏造>、聖天子として思い切り美化した。
不比等が皇太子に仕立てた<首(おびと)>も不比等が擁立した女帝の<元明>の時代。<元正>擁立では長屋王のクーデターで一敗地にまみれたが、やはり女帝。正当化に絶好。

不比等は中国的な理想の<聖天子>たる<聖徳太子>像を<創造>するため発見したのが、養老2年(718年)に唐から帰国した<道慈>だった。彼は「釈門の秀」と称された逸材。「宋史」日本伝に「粟田真人を遣わし、唐に入り書籍を求めしめ、律師道慈に経を求めしむ」と記録された僧侶。日本で最初の本格的な学識をもった僧侶だった。

だが道慈は世俗権力にも敏感だった。「唐に在りて本国の皇太子に奉る」詩を作ったと「懐風藻」に記録がある。皇太子<首>に強い関心があったのだ。彼は政界トップの不比等に接近、文才を見込まれ「日本書記」の執筆者に選ばれる。
だが道慈はすぐ不比等の衰えに気づく。元正<女帝>即位で<首>皇子の即位も危うい。

一方、長屋王は自分の正妻の姉を<元正>女帝に擁立、今をときめく権力者だった。佐保の別邸に文人を集め、「懐風藻」にも描かれた<長屋王詩苑>を開催、神仙を夢見、道教に
凝っていた。実は道慈、中国で師事した高僧<道宣>の影響を受け、道教好きで<大の儒家嫌い>だった。最初は不比等の意向で動いたが、次第に長屋王と親交を深める。
かくて不比等が夢見た聖徳太子の<儒教>精神は次第に<道教>の影響で歪んで行く。「『日本書紀』完成後2ヶ月あまりで生涯を閉じる不比等が、推古紀に記された聖徳太子像を見て暗然とした姿が目に浮かぶ」(167頁)と大山教授は結ぶ。

養老4年(720年)、一代の<英傑>不比等も失意のうちに世を去った。63歳。代わって政界のトップに立ったのはもちろん長屋王だった。
翌721年1月、長屋王は従2位右大臣に昇進、本格的な長屋王政権がスタートする。しかし、神仙思想や道教に毒された長屋王の政治は人心を得られなかったと大山教授はいう。長屋王がよりどころとした<天人相関>とは「至上神たる天が、地上の人間と感じあい、反応して、災異や瑞兆を示すという思想で、特に為政者の政治の良し悪しに、天が判断を示したと考える。為政者は自然現象に一喜一憂し、確たる信念を持った政治ができなくなる」―――。<法と制度>で人々を導こうという不比等の政治とは根本的に異なる。

「権力に執着し、それを法と権力と時に謀略を駆使して実現しようとした不比等とは異なり、生まれながらにして文武・聖武を上回る高貴性を有して、いつの間にか権力中枢に身を置くことになった長屋王は、本来政治権力そのものであるはずの法と制度の重要性に対する認識を欠いていた」と丸山誠一教授「聖徳太子の誕生」(166頁・吉川弘文館)。

それがやがて権力の絶頂にあった長屋王の運命を狂わせる。長屋王の権力は自分の努力で勝ち得たものではなかった。<法と制度>への致命的な無理解は和銅8年(715年)9月、文武から首(おびと)への中継ぎで即位したはずの元明に代えて、義姉(正妻の姉)の氷高内親王を擁立したことだった。
既に15歳に達していた皇太子<首>を「神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯幼稚にして未だ深宮を離れず」と不比等の悲願を一蹴したのだ。

<皇太子>制がまだ<定着>していなかったからだが、「飛鳥浄御原令」で<皇太子>制を定めていた不比等ら藤原一族の<恨み>を買う原因となった。皇太子の何たるかを認識していなかった。
不比等は養老3年(719年)10月17日の<詔>で「日本の法令は成文法がなく、天智天皇の時代にようやく整い、文武朝の「大宝令」で完成した。皇位継承の基本は<皇太子>であると強調した」。

面白いことに<聖徳太子>が作ったはずの「憲法17条」の存在を「成文法は天智以前になかった」と自分で否定した。「憲法17条」は「日本書紀」(720年成立)で紹介される。肝心の「日本書紀」はまだ完成していなかったのだ。
不比等は「日本書紀」で<皇太子制>の存在と聖天子のモデルたる<聖徳太子>像を構築、<皇太子>であったと強調した。すべては<孫>…娘<宮子>が生んだ<首>の皇太子擁立への布石だった。

長屋王は意味を理解していなかった。自分の<運命>を変えるという認識も欠いていた。「長屋王が、ついに<法と制度>の重みに屈する日」(167頁)が近づいた。長屋王は真剣に考えていなかった。

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不比等は「大宝令」を制定、天皇を中心とした<法と制度>の<律令国家>を築き、しかもその天皇を<象徴化>して<宗教的>存在に祭りあげ、自分が専制を振るえる体制を整えた。古代史<最大の政治家>と言われるのは当然だ。

だがその不比等にも自由にできないことがあった。自分が操れる天皇に恵まれなかった。自分が舎人として使えた草壁は即位前に27歳で早世。その遺児7歳の<軽>が成長するまで<中継ぎ>の女帝(持統)を立てた。その軽を文武天皇にしたものの、その天皇も25歳で世を去る。その遺児も7歳。<首(おびと)>だ。また女帝(元明)を立てた。ライバルの長屋王の即位を阻止するためだ。その元明は長屋王を<娘婿>にしていた。知ってはいたが、他に選択肢がなかった。

その元明、長屋王と不比等の権力闘争に巻き込まれ、疲れきって皇位を投げ出す。不比等は14歳になっていた首を即位させようと画策したが、長屋王は元明と組み、妻の姉妹(氷高内親王)を即位させてしまう。元正<女帝>だ。実質的な長屋王政権。大山教授は「聖徳太子の誕生」(吉川弘文館)で「事実上のクーデター」(120頁)と書いた。

不比等はそれでも諦めなかった。「日本書記」を編纂させ、<聖徳太子>という儒教・仏教に通暁した中国的な聖天子が「憲法17条」を定めたと描き、<首>皇子が即位した場合の「<王権>の<権威>の確立」(134頁)を図った。具体的には「和を以て尊し」など<君臣>関係の規定だ。「それがあって初めて、不比等が自在に権力をふるうことが可能になるからである」(134頁)。つまり「憲法17条」、特に<儒教>的精神は重要だった。それでこそ自分と藤原一族が<栄華>を極められるのだ。

だが既に<高齢>で<晩年>を迎えつつあった不比等。いかに執念を燃やしても限界があった。「日本書記」に描かれた中国的<聖天子>の<聖徳太子>像が長屋王の影響で歪められてしまったのだ。大山教授はその関連を次のように説明する。

長屋王は天武の血筋で神仙を夢見、道教を論じるのが好きだった。佐保の別邸に文人を集め、夜を徹して老荘を語らっていた。不比等と長屋王の意向を受けて聖徳太子は描かれたのだが、「中国思想といえば儒仏道の三教であるが、この2人(不比等と長屋王)だけでは、仏教が欠けている。『日本書紀』の文章を直接執筆するとなると、不比等は、既に相当衰えていて無理だったと思われる。事実、養老4年(720年)5月に『日本書紀』が完成すると、まもなくの8月になくなった。また長屋王の方は、そのような素養そのものに欠けていたであろう」(123頁)と大山教授。

大山教授はその上で「釈門の秀」と称された<道慈>なる人物の存在を指摘する。道慈は「『宋史』日本伝の『粟田真人を遣わし、唐に入り書籍を求めしめ、律師道慈に経を求めしむ』」と記録された僧侶。養老2年(718年)に唐から帰国した。「日本で最初の本格的な学識をもった僧侶」という。

道慈は留学中、「西遊記」で有名な三蔵法師がインドから持ち帰った経典の翻訳を行った西明寺に学び、<道宣>という高僧に師事した。道宣は戒律を研究、中国の戒壇の基礎を固めた人物。道慈はその道宣に日本の戒律が遅れていることを伝え、<受戒の師>を日本に派遣することを<献策>した。それが鑑真が幾多の苦難を乗り越え、来日する伏線になったという。

道宣は仏教の普及に努めたが、神力霊威に強い関心を持っており、仏教以外の神仙・陰陽・懺緯の思想に興味を示していた。要するに仏教を基本としつつも、神仙思想や道教思想を積極的に取り入れた人物だ。
その道宣の思想に著しく影響を受けたのが<道慈>。道慈はさらに世俗的な権力にも敏感だった。中国では仏教の高僧や道教の道士が皇帝の信任を受け、国政に参与する例が少なくなく、道慈も充分意識していたという。

道慈は「『懐風藻』に『唐に在りて本国の皇太子に奉る』」という詩を作ったと記録があり、帰国を前に皇太子<首>に強い関心があったことを示している。
その道慈が不比等に接近、文才を見込まれて「日本書記」の執筆者に選ばれた。だが日本の政界の第一人者の不比等も帰国してみたら衰えが目立った。その上、元正<女帝>の即位で<首>皇子の即位も定かではなかった。

これに対し「今をときめいているのが長屋王の方で、現天皇の元正も長屋王側の人物と知れる。おまけに道慈は、大の儒家嫌いで、道教好きだった。となれば最初は不比等の意向の上で行動していても、次第に長屋王との親交を深めることになる」(127頁)のは<理の当然>だった。かくて不比等の<儒教>精神は<道教>の影響で強く歪んで行く。大山教授は「道慈の長屋王に対する迎合」(161頁)と書く。

「『日本書紀』完成後2ヶ月あまりで生涯を閉じる不比等が、推古紀に記された聖徳太子像を見て暗然とした姿が目に浮かぶ」(167頁)と大山教授。不比等が夢見た聖徳太子像は道教で汚されてしまったのだ。

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元明<女帝>は和銅8年(715年)9月2日、譲位の<詔>で「神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯幼稚にして未だ深宮を離れず」と15歳の<首(おびと)>を決め付け、不比等の願いを一蹴。娘の氷高内親王に皇位を譲る。同日、<元正>女帝の即位。もちろん<長屋王>の意向だ。不比等は敗れた。

最近発見された長屋王家木簡でも明らかなように、元正は長屋王一族と家政が融合、親密な関係にあった。元正は長屋王の正妻と姉妹関係。長屋王の権力は即位した元正の財力を前提にしており、元正は長屋王の傀儡。即位は事実上のクーデターと言ってよい。

「聖徳太子の誕生」の著者・大山誠一教授は「晩年を迎えた不比等と、全盛期を現出しつつあった長屋王との勢いの違いだったのかも知れない。しかし、これで終ったわけではない。不比等はなお<右大臣>として実力者の地位を保っており、長男の武智麻呂をはじめ頼りになる子供たちもおり、首皇子は依然として皇太子に違いなかったからである。これに反し、長屋王は式部卿とはいえ、まだ国政を審議する太政官のメンバーにもなっていなかった」と書く。

長屋王には高貴な血があった。父親は天武の長男の高市皇子。太政大臣となった。母親は天智の娘、文武の母とは同腹の姉妹。不比等の娘を妻とした点でも文武と同じ。
長屋王の権力は恵まれた血筋に由来する。元正女帝を擁立したのは長屋王。元正朝は長屋王政権といってよい。大山教授は「『日本書記』が編纂され、<聖徳太子>が誕生したのは、実に、この元正朝であった」と続ける。

もちろん、この間も不比等は<右大臣>。政権の中枢にいた。養老2年(718年)には「大宝令」を改定、「養老律令」を選定した。だがこの年3月、長屋王は大納言に昇進、一躍不比等に次ぐ地位を得た。両者の確執が目に見えるようだ。
不比等は養老4年(720年)に亡くなるまで右大臣のまま、左大臣に上がろうとしなかった。持統女帝からは再三、太政大臣への昇進を勧められたとの説もある。だが固辞した。長屋王を右大臣にしないためだったといわれる。

一方、不比等が完成させた「養老律令」も施行されなかった。長屋王の意向かも知れない。権力闘争に陰謀はつきものだ。
しかし、「日本書記」を編纂し、中国の皇帝と対比できるような天皇像を作り上げるという点では、最高指導層の意思は一致していた。皇室の歴史の中に、儒教、仏教、道教の中国思想に通暁した聖人がいて、その偉業によって今日の繁栄があると示すことだ。

大山誠一教授は「聖徳太子の誕生」(吉川弘文館)で「『日本書紀』は『論語』季子篇に『礼楽征伐は天子より出づ』とあるのを、礼楽と征伐を分け、後者をヤマトタケルとし、前者を聖徳太子に委ね、両者合わせて聖天子と考えたようだ」(121頁)と指摘する。
ヤマトタケルは既に「古事記」で非凡の英雄だった。しかし、聖徳太子は「古事記」で「上宮之厩戸豊聡耳命」と呼称を与えただけ。人物像の描写は「日本書紀」に委ねられた。

聖徳太子は日本の<国家理念>を体現する人物となる。当然、不比等と長屋王の意向が反映される。しかし「両者の思想も人間性も大きくことなっていた」(122頁)と大山教授。
不比等は「法と制度」を重視、「大宝令」で「律令国家」を完成させた。彼は律令の基礎にある<儒教>倫理を重視していた。しかし、それ以上に切実な願いは元服していた<皇太子>首(おびと)皇子の<即位>を実現すること。そして安定した<皇位>を握り、藤原一族の<栄華>を築くことだった。

皇太子は、次の皇位を予定された存在。しかし、草壁が早世した689年に飛鳥浄御原令で制定されたばかり。実例は<軽>と<首>の2人だけ。しかも軽はごく短期、首は存在感が薄く「神器を皇太子に譲らむとすれども年歯幼稚にして未だ深宮を離れず」と言われる始末。皇位は女帝とはいえ<元正>に移っている。長屋王の策謀だが一般に受容されてしまうところに問題があった。

まず神武以来の歴代天皇に立太子記事を挿入、皇位継承にあたって皇太子の地位を強調すること。ついで皇太子として重きをなした実例を示すこと。選ばれたのが<中大兄王>だった。彼はもちろん皇太子制度の成立以前だから有力な王族の1人であったに過ぎない。
しかし、645年、蘇我入鹿を滅ぼし、大化の改新を断行、白村江の戦いで破れはしたが、668年に正式に即位、近江令を制定、庚午年籍を作成、律令国家の基礎を築いた。

しかもその間、大王ではなく、孝徳、斉明をほとんど傀儡として立てていた。大王としての在位はわずか4年。しかし、壬申の乱の勝者となった天武より遥かに存在感は大きかった。だから不比等は即位前の<中大兄王>を<皇太子>と称した。この<強力>な実例を示した上で、いよいよ中国的<聖天子>として<聖徳太子>を<誕生>させたのだ。

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不比等は古代史最大の政治家。巨大な権力を振るって「大宝令」を定め、天皇を象徴化、宗教的存在に祭り上げた。実権は自分が握った。しかし、不比等にも自分が操れる天皇の存在は必要だった。だから<個性と実力>のある長屋王を拒否、草壁の正妻を<元明>女帝として擁立した。

7人もいた天武の皇子、そして誰もが最適任と見ていた長屋王を退けるために<不改常典>なるものをでっち上げた。天智天皇が定めた<法典>、<永久不変>!誰もが<改められない>と押し通した。
だが不比等の辛いところは擁立した女帝が長屋王と極めて親しく(娘婿)、長屋王夫婦には<膳夫王>(かしわでおう)ら皇位を継ぐ資格のある孫たちもいたことだ。

不比等は<皇太子>の尊厳を<誇示>するため「日本書紀」に聖徳太子<伝説>を極度に美化・神聖化して詳細に記録した。中国風の<聖天子>が日本の<権威>のためにも必要だったのだ。
だが聖徳太子の<薨日>を巡る大きな<疑惑>が今日の研究で指摘されている。「日本書記」では推古29年(621年)2月5日とあるのに、法隆寺に保存されてきた釈迦像の銘と天寿国繍帳の銘には推古30年(622年)2月22日と記録されている。

聖徳太子が伝えられるような偉大な聖人であったとしたら、その死は国家的な大事件。それなのに国家が編纂した歴史書と氏寺が伝える説が異なる。もし法隆寺にこのような伝承が古くから存在していたら、「日本書紀」の編纂者は無視したことになる。聖徳太子と法隆寺の関係は当時から重要視されていたはず。「無視などありえない」と大山教授はいう。

だとすれば考えられる唯一の可能性は「日本書紀」が編纂された時、法隆寺系の史料は存在していなかった。「日本書記」が完成した養老4年(720年)以後に何者かによって造られたと考えるしかない。この謎の解明が今後の課題。そしてこれも不比等と長屋王の権力闘争と関係がある。

不比等は元明<女帝>を擁立した。長屋王に<皇位>を継がせるわけには行かなかったからだ。ついには天智天皇の権威を借り、<不改常典>を捏造してまで頑張った不比等。
だが不比等が切り札としてきた文武天皇は25歳で早世。彼の遺児<首>(おびと)は7歳。それでも草壁の遺児<軽>(後の文武)が7歳で、その成人を<持統>女帝を立てじっと待った不比等。今度も元明<女帝>を立ててまた<待つ>ことにした。凄い執念だ。

だが<持統>と<元明>はまったく違う条件があった。持統の場合は草壁しか子どもがいなかった。だが元明には娘が2人いて、その吉備内親王は長屋王の正妻だったのだ。しかも元明は長屋王の家族と家政を共にするほどの仲良し。皇太子になってもおかしくない男子<膳夫王>までいた。

元明女帝は文武の遺児<首>が<皇太子>となることを承知していたが、即位を望んではいなかった。長屋王も思いは同じだ。
文武が早世したために不比等と長屋王の関係は大きく変わってしまう。長屋王は文武の姉・吉備を妻としていたので文武と兄弟。文武の妻(皇后)は不比等の娘だった。文武が生きていれば不比等との関係は近く、固い関係になる。だが死んでしまえば話が変わる。実際、両者は<疎遠>になった。長屋王は<元明>即位の取引で<政略結婚>…不比等の娘も妻にしたが、政敵となれば何の支えにもならない。不比等は決定的に不利となった。

不比等は和銅7年(714年)6月、14歳となった首皇子の<元服><立太子>の儀式を行った。翌年の正月10日には皇太子が礼服で拝朝、瑞雲が現われたとして<大赦>も行われた。不比等が公然と皇太子への<譲位>を求めたのだ。
長屋王も負けてはいない。自分を<長屋親王>と呼ばせ、皇位継承の資格があるかのように振る舞ったり、吉備内親王(長屋王の正妻)の子どもたちを男女とも<皇孫>に加えた。
自分は<親王待遇>…。<膳夫王>ら子どもたちの<皇位継承資格>も確認された。

だが元明女帝は2人の権力争いの狭間(はざま)で神経をすり減らし、疲れきって、ついに<譲位>を決意する。相手は不比等の期待した<首>ではなく娘の氷高内親王。元正女帝の誕生だ。元明は譲位の<詔>で「この神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯幼稚にして未だ深宮を離れず」と断言。不比等の願いを一蹴した。もちろん、すべてが<長屋王>の意向だった。不比等は初めて敗れた。

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