火山の独り言

時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり

花に狂ふ西行

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世をいとふ 名をだにもさは とどめおきて 数ならぬ身の 思ひ出にせむ(西行)

西行が<出家遁世>したのは23歳。こんな歌が残っている。出家後の20代のもの。「あの人は世を厭い浮き世(憂き世)を捨てた人だったと、名前だけでもこの世にとどめておきたい。数のうちに入らない我が身だとしても、時には思い出してもらいたい」――。

「世を捨つるとも、世に捨てられずば、遁れたるにあらず」と言い放ったのは明遍上人(1142〜1224)。西行より24歳若いが、この言葉は西行を皮肉ったものという。
明遍は平治元年(1159)に起こった『平治の乱』で源義朝に殺された少納言藤原通憲(入道信西)の子。信西は後白河上皇の近臣。平清盛と親密となり、権力をのばしたが、義朝に疎まれ、殺されてしまう。明遍は父・信西の死後、東大寺で出家、高野山にとどまり、蓮華谷聖(ひじり)の祖と呼ばれた。

明遍の父信西が親密だった後白河上皇は、西行が佐藤義清の俗名で仕えた鳥羽天皇の第4皇子。西行は69歳の文治2年(1186年)に信西を滅ぼした義朝の子頼朝と鎌倉で一夜語り明かす。西行は奥州の藤原秀衡へ東大寺の大仏再建の勧進に行く途中だった。<俗世>との関係を絶てなかった西行。世間は狭いというか、因果は不思議に絡んでいる。

「書くということは遺す意思があるから。西行は後世に語り継がれることを和歌に関しては常に意識していた。他者の目を意識したことで表現意欲も生まれ、秀作も世に遺った。それは西行という名が遺る」(小松和彦「西行と兼好」36頁)ことでもあった。

「西行とは何者か」(同)に書いた松永伍一は続ける。「世に捨てられるどころか、世の人に拾われたいと願っているようだ。始終西行にはこの意識が付きまとっていたようだ。それは仏道修行にのみ打ち込めなくなった西行の数寄(すき)者ぶるからもたらされたもので、さらに歌人として名を知られるに連れて強まった意識に違いない」(同)。

そんな西行にとって仏道修行より草庵暮らしや旅が重要だった。最初の草庵暮らしは京都<洛外>。「人恋しさも抜け切っていない」(37頁)。31歳になってようやく心が安定、高野山に移り住み30年を過ごす。吉野山にしばしば足を運んで<花狂い>の快楽にひたる。
「西行ほど桜の歌が多く、しかも生涯、歌い続けた歌人はいない。吉野の桜だけでも六十余首を数えるが、古典和歌をざっと調べてもみて、実際に吉野の山に踏み入り、そこに咲く、桜を目のあたりにして詠んだ歌人は西行以外には無かった」(「西行と兼好」54頁)。

<花>というと<桜>を連想する。火山もそうだ。だから<花の散る 友を偲びて 千の歌>と詠んだ。しかし、それは平安時代以降のこと。奈良時代の「万葉集」では最も数多く歌われた花は<萩>の花、珍しがられ、珍重されたのは<梅の花>であった。
西行が<桜>を連想させるのは西行の存在の大きさであり、<草庵>と<旅>の生涯を送り、<歌名>を遺そうとした西行の<企画力>と<演技力>の成果かもしれない。

歌人なら誰でも「歌を後世に遺したい」と願う。だが西行の執着は人一倍激しかった。「遺るというのではなく、遺るように策を弄した向きすらあった」(47頁)というから凄い。
西行の時代、藤原俊成という当代一級の歌人がいた。『千載和歌集』の選者だ。この第7番目の勅撰和歌集の撰が進められていることを知った西行は事前運動を始めた。自作の<歌集>を俊成に送りつけた。それも伊勢神宮に奉納するから<判>をしてほしい。よい歌を選んでほしいという口実。これでは断れない。そこを狙ったという。

効果は抜群!『千載和歌集』に18首も選ばれた。半ば強制的に読んでもらった成果。西行は俊成の息子の定家にも同じ手を使った。これが『新古今和歌集』に94首も採用され、<入撰歌数第一位>の栄光を獲得した背景という。凄い。

「西行は人脈を自分に都合よく活用した人物であった。出家遁世したと言っても俗にある著名人と接近した」(43頁)。その最大のものは69歳の時の勧進。東大寺の再建が目的。みちのくの大富豪である藤原秀衡から応分の寄金を集め、ついでに鎌倉将軍の頼朝にも面談してほしいというもの。西行は老齢なのに承諾する。成算があったのだ。

「秀衡と頼朝とに対する場合、対応の方法を変えねばならない。これは脚本のないドラマ。政治家と対面すれば政治家の心理を読み、武士と向き合えば歌詠みの聖(ひじり)となって肩すかしのテクニックを身に付けていた。そういう人格を道心者らしくないと非難する向きもあったが、自尊心の強い彼は世評など意に介さなかった」(45頁)。

みちのくへ行く途中、鎌倉に立ち寄った。自分から将軍を訪ねるという卑屈さは避けた。
「吾妻鏡」によれば鶴岡八幡宮の鳥居のそばをうろついていた老僧を頼朝が発見、家来に名を問わせたところ西行と判明、驚いた頼朝が自邸に招く。「会いたい」と言った方が負けだ。頼朝は弓馬のことや歌道について質問したが、西行の答えは素っ気なかった。

西行は鎌倉幕府の平泉対策を探るのが目的。和歌のことはどうでもよかった。遠い親戚の秀衡に鎌倉の情報を漏らす。手土産がほしかったのだ。それで勧進が成功すれば一石二鳥。
<願はくば 花の下にて 春死なむ あの如月の 望月の頃>――。歌で願ったとおり西行は死ぬ。人々は驚愕した。見事な企画力と演出力と言ったら、西行に失礼だろうか。
(平成19年4月17日)

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「西行ほど桜の歌を数多く、しかも生涯、歌い続けた歌人はいない。吉野の桜だけでも、六十余首を数えるが、古典和歌をざっと調べてみても、実際に吉野の山に踏み入り、そこに咲く桜を目のあたりにして詠んだ歌人は、西行以外にはほとんど無かったといってよいのではないか」(河野裕子<西行と桜花>・小松和彦ほか「西行と兼好」ウエッジ・53頁)。

この連載を「花に狂ふ西行」と名づけた。それは西行が生涯、桜を歌い続けたからだ。しかも西行の桜の歌が他の歌人と決定的に違うのは<歌枕>として想像された<架空>の地の吉野ではなく、実際に吉野に足を運び、桜を自分の目で見、触り、香を嗅ぎ、風にそよぐ桜の音を聞いて、歌を作っていることだという。

聞きもせず たばしね山の さくら花 吉野のほかに かかるべしとは(西行)

「あの名高い吉野以外で、これほど素晴らしい桜を目にするとは、束稲(たばしね)山が桜の名所などとは聞いたこともございませんでした」(志立正知秋田大教授)。

火山が3月27日、東京・隅田公園の観桜散策から戻ったら、中学同期の句会の仲間<風鈴>さんから、大きな封筒の郵便が来ていた。開けたら「感じる旅、考える旅『トランヴェール』3月号<特集>平泉の桜とみちのくの西行を旅する」という雑誌が出てきた。西行のことがいろいろ分った。西行は26歳の時、陸奥の旅をしていることも分った。

行く春や 西行法師の 夢を見る(火山)

これは火山の近作。それを知っていて<風鈴>さんが送ってくれた。「句会の前に、この雑誌を読んでいたら、火山の句を評価できたのに…」という趣旨だ。有難い。実は火山のこの自信作、仲間では誰も選句してくれなかった。

だが<よい句ですね>――と評価してくれた方が現われた。なんと<吉野の宮司>という方。インターネットで火山の記事を読んでくれたのだ。世の中、実に面白い。
「行く春やの句は最高にいいですよね。桜の下で酒を飲み明かし、満月に照らされ、起こしたけれど起きなかった人生こそ・・・俳人の廃人たる真骨頂です。『咲けなくて何の己が桜かな』『酒無くて何の己が火山かな』」――。こんな痛快なコメントまで付いていた。

<陸奥の歌枕に憧れた若き歌人・西行>――。「西行が陸奥へ初めて旅をしたのは、康治2年(1143年)の26歳のときではないかと推察されている。その旅の目的は、100年以上も前の歌人で陸奥の歌枕を旅した能因法師の足跡を慕い、その地を実地に訪ねることにあった。陸奥の歌枕に憧れたのは、西行や能因ばかりではない。王朝の歌人にとって、陸奥は歌枕の宝庫として限りない憧憬の対象にされていたのである」(「トランヴェール」8頁)。

西行の先祖は藤原秀郷。平泉に<中尊寺>など黄金文明を開化させた藤原秀衡も西行の遠縁に当たる。前記の桜の<束稲山>は平泉の高館(義経終焉の地)から望むことができる。
「『吾妻鏡』の文治5年(1189年)9月27日条は、束稲山の桜の規模について『三十余里の際(あいだ)の桜樹を並べ植う』と記している」(「トランヴェール」7頁)――。西行が眺めた<束稲山の桜>は西行の歌のとおり素晴らしいものだったのだ。

前回の「<遁世>は<この世>と<あの世>の境界にある<もう一つの世>」で触れた<出家遁世>――。西行もまた23歳の若さで妻子を捨て<遁世>を選んだ。
「世捨てはブームのようなもの。できるのは貴族や武士階級に属する人たちだ。民衆とは縁がない。世に捨てられたような彼らの立場からすれば贅沢な行為」(「西行と兼好」35頁)。

鳥羽上皇の院を守る「北面の武士」だった佐藤義清(西行)が保延6年(1140年)23歳の時に出家していることは内大臣の藤原頼長の日記「台記」に書かれている。「康治元年(1142年)3月15日に法華経の勧進のため西行が当時23歳だった頼長を訪問、頼長は法華経28品の一つ<不軽品>(ふぎょうぼん)を自筆で書写することを承諾」したという記事だ。

これを読んだ火山。思わず唸った。西行の凄さを考えた。頼長は時の摂政関白太政大臣・藤原忠実(ただざね)の次男。史上最年少の17歳で内大臣になった頼長は「日本一の大学者、和漢の才に富み」と謳われた。その頼長に取り入り、勧進をさせ、日記にまで自分を記録させた。並みの<才覚>ではない。しかもこの時、西行は25歳、まだ出家して2年。

因縁は恐ろしい。この頼長は後に保元・平治の乱を引き起こす。しかも平治の乱では後に鎌倉に武家政権を開く頼朝の父・源義朝が敗死する。義経が平家を滅亡させながら、後に<平泉の高館>で自刃するのも無関係ではない。――だが西行の出家に話を戻す。
「西行の出家遁世もブームにあやかった向きもある。限りなく隠遁したとは言えきれず、かといって法衣をまとって旅に終始した」(「西行と兼好」35頁)のでもなかったという。

「歌人たらんとする欲求が強ければ旅は重要な手段となるが、それだけでない目的で旅に出たこともある。勧進である。『世を捨つるとも世に捨てられずば、遁れたるにあらず』と言い放ったのは明遍(みょうへん)であるが、ここには西行への皮肉がこめられている」(同)――。明遍は西行より24歳若く「往生論五念門略作法」を著した法師。面白いのは平治の乱で義朝が殺した時の権力者<藤原信西>の遺児ということ。げに因果は巡る。
(平成19年4月3日)

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「西行ほど桜の歌を数多く、しかも生涯、歌い続けた歌人はいない。吉野の桜だけでも、六十余首を数えるが、古典和歌をざっと調べてみても、実際に吉野の山に踏み入り、そこに咲く桜を目のあたりにして詠んだ歌人は、西行以外にはほとんど無かったといってよいのではないか」(河野裕子<西行と桜花>・小松和彦ほか「西行と兼好」ウエッジ・53頁)。

この連載を「花に狂ふ西行」と名づけた。それは西行が生涯、桜を歌い続けたからだ。しかも西行の桜の歌が他の歌人と決定的に違うのは<歌枕>として想像された<架空>の地の吉野ではなく、実際に吉野に足を運び、桜を自分の目で見、触り、香を嗅ぎ、風にそよぐ桜の音を聞いて、歌を作っていることだという。

聞きもせず たばしね山の さくら花 吉野のほかに かかるべしとは(西行)

「あの名高い吉野以外で、これほど素晴らしい桜を目にするとは、束稲(たばしね)山が桜の名所などとは聞いたこともございませんでした」(志立正知秋田大教授)。

火山が3月27日、東京・隅田公園の観桜散策から戻ったら、中学同期の句会の仲間<風鈴>さんから、大きな封筒の郵便が来ていた。開けたら「感じる旅、考える旅『トランヴェール』3月号<特集>平泉の桜とみちのくの西行を旅する」という雑誌が出てきた。西行のことがいろいろ分った。西行は26歳の時、陸奥の旅をしていることも分った。

行く春や 西行法師の 夢を見る(火山)

これは火山の近作。それを知っていて<風鈴>さんが送ってくれた。「句会の前に、この雑誌を読んでいたら、火山の句を評価できたのに…」という趣旨だ。有難い。実は火山のこの自信作、仲間では誰も選句してくれなかった。

だが<よい句ですね>―――と評価してくれた方が現われた。なんと<吉野の宮司>という方。インターネットで火山の記事を読んでくれたのだ。世の中、実に面白い。
「行く春やの句は最高にいいですよね。桜の下で酒を飲み明かし、満月に照らされ、起こしたけれど起きなかった人生こそ・・・俳人の廃人たる真骨頂です。『咲けなくて何の己が桜かな』『酒無くて何の己が火山かな』」―――。こんな痛快なコメントまで付いていた。

<陸奥の歌枕に憧れた若き歌人・西行>―――。「西行が陸奥へ初めて旅をしたのは、康治2年(1143年)の26歳のときではないかと推察されている。その旅の目的は、100年以上も前の歌人で陸奥の歌枕を旅した能因法師の足跡を慕い、その地を実地に訪ねることにあった。陸奥の歌枕に憧れたのは、西行や能因ばかりではない。王朝の歌人にとって、陸奥は歌枕の宝庫として限りない憧憬の対象にされていたのである」(「トランヴェール」8頁)。

西行の先祖は藤原秀郷。平泉に<中尊寺>など黄金文明を開化させた藤原秀衡も西行の遠縁に当たる。前記の桜の<束稲山>は平泉の高館(義経終焉の地)から望むことができる。
「『吾妻鏡』の文治5年(1189年)9月27日条は、束稲山の桜の規模について『三十余里の際(あいだ)の桜樹を並べ植う』と記している」(「トランヴェール」7頁)―――。西行が眺めた<束稲山の桜>は西行の歌のとおり素晴らしいものだったのだ。

前回の「<遁世>は<この世>と<あの世>の境界にある<もう一つの世>」で触れた<出家遁世>―――。西行もまた23歳の若さで妻子を捨て<遁世>を選んだ。
「世捨てはブームのようなもの。できるのは貴族や武士階級に属する人たちだ。民衆とは縁がない。世に捨てられたような彼らの立場からすれば贅沢な行為」(「西行と兼好」35頁)。

鳥羽上皇の院を守る「北面の武士」だった佐藤義清(西行)が保延6年(1140年)23歳の時に出家していることは内大臣の藤原頼長の日記「台記」に書かれている。「康治元年(1142年)3月15日に法華経の勧進のため西行が当時23歳だった頼長を訪問、頼長は法華経28品の一つ<不軽品>(ふぎょうぼん)を自筆で書写することを承諾」したという記事だ。

これを読んだ火山。思わず唸った。西行の凄さを考えた。頼長は時の摂政関白太政大臣・藤原忠実(ただざね)の次男。史上最年少の17歳で内大臣になった頼長は「日本一の大学者、和漢の才に富み」と謳われた。その頼長に取り入り、勧進をさせ、日記にまで自分を記録させた。並みの<才覚>ではない。しかもこの時、西行は25歳、まだ出家して2年。

因縁は恐ろしい。この頼長は後に保元・平治の乱を引き起こす。しかも平治の乱では後に鎌倉に武家政権を開く頼朝の父・源義朝が敗死する。義経が平家を滅亡させながら、後に<平泉の高館>で自刃するのも無関係ではない。―――だが西行の出家に話を戻す。
「西行の出家遁世もブームにあやかった向きもある。限りなく隠遁したとは言えきれず、かといって法衣をまとって旅に終始した」(「西行と兼好」35頁)のでもなかったという。

「歌人たらんとする欲求が強ければ旅は重要な手段となるが、それだけでない目的で旅に出たこともある。勧進である。『世を捨つるとも世に捨てられずば、遁れたるにあらず』と言い放ったのは明遍(みょうへん)であるが、ここには西行への皮肉がこめられている」(同)―――。明遍は西行より24歳若く「往生論五念門略作法」を著した法師。面白いのは平治の乱で義朝が殺した時の権力者<藤原信西>の遺児ということ。げに因果は巡る。
(平成19年4月3日)

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世をいとふ 名をだにもさは とどめおきて 数ならぬ身の 思ひ出にせむ(西行)

西行が<出家遁世>したのは23歳。こんな歌が残っている。出家後の20代のもの。「あの人は世を厭い浮き世(憂き世)を捨てた人だったと、名前だけでもこの世にとどめておきたい。数のうちに入らない我が身だとしても、時には思い出してもらいたい」―――。

「世を捨つるとも、世に捨てられずば、遁れたるにあらず」と言い放ったのは明遍上人(1142〜1224)。西行より24歳若いが、この言葉は西行を皮肉ったものという。
明遍は平治元年(1159)に起こった『平治の乱』で源義朝に殺された少納言藤原通憲(入道信西)の子。信西は後白河上皇の近臣。平清盛と親密となり、権力をのばしたが、義朝に疎まれ、殺されてしまう。明遍は父・信西の死後、東大寺で出家、高野山にとどまり、蓮華谷聖(ひじり)の祖と呼ばれた。

明遍の父信西が親密だった後白河上皇は、西行が佐藤義清の俗名で仕えた鳥羽天皇の第4皇子。西行は69歳の文治2年(1186年)に信西を滅ぼした義朝の子頼朝と鎌倉で一夜語り明かす。西行は奥州の藤原秀衡へ東大寺の大仏再建の勧進に行く途中だった。<俗世>との関係を絶てなかった西行。世間は狭いというか、因果は不思議に絡んでいる。

「書くということは遺す意思があるから。西行は後世に語り継がれることを和歌に関しては常に意識していた。他者の目を意識したことで表現意欲も生まれ、秀作も世に遺った。それは西行という名が遺る」(小松和彦「西行と兼好」36頁)ことでもあった。

「西行とは何者か」(同)に書いた松永伍一は続ける。「世に捨てられるどころか、世の人に拾われたいと願っているようだ。始終西行にはこの意識が付きまとっていたようだ。それは仏道修行にのみ打ち込めなくなった西行の数寄(すき)者ぶるからもたらされたもので、さらに歌人として名を知られるに連れて強まった意識に違いない」(同)。

そんな西行にとって仏道修行より草庵暮らしや旅が重要だった。最初の草庵暮らしは京都<洛外>。「人恋しさも抜け切っていない」(37頁)。31歳になってようやく心が安定、高野山に移り住み30年を過ごす。吉野山にしばしば足を運んで<花狂い>の快楽にひたる。
「西行ほど桜の歌が多く、しかも生涯、歌い続けた歌人はいない。吉野の桜だけでも六十余首を数えるが、古典和歌をざっと調べてもみて、実際に吉野の山に踏み入り、そこに咲く、桜を目のあたりにして詠んだ歌人は西行以外には無かった」(「西行と兼好」54頁)。

<花>というと<桜>を連想する。火山もそうだ。だから<花の散る 友を偲びて 千の歌>と詠んだ。しかし、それは平安時代以降のこと。奈良時代の「万葉集」では最も数多く歌われた花は<萩>の花、珍しがられ、珍重されたのは<梅の花>であった。
西行が<桜>を連想させるのは西行の存在の大きさであり、<草庵>と<旅>の生涯を送り、<歌名>を遺そうとした西行の<企画力>と<演技力>の成果かもしれない。

歌人なら誰でも「歌を後世に遺したい」と願う。だが西行の執着は人一倍激しかった。「遺るというのではなく、遺るように策を弄した向きすらあった」(47頁)というから凄い。
西行の時代、藤原俊成という当代一級の歌人がいた。『千載和歌集』の選者だ。この第7番目の勅撰和歌集の撰が進められていることを知った西行は事前運動を始めた。自作の<歌集>を俊成に送りつけた。それも伊勢神宮に奉納するから<判>をしてほしい。よい歌を選んでほしいという口実。これでは断れない。そこを狙ったという。

効果は抜群!『千載和歌集』に18首も選ばれた。半ば強制的に読んでもらった成果。西行は俊成の息子の定家にも同じ手を使った。これが『新古今和歌集』に94首も採用され、<入撰歌数第一位>の栄光を獲得した背景という。凄い。

「西行は人脈を自分に都合よく活用した人物であった。出家遁世したと言っても俗にある著名人と接近した」(43頁)。その最大のものは69歳の時の勧進。東大寺の再建が目的。
みちのくの大富豪である藤原秀衡から応分の寄金を集め、ついでに鎌倉将軍の頼朝にも面談してほしいというもの。西行は老齢なのに承諾する。成算があったのだ。

「秀衡と頼朝とに対する場合、対応の方法を変えねばならない。これは脚本のないドラマ。政治家と対面すれば政治家の心理を読み、武士と向き合えば歌詠みの聖(ひじり)となって肩すかしのテクニックを身に付けていた。そういう人格を道心者らしくないと非難する向きもあったが、自尊心の強い彼は世評など意に介さなかった」(45頁)。

みちのくへ行く途中、鎌倉に立ち寄った。自分から将軍を訪ねるという卑屈さは避けた。
「吾妻鏡」によれば鶴岡八幡宮の鳥居のそばをうろついていた老僧を頼朝が発見、家来に名を問わせたところ西行と判明、驚いた頼朝が自邸に招く。「会いたい」と言った方が負けだ。頼朝は弓馬のことや歌道について質問したが、西行の答えは素っ気なかった。

西行は鎌倉幕府の平泉対策を探るのが目的。和歌のことはどうでもよかった。遠い親戚の秀衡に鎌倉の情報を漏らす。手土産がほしかったのだ。それで勧進が成功すれば一石二鳥。
<願はくば 花の下にて 春死なむ あの如月の 望月の頃>―――。歌で願ったとおり西行は死ぬ。人々は驚愕した。見事な企画力と演出力と言ったら、西行に失礼だろうか。
(平成19年4月17日)

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「中世における出家遁世者が数多(あまた)いる中で西行ほど際立って光を浴びてきた人はない。なぜそのように世に遇されてきたのか」―――。「西行と兼好」(ウエッジ)の中で<西行とは何者か>を分担した松永伍一(評論家・詩人)は問う。

<遁世>とは<世を捨てる>こと。貴族や武士だけでない。中世の世捨て人はあらゆる階層に及んでいた。人々は世捨て人を様々な呼称で呼んできた。<世>の制度や価値観の外にいるという意味ではアウトサイダー。<無法者>とか<あぶれ者>と呼ぶ場合もある。
「農民が集団でムラを捨ててどこかへ逃げ出す<逃散>も<世捨て>の一種であった。政治的な敗者が山に隠棲する場合も<世捨て>。仏教修行に専心する生き方を選ぶこともまた<世捨て>であった」(「西行と兼好」8頁)。

西行の<遁世>はそれらのどれでもない。<聖>(ひじり)と呼ばれた人々に近い。<聖>は国家統制のもとにある仏教からさらにその外側に<はみ出す>生き方=修行をした。
仏教では通常の生き方をする人々の世を<俗世>とか<穢土>とみなし軽蔑・嫌悪する。
一方、死後の世界を<浄土>とみなし、そこに<往生>することに憧れた。さらに死を迎える以前から<世>を遠ざかった暮らしを願う者もいた。それが<遁世>だ。

『世を捨つるとも世に捨てられずば、遁れたるにあらず』と言い放ったのは明遍(みょうへん)であるが、ここには西行への皮肉がこめられている」(同・35頁)―――。
これは「往生論五念門略作法」を著した<明遍>の言葉。明遍は西行より24歳若い法師。

身をすつる 人はまことに すつるかは すてぬ人こそ すつるなりけれ(西行)

明遍を意識したはずはない。だが両者を比べると最高に笑える。火山の<大発見>だ。
<西行とは何者か>で松永伍一は西行の<二重人格性>を指摘する。23歳で妻子を捨てた西行は<俗世>のソロバンもキチンと計算していた。自分の草庵暮らし、旅、妻子の生活、それら「経済問題を無視して大胆な行動に出るほど無謀な男ではなかった」(33頁)という。

ただ「準備万端整えて、妻子の安全を保証した上で出家遁世したという情報が流れたら<歌人西行>の和歌に託したものの中身が即座に見破られることになったろう」(34頁)。
<遁世>というポーズが<歌人西行>には必要だった。そこから西行の<美化>が始まる。「企画力と演技力は死の場面にまで続けざまに発揮された」(34頁)―――。

願はくば 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃(西行)

西行の死は建久元年(1190年)旧暦2月16日。望みどおりの満月の夜、今を盛りと咲く桜のもとで、西行は73歳の生涯を閉じた。予告どおりの西行の死は歌人たちを驚愕させた。

西行の俗名は<佐藤義清>(のりきよ)。武門の家に生まれ、藤原秀郷の流れを引く。あの平将門を滅亡させた家系だ。彼は上皇の御所を警護する<北面の武士>に選ばれた。武芸に秀れ、美貌をそなえ、教養を身に付けていることが、この職を全うする条件だった。
佐藤家は名門・徳大寺家領有の荘園を預かり、収入を得る在地領主の家柄。義清(西行)の時代、徳大寺実能(さねよし)が当主。西行が<永遠の女性>と憧れた待賢門院璋子は実能の妹。義清(西行)を北面の武士に推挙してくれたのは徳大寺の可能性が高いという。

<企画力>と<演技力>―――。これがテーマだ。23歳の義清が<出家遁世>したことを記録に残してくれた名門貴族がいる。<藤原頼長>!17歳で史上最年少の内大臣となった藤原一門のホープ。「日本一の大学者、和漢の才に富み」と謳われた。
日本最初の歴史書「愚管抄」を残した歌人で天台座主の慈円。慈円は西行の歌仲間となるが、頼長は慈円の叔父。鎌倉幕府を開いた頼朝の父・源義朝が敗死する原因となった保元・平治の乱を引き起こす。その頼長が残した日記<台記>に西行の記事が出てくる。

「西行は康治元年(1142年)3月15日に法華経の勧進のため23歳の頼長を訪問。頼長は<不軽品>(ふぎょうぼん)を自筆で書写することを承諾する。西行が自分同様に若かったので、頼長は年齢を問うと西行は25歳と答え、23歳で出家したと明かした」という。
これ自体、何の不思議もないように思える。だが「西行と兼好」に次の記事が出てくる。

「西行は何より歌への執着が強かった。後世に自作が遺ることへの望みが強かった。遺るように策を弄した向きすらあった。藤原俊成(定家の父)とのかかわりについて考えるとおもしろい。俊成は『千載和歌集』の選者でまさに当代一級の歌人だった。この第七番目の勅撰和歌集の撰が進められていると知った西行の事前運動の周到ぶりは見事なもので、自作の<歌合>(うたあわせ)を俊成の許に送りつけたのである。それも伊勢神宮に奉納するから<判>をしてくれと頼んだ。そのような目的であれば断れない」(47頁)―――。

<勅撰>とは天皇の名で発行される<歌集>!滅多にないチャンス。選者になった俊成に自作を強制的に読ませた。伊勢神宮に<奉納>といえば断れない。西行はそこを狙った。
別の機会にも俊成の息子<定家>に伊勢神宮への<奉納>を口実に<判>を請うた。
「やがて後年の『新古今和歌集』に94首採られるという栄光を担う。入撰歌数第一位。人々は<歌人西行>を無条件で讃えて、今に及んでいる。(中略)彼の欲望や人間的俗性などに目もくれずに」(49頁)―――。まさに西行は<企画力>と<演技力>の人だ。
(平成19年4月4日)

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