火山の独り言

時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり

壬申の乱

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「天智・天武・額田の三角関係――。本稿のテーマ」と前回に書いた。天智と天武は同じ母を持つ兄弟。母は舒明天皇(田村皇子)の姪。しかも舒明の即位とともに皇后になった。夫(舒明天皇)の死後、皇極天皇となる。その母は大化改新で天皇となった弟の孝徳帝の死後、再び斉明天皇となる。なぜ2度までも帝位についたのか。長男の中大兄皇子(天智)に天皇となれない事情があったから。古代国家の成立期、権力者の間では「骨肉相食む悲劇」が次々と起こった。「暗殺と策謀」の時代だったのだ。

「君が目の恋しきからに泊(は)てて居てかくや恋ひむも君が目を欲(ほ)り――。
相聞の歌かと思われるうたいぶり。「この母子の間には、恋にも似た感情がながれていたのかもしれない」(小学館「人物日本の歴史」第1巻「飛鳥の悲劇」110頁)――。「天智天皇」を執筆した直木孝次郎(大阪市大教授)の一節。斉明7年(661)7月、百済旧援軍派遣の企ての征西。筑前の朝倉宮で急逝した母(斉明女帝)の遺骸に向かって詠んだ。

中大兄は大化改新の時、自ら先頭を切って入鹿に切りつけ、命を奪った。20歳だったが、母(皇極女帝)から即位の勧めを受けたものの、32歳だった鎌足の助言に従い、年長50歳の叔父・軽皇子に譲る。孝徳天皇の誕生だ。
だが政治の実権を握っていたのは中大兄。白雉4年(653)、中大兄は孝徳の意向を無視して都を難波から大和へ移してしまう。この時、母の皇極上皇、孝徳天皇の皇后間人(はしひと)皇女、弟の大海人(後の天武)も行を共にする。公卿百官も中大兄に従った。

なぜ、皇后間人までもが夫(孝徳)を見捨て、中大兄に従ったのか。間人皇女はこの時、25歳。夫の孝徳は58歳、もともと年齢的にも不釣合いな政略結婚。その上、中大兄と間人は同母の兄妹という間柄を超えた恋によって結ばれていた。この結婚は当時でもタブー。この秘めた関係が、中大兄の即位を阻んでいた。直木孝次郎(大阪市大教授)は事実と認め、「中大兄は帝位を捨てて、間人皇女との愛を貫いた」と書く。

中大兄は母の死後も即位せず、皇太子のまま政務を執った。朝鮮に渡った遠征の軍は、2年後、唐と新羅の連合軍と、百済の白村江(はくすきのえ)で戦って大敗。百済は滅亡、天智称制2年(663)の古代日本は空前の危機に直面する。

そもそも中大兄の父(舒明天皇)は敏達天皇の孫。押坂彦人大兄皇子の子で田村皇子と呼ばれていた。即位前のライバルは用明天皇の孫、聖徳太子の子の山背大兄王だ。聖徳太子の子!手強い相手。だがこの山背大兄王を法隆寺で暗殺したのが蘇我の入鹿。入鹿は祖父・馬子の娘(法堤郎媛)が舒明天皇(田村皇子)との間にもうけた古人大兄皇子のために決起した。古人大兄の「皇太子」の座を確保するためだ。「骨肉相食む<暗殺と策謀>」――。だがこの入鹿を暗殺したのが中大兄。因果は巡る。

「骨肉相食む<暗殺と策謀>」はまだ続く。難波の長柄豊碕宮で孝徳天皇が孤独の死を遂げてから、僅か2年後、孝徳の遺児・有間皇子の謀反が発覚。中大兄は有間皇子を紀の温湯(和歌山県田辺市)に呼び寄せ訊問、容赦なく絞首する。最大のライバルを葬った。

磐代の浜松が枝を引きむすび真幸くあらばまた還り見む(有間皇子)

中大兄の前に引き出され、運命が決まる前日、19歳の皇子が一縷の望みを託して詠んだ歌。死後、多くの人々の同情と涙を誘った。中大兄の「骨肉相食む」はまだある。蘇我入鹿が聖徳太子の子・山背大兄王を暗殺してまで、入鹿が天皇にしたかった古人大兄皇子の謀殺。
大化元年(645)、謀反の企てがあるとの密告を受けた中大兄。吉野に兵を進め、古人大兄を殺し、後顧の憂いを断つ。血で血を洗う権力者一族の悲劇だ。

これらすべてが中大兄と母(皇極・斉明)の時代に集中している。中大兄と5歳違いの大海人(天武)。それらを眼前にし、耳にしていたはず。大海人は、それらをどのような気持で眺め、考えていたか。そして額田姫王も、朝廷の<後宮>にあって知っていたはず。

「この容易ならぬ半世紀の歴史の主役は、いうまでもなく天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)である。それぞれの時代的役割をになって生を受けた眉秀でた天子たちである。この日本の青春期を形成するには、このふたりの聡明な天子が必要であったのである。この時代のドラマは、ふたりの天子の、そのいずれをも主人公にして展開していく」(「飛鳥の悲劇」126頁)――。筆者は井上靖。「天武天皇」を描くのが役割。

「額田王は、『書紀』には<額田姫王>とも書かれている。大化前代のどの天皇かの血をひく末裔、王族系である。これは、その名から疑う余地のない確実な出自と断定できる」(北山茂夫「万葉集とその世紀」新潮社・上・105頁)――。北山茂夫は「大化の改新」「壬申の内乱」「奈良朝の政治と民衆」などの著書を持つ古代政治学者。青春時代から「万葉集」を愛読、研究を続けてきた。

「『書紀』によれば、額田王は、大海人とのあいだに十市皇女を生んでいる。それは、大化後のどの年代かはしかとはわからぬが、大海人の愛を享けた年月があった。しかし、その後、額田王は、中大兄の寵をうけるようになった。事実は、兄が弟の愛人を奪った」(北山・105頁)――。天智・天武・額田の三角関係!十市は天智の子・大友皇子の后だ。天武は兄の遺児大友(娘婿)を壬申の乱で殺す。天武の妻は天智の娘讃良皇女(持統天皇)なのだ。
(平成21年1月28日)

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<古代史>最大の政変<入鹿>暗殺は西暦645年6月12日に起った。<天皇>中心の<律令>体制、中央集権国家への政治改革<大化改新>が始まった。この日、宮中では朝鮮3国からの親善使節を迎える儀式が行われることになっていた。入鹿は儀式に参列するため御前に控えていた。その時、柱の陰に隠れていた中大兄皇子と鎌足の刺客が襲った。頭と肩を切られた入鹿。瀕死の中で叫んだ。「臣、罪を知らず」(私に何の罪があるのでしょう)。

「日本の古代史はふかぶかと霧に包まれている。わからないといえばなにもわからない」(「人物日本の歴史」小学館・第1巻「飛鳥の悲劇」123頁)――。井上靖の筆になる「天武天皇」の書き出し。「そうした霧の中から、かなりはっきりした映像をもって現われてくるのは、斉明・天智・天武・持統といった天皇たちである。それぞれ『万葉集』に何首かの歌も載せられてあり、その情操生活の一端も伺うことができ、どのような性格の人物であったかも、曲がりなりにも知ることができる」と続く。

「あかねさす…」(万葉集)で有名な天智・天武・額田の三角関係――。本稿のテーマだ。「権力者の間で骨肉相食む悲劇が次々と起こっている。暗殺と策謀の時代」(井上・124頁)。「眉秀でたふたりの天子」が登場する。天智(中大兄)と天武(大海人)の同母兄弟だ。大陸(隋・唐)の脅威、朝鮮半島の激変の中で、2人のドラマは展開していく。

「天武の生年ははっきりしていない。いちおう、大化の政変の時の天智を20歳、天武の年令をそれより5歳若い」説を、井上靖は採用、半世紀の歴史の主役2人を描く。
入鹿が暗殺された「大化の政変」は645年(大化1)。中大兄は先頭に立って切り込んだ。鎌足も弓矢を持ち、身を潜めていた。皇極女帝とともに古人大兄皇子も参列していたが、古人は危険を感じ、逃げる。帝位継承の勝敗が決し、軽皇子が50歳で即位(孝徳天皇)。皇極女帝は52歳、中大兄、大海人の母親であり、孝徳は50歳。女帝の弟だった。

当時15歳の大海人は事件に関わっていなかったと井上靖は見る。「孝徳天皇は、両皇子の母・皇極上皇の同母弟で、両皇子の叔父。中大兄皇子・藤原鎌足らに推され、即位したが、実権は中大兄の手中にあって、在位中何一つ自分の思うようにすることはできなかった。中大兄の妹で大海人の姉にあたる間人(はしひと)が皇后に立っていたが、この皇后さえ、晩年は孝徳天皇から離れていた」(井上・128頁)。

若い大海人の目に、失意の中、寂しく生涯を終えた孝徳天皇の死は、どのように映っただろうか。天皇の死から5年、その子有間皇子の悲劇が起こる。将来の禍根を断つための中大兄の過酷な政治的布石だった。――「大海人皇子がいかなる批判をもっていたか、あるいは自らそうした事件への参画者であったか、そのことはわからない」(井上・129頁)。

中大兄と孝徳の決裂は白雉4年に起こった。大化の政変から8年。天皇の意向を無視、都を移す。中大兄は母の皇極上皇、孝徳の皇后・間人皇女、弟の大海人らを引き連れ、大和帰ってしまった。公卿百官も中大兄に従った。孝徳天皇は独り、難波宮に取り残される。

「なぜ、間人皇后は夫を捨て、中大兄皇子と行をともにしたのであろうか。中大兄と間人とは、皇極上皇を母とする兄妹。まさかとは思うが、中大兄と間人とは、兄妹の間をこえた深い愛情で結ばれていたとする説があり、私は、その説は妥当と考える」(「人物日本の歴史」小学館・第1巻「飛鳥の悲劇」104頁――直木孝次郎「天智天皇」)。

もともと58歳の孝徳と25歳の間人は年齢的に不釣合い。間人皇女は老境の王より改革の理想に燃え、苦闘する中大兄28歳の方に惹かれた――。「政略結婚の犠牲になって青春を失った妹をいとおしむのは、自然の情であろう。中大兄も同母兄妹の結婚が重大なタブーであり、破れば幾多の困難が生ずることは知っていた。それでも彼は間人皇女との愛を貫いたのである」(直木・104頁)。孝徳は孤独のうちに白雉5年(654年)、世を去る。

「天智天皇といえば沈着冷静にして遠謀熟慮、鉄の意志と氷の知略を兼ね備えた天性の政治家というイメージがある。ひとたび計画すれば、情を殺し策をもうけ、恩を売り不意をつき、すべての障害を排して事を成功に導く冷酷非情の策略家といわれている」(105頁)。
――だが「それが彼のすべてではない。間人皇女との関係にみるように、情にもろい半面もあるのである」(同)と直木孝次郎は続ける。一方の大海人(天武)はどうだろうか。

孝徳天皇の死。皇極は斉明天皇となり再び帝位につく。中大兄は<皇太子>として実権を握っていた。だが即位できたのは天智7年(667年)。既に43歳。大海人はこの時、初めて東宮(皇太子)となり、政治の舞台に姿を現す。大化改新から22年経過。「兄皇子の陰に隠れた長い協力。非常に忍耐強い性格だったことは間違いない」(井上・130頁)。

「中大兄皇子と藤原鎌足の緊密な連携を、大海人皇子は背後から支えていた。朝鮮半島への出兵、敗戦、戦後の収拾、近江遷都と、大海人の仕事はたくさんあった。大海人が壬申の乱でみせた卓抜な時代洞察者、俊敏な行動家、すぐれた統率者としての才能と手腕が、苦難な時代の数々の問題処理に発揮されないことがあろうか」(井上・129頁)――。

中大兄が天智天皇となった668年5月5日、近江朝廷は琵琶湖湖畔の蒲生野で遊猟を開く。
女官たちも加わったハイキングのような行楽。「万葉集」にはこの時、作られた大海人皇子と美女・額田女王の歌が載っている。天智・天武・額田のロマンス(三角関係)だ。
(平成21年1月27日)

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