火山の独り言

時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり

クラシック音楽

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「偉大な作曲家モーツアルトの後には大勢の音楽家が続く。ベートーヴェンも偉大だった。でもモーツアルトの影響下にあったことは間違いない。人格は違うが、モーツアルトの流れを汲み、後を辿っている。ブラームス、シューマン、ブルックナー…。彼らの音楽の中にもモーツアルトが生きている。個々にくらべてみてもナンセンス。ドイツ、オーストリア音楽の頂点に輝いているのはモーツアルトなのだ。誰がなんと言おうと間違いない」――。本日のゲストは作詞家なかにし礼。本日の一曲は「ピアノ協奏曲」第20番ニ短調(K466)。

1787年4月7日、一人の音楽家がウィーンにやってきた。16歳になったベートーヴェン。モーツアルトを尊敬してやまないベートーヴェンは当時、既にヨーロッパ中に名声を馳せていたモーツアルトを訪ねたと伝えられている。テレビに「モーツアルトの前でピアノを弾くベートーヴェン」の絵が映された。後に二人の会見の模様を想像して描かれたものという。

1770年12月6日、ボンに生まれたベートーヴェンはこの時16歳。3歳で父から音楽の手ほどきを受け、7歳で公開演奏会をボンで行った。13歳でボンの宮廷の第2オルガン奏者になる。

「『彼を見守りたまえ。今に彼は世の話題になるだろうから』とモーツアルトが語ったというエピソードで有名なのが、このウィーン旅行であった。モーツアルトから与えられた主題によってベートーヴェンが即興演奏した時の様子を伝えたものだが、残念ながらこの言葉の真偽のほどは明らかではない」(平野昭「ベートーヴェン」新潮文庫・23頁)――。

1787年4月、ベートーヴェンが訪れたと伝えられる頃、モーツアルトは大事な親友二人の死に遭遇、ザルツブルグにいる父は重病の床にあった。そんな不安の中で作曲されたのが「ピアノ協奏曲」第20番ニ短調。

ベートーヴェンは1792年11月、ウィーンに移住する。残念ながらモーツアルトはその前年の1791年12月5日に世を去っていた。テレビにウィーンのブルグ劇場が映った。1795年3月、25歳のベートーヴェンはブルグ劇場で開かれた<慈善演奏会>で鮮烈なデビューを果たした。その中で尊敬するモーツアルトの「ピアノ協奏曲」第20番ニ短調も披露されたという。ベートーヴェンもまたピアノの名手だったのだ。

ベートーヴェンは後に、この「第20番」第三楽章のカデンツァを、モーツアルトの旋律を元に展開、書き残している。「カデンツァにはベートーヴェンらしい構想力がうかがえる」とBSのナレーション。カデンツァは当時、ソリストが即興で演奏するものだったというが、ベートーヴェンは<第20番>が非常に気に入っていたのだ。

ベートーヴェンは終生、モーツアルトを愛し、音楽活動に多大な影響を受けた。「自分はいつもモーツアルトを心から愛し、尊敬している。この思いは最後の息を引き取るまで変わることはないだろう」――。1826年2月6日、ベートーヴェンが友人に宛てた手紙の一節。時にベートーヴェン56歳。その翌年の3月26日、ベートーヴェンも世を去る。

テレビにウィーン郊外の「ベートーヴェンの散歩道」が映った。静寂な小川のほとり。火山も昨年の8月、ここを散歩した。ベートーヴェン記念館の映像も懐かしい。ベートーヴェン愛用のピアノも紹介された。

本日の「ピアノ協奏曲」第20番ニ短調。実は火山にも格別の思いがある。<モーツアルト生誕250年>の今年2月10日、東京文化会館(上野)で開かれた「東京音楽コンクール<優勝者>コンサート」。<特別賞>を受賞した中学2年の天才少年ピアニストが演奏したのが、この曲だった。

クラシック歴<半世紀>を超える火山。それまで関心の薄かったモーツアルトを突然好きになった。この協奏曲から<ベートーヴェンの音>が聴こえたからだ。狂喜した。だが事情が分かって再び<狂喜>――。なんとベートーヴェンがカデンツァを書いていた。少年ピアニストは、それを熱演したのだった。げっ!
(平成18年9月26日)

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「毎日モーツアルト」(NHK・BS)を楽しみに観ている。3月24日(金)は<第40回「ヴァイオリンソナタ」ハ長調K.296>――。モーツアルトの語り手として登場したのは赤川次郎(作家)。初めてもらったサラリーで買ったのがステレオ。真っ先に聴いたのがモーツアルトの「交響曲第40番ト短調」という。<40番ト短調>――。火山も大好きな曲。「単純、それでいて無限に綺麗なメロディ…」と語っていた。

「ヴァイオリンソナタ」ハ長調(K296)は1778年、モーツアルト22歳の時の作品だ。この頃、モーツアルトはマンハイムにいた。故郷のザルツブルグでは大司教のヒエロニュムス・コロレドに仕える宮廷音楽家だったのだが、ただの使用人扱い。幼い頃から<神童>と持て囃され、ウィーン、パリ、ロンドンなどを旅行、オペラや刺激に満ちた素晴らしい音楽の接していたモーツアルトには我慢できない田舎町だった。オペラ劇場も無い。やがて大司教と衝突、ザルツブルグから飛び出す。

1777年9月、母アンナと共に職を求めて、ミュンヘン、父レオポルドの生まれ故郷アウグスブルグ、最後に来たのがマンハイムだった。マンハイムには当時ドイツ最高のオーケストラがあり、オペラも盛んだった。芸術や音楽に熱心な選帝侯マクシミリアン3世もいた。マンハイムの宮廷こそ最も望ましい就職先。
ザルツブルグを離れられない父レオポルドからも期待されていた。

「礼儀作法、挙動によく気をつけて、なるべく多くの人たちと親しくなるようにしなさい」という父の忠告に従って音楽家たちとの交際を広げていた。1ヶ月ほど経って就職の見込みがないことがハッキリした。だがモーツアルトはマンハイムを離れない。マンハイムの宮廷のバス歌手、そして写譜係で生計を立てていたフランツ・フリードリッヒ・ウェーバーの次女アロイジアに首ったけだったのだ。

アロイジアは16歳、ソプラノ歌手で綺麗な澄んだ声の持主。歌は素晴らしいし、ピアノもうまい。レッスンや共演を重ねるうちに夢中になってしまったのだ。だが父は怒った。「お前は誰でも他人をすぐ信用してしまう。お世辞や耳障りのいい言葉を聞くと、お人よしを丸出しにする。お前が人々にすぐ忘れられてしまう平凡な音楽家になるか、後世までも本で読まれる有名な楽長になるかは、お前の分別と生き方にかかっている。パリに行くのだ。それもすぐに!!」――。

厳しい叱責の手紙にモーツアルトはついにパリ行きを決意せざるをえない。別れの日が来た。1778年3月24日。なんと228年前の昨日だ。パリ行きに先立って宮廷楽団首席奏者カンナビヒの家で「送別コンサート」が開かれた。カンナビヒの家には3台のクラヴィーア(ピアノの前身)があった。

1台目を弾いたのは宮廷歌人のテレーゼ。妖精という渾名の娘。2台目はカンナビヒ家の長女ローザ。モーツアルトは彼女のために「ピアノソナタ」ハ長調(K309)を書いている。3台目が恋するアロイジアだった。モーツアルトは彼女のためにソプラノのアリア「私は知らない。この愛情がどこから来るのか」を作曲した。この歌もこの日歌われたという。

翌日、モーツアルトの乗った馬車が並木道の角を曲がり、見えなくなるまで人々は見送った。モーツアルトのためにアロイジアは「手編みのレースの袖飾り」をプレゼントしてくれた。モーツアルトの心情は察するに余りある。幼い頃から尊敬する父。モーツアルトの天才を見抜き、神童としてデビューさせ、音楽家に育ててくれた大恩人。父の命令は絶対だった。

せっかくのパリだったが、モーツアルトには仕事がなかった。しかも7月3日、最愛の母マリアが亡くなる。旅と異郷の暮らしの疲れだったという。父の矢の催促にモーツアルトは3ヶ月がかりで郷里ザルツブルグへ向かう。途中でミュンヘンに寄った。そこにはあのアロイジアがいた。失意のモーツアルトは思い切って結婚の申し込みをする。だが彼女は冷たくはねつけたという。

人気プリマドンナに成長していたアロイジア。定職も無い貧乏作曲家など論外だったのだ。このアロイジア・ウェーバー嬢というのはあの有名な作曲家カール・マリア・フォン・ウエーバーの従姉妹というから世間は狭い。もう一つ世間が狭い話。実は後年、モーツアルトが結婚したコンスタンツェというのはアロイジアの妹。姉と違って美人ではなかったらしい。可哀想なモーツアルトだ。

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「モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルトの都に、音楽の英雄が生まれた。ヨハン・シュトラウスである。ウィーンは音楽の都と言われるが、19世紀後半にウィーンの人々あるいはハプスブルグ帝国の人々に一番愛された音楽は、ヨハン・シュトラウスのワルツであった」(倉田稔「ハプスブルグ・オーストリア・ウィーン」成文社・32頁)――。

十数年前、50代前半の火山、初めての海外旅行でウィーンを見た。憧れの都。家内を口説いて真っ先に駆けつけたのが「美しく青きドナウ」。地図を手に、確か地下鉄に乗った。ウィーンが大好きになった。家内も同じ。結局、その後もあわせ、ウィーンは3回旅した。なぜ、ウィーンは素晴らしいのか。恥ずかしいが、その理由を知らなかった。だが数年前、女子美のキャンパスにある本屋で、10%引きの得点に浮かれ、酒の酔いに身を任せて、ウッカリ買った本で、ウィーンの歴史を知り、仰天した。

倉田稔「ハプスブルグ歴史物語」(NHKブックス)――。「ハプスブルグ帝国は、始祖ルドルフ一世から最後のカール一世まで、六百数十年続いたヨーロッパ最大の帝国であり、一時は世界帝国であった。近代では中欧の大帝国であり、ハプスブルグの家長は神聖ローマ帝国の皇帝であった。だから、ヨーロッパで最も由緒のある王朝であった」(3頁)。著者の倉田稔。火山のゼミ後輩。マルクス経済学教授が、なぜハプスブルグ王朝か――。ビックリ!だが彼、ヒルファーディング「金融資本論」研究がウィーン留学の動機だった。

火山が「クラシック大好き、ウィーン大好き」と知って、小樽から贈ってくれたのが、標記「ハプスブルグ・オーストリア・ウィーン」。「ワルツの調べに乗ってウィーン人は踊り続けた。このダンスは、オーストリア史始まって以来初めて、公衆の前で異性に触れるものだった。ワルツはウィーン生活の歓喜の象徴であった。またダンスに対するウィーン人の情熱は病的なほどであった。ワルツとダンスにうつつを抜かしたのは、一方で、過酷な日常生活の現実から逃れる必要があったからでもある」(32頁)――。

ヨハン・シュトラウスは二人いる。父(1804〜1849)と息子の二世(1825~1899)。「美しく青きドナウ」は二世の作品。ウィーンの人々は「美しく青きドナウ」をこよなく愛した。

ドナウの静かな流れを思わせる序奏は、挨拶(グリュース・コット)代わりに使われた。
だが「美しく青き…」は1867年、オーストリア=ハンガリー軍がサドヴァでプロイセン軍に敗れた直後の作品。ハプスブルグ王朝はドイツ諸国への覇権を失い、二流国へ没落する。
日本は明治維新。「鳥羽伏見の戦い」の頃という。歴史の偶然は面白い。1848年はウィーン革命。若き二世は革命曲を書き、バンドを率い、一時宮廷に嫌われた。これも笑える。
(平成22年6月6日)

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「ピアノの歴史」は<みなとみらいホール>主催のレクチャー・コンサートのタイトルだ。モーツアルト<生誕250年>の昨年、BSで「毎日モーツアルト」を見て感激。このブログに「毎日モーツアルト」195編を書き残した火山だが、6月から「ピアノの歴史」を学び始めて、さらにモーツアルトとベートーヴェンのピアノ曲が好きになった。

モーツアルトの時代、<クラヴィーア>といえばチェンバロのこと。だがベートーヴェンの時代になると<ハンマークラヴィーア>が登場する。チェンバロは弦を引っ掻いて音を出すが、ハンマークラヴィーアはハンマーで弦を叩いて音を出す。<フォルテピアノ>と呼ばれるピアノの前身。これが産業革命の技術革新を経て現代の<ピアノ>になる。

モーツアルトもベートーヴェンもウィーンで<ピアニスト>として楽壇にデビュー。あっという間に即興演奏で名だたるピアニストたちを打ち負かし、当代随一の名声を獲得する。モーツアルトはクラヴィーアが大好きだった。モーツアルトの「ピアノ協奏曲」は全部、自分が独奏者、聴衆の拍手喝采を狙って作曲されている。名ピアニストとして自分の腕を存分に発揮できるよう組み立てられている。その工夫が随所に見える。

だがモーツアルトの演奏を聴いたベートーヴェンは、後に弟子だったツェルニーに「モーツアルトの演奏は見事であったが、ポツポツと音を刻むようでレガートではなかった」(平野昭「ベートーヴェン」新潮文庫・23頁)と批判的に述べていたという。ツェルニーはあの「ピアノ教則本」で有名。リストにピアノを教え、彼自身も当代隋一の<名ピアニスト>として名声を博した。そういう意味で聞き捨てならない。

だが「ピアノの歴史」を考えると、まず楽器が違う。また楽風も違う。モーツアルト(1756〜1791)はチェンバロが基本。ベートーヴェン(1770〜1827)はピアノフォルテが基本。チェンバロは構造上、キータッチで音の強弱を表現できない。一方、ピアノフォルテは文字通りフォルテ(強音)とピアノ<弱音)を表現できる。ただベートーヴェンの時代、まだ発展途上、様々な楽器職人が改良に取り組んでいた。

ベートーヴェンは自分の使うピアノを生涯に何度か取り替えた。ボン時代のアウグスブルクのシュタイン社(1773年製)に始まり、パリのエラール(1803製)、ウィーンのシュトライヒャー(1819製)、グラーフ(1825製)まで15種類。当時のメカニズムはウィーンで支配的な<跳ね返り式>とロンドンやパリで盛んな<突き上げ式>があった。跳ね返り式はタッチが軽く、速いパッセージに素早く対応できた。一方、突き上げ式はダイナミックレンジが広く、特に低音が豊かで力強い響きを出せた。

ベートーヴェンは14歳年長のモーツアルトをどう見ていたか。近衛秀麿(指揮者)には「ベートーヴェンの人間像」(音楽之友社・昭和45年刊)という素晴らしい著書がある。「戦前から探求に憂き身をやつし、暇さえあればウィーンに足を運んで、ウィーン生まれの音楽家ヒューブナー兄弟たちを案内に立てて、主としてベートーヴェンやシューベルトの旧跡を行脚したものである」(1頁)。以下は近衛文麿の調査結果だ。

「1787年、彼は初めてウィーンに旅をしている。モーツアルトの前で即興演奏したのもこの時である。初め、頭から問題にしていなかったモーツアルトは、演奏を聴き終わるとすっかり驚いて『この若者にみな注目しなさい(Auf den geb Acht)、いまに世界中の話題をさらうような者になるに違いない』という有名な言葉を発した。それから5年後、彼は意を決してウィーンに移り住んだ。その時モーツアルトはもうこの世にいなかった。ここでベートーヴェン本来の生涯が始まる」(8頁)。

「モーツアルトこそは彼のあとを受けて音楽の世界を背負って立つ若者ベートーヴェンにとって最大の教師であった。事実ベートーヴェン自身、彼の修行の初めからモーツアルト音楽の熱烈な崇拝者であった。ボンで、親たちの膝元で育った頃、既に一家はモーツアルトのことばかり語り合っていたという。彼の中のモーツアルトに対する理解と尊敬は年とともに深まってゆき、その賞賛の度合は、ついに留まるところを知らなかった」(168頁)。

日本最初のオーケストラの指揮者といわれた近衛秀麿。モーツアルトとベートーヴェンの違いをどう見ていたのだろうか。「ベートーヴェンの人間像」(音楽之友社)にある。「モーツアルトもベートーヴェンも、それぞれの時代の最も勝れたピアニストと呼んでも誰しも異論をさしはさむ者はなかった。しかし、両者の演奏ほど対照的なものはなかった。モーツアルトのピアノの優雅さは全く古今に比類がなかった。一方のベートーヴェンは、往々にして何者をも焼き尽くさずにはおかない烈火のような峻厳さがあった」(175頁)。

モーツアルトは幼時から郷里ザルツブルグの大司教コロレドと25歳で喧嘩別れした後、ウィーン市井の自由人となったが、楽風や演奏スタイルは宮廷風。生涯、変わらなかった。一方、ベートーヴェンはモーツアルトの死と前後するフランス革命の甚大な影響を受け、「人類のかち得た自由、解放の歓喜を大衆の前で弾きまくった。力強い演奏に耐ええるためにピアノの構造上の改良が促され、ベートーヴェンの出現によってピアノの先祖であるハンマークラヴィーアの開発に、ピアノ製造業者たちを刺激する結果となった」(176頁)。

「ベートーヴェンとナネッテ・シュトライヒャー(1769〜1833)の関係はピアノの歴史における作曲家と楽器作者の協力関係で最も独特で濃密なものであった」(伊東・105頁)。
(平成19年8月23日)

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「モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルトの都に、音楽の英雄が生まれた。ヨハン・シュトラウスである。ウィーンは音楽の都と言われるが、19世紀後半にウィーンの人々あるいはハプスブルグ帝国の人々に一番愛された音楽は、ヨハン・シュトラウスのワルツであった」(倉田稔「ハプスブルグ・オーストリア・ウィーン」成文社・32頁)――。

十数年前、50代前半の火山、初めての海外旅行でウィーンを見た。憧れの都。家内を口説いて真っ先に駆けつけたのが「美しく青きドナウ」。地図を手に、確か地下鉄に乗った。ウィーンが大好きになった。家内も同じ。結局、その後もあわせ、ウィーンは3回旅した。なぜ、ウィーンは素晴らしいのか。恥ずかしいが、その理由を知らなかった。だが数年前、女子美のキャンパスにある本屋で、10%引きの得点に浮かれ、酒の酔いに身を任せて、ウッカリ買った本で、ウィーンの歴史を知り、仰天した。

倉田稔「ハプスブルグ歴史物語」(NHKブックス)――。「ハプスブルグ帝国は、始祖ルドルフ一世から最後のカール一世まで、六百数十年続いたヨーロッパ最大の帝国であり、一時は世界帝国であった。近代では中欧の大帝国であり、ハプスブルグの家長は神聖ローマ帝国の皇帝であった。だから、ヨーロッパで最も由緒のある王朝であった」(3頁)。著者の倉田稔。火山のゼミ後輩。マルクス経済学教授が、なぜハプスブルグ王朝か――。ビックリ!だが彼、ヒルファーディング「金融資本論」研究がウィーン留学の動機だった。

火山が「クラシック大好き、ウィーン大好き」と知って、小樽から贈ってくれたのが、標記「ハプスブルグ・オーストリア・ウィーン」。「ワルツの調べに乗ってウィーン人は踊り続けた。このダンスは、オーストリア史始まって以来初めて、公衆の前で異性に触れるものだった。ワルツはウィーン生活の歓喜の象徴であった。またダンスに対するウィーン人の情熱は病的なほどであった。ワルツとダンスにうつつを抜かしたのは、一方で、過酷な日常生活の現実から逃れる必要があったからでもある」(32頁)――。

ヨハン・シュトラウスは二人いる。父(1804〜1849)と息子の二世(1825~1899)。「美しく青きドナウ」は二世の作品。ウィーンの人々は「美しく青きドナウ」をこよなく愛した。

ドナウの静かな流れを思わせる序奏は、挨拶(グリュース・コット)代わりに使われた。
だが「美しく青き…」は1867年、オーストリア=ハンガリー軍がサドヴァでプロイセン軍に敗れた直後の作品。ハプスブルグ王朝はドイツ諸国への覇権を失い、二流国へ没落する。
日本は明治維新。「鳥羽伏見の戦い」の頃という。歴史の偶然は面白い。1848年はウィーン革命。若き二世は革命曲を書き、バンドを率い、一時宮廷に嫌われた。これも笑える。
(平成22年6月6日)

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