火山の独り言

時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり

歴史に学ぶ

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全64ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

「永禄6年(1563年)、明智光秀と妻・煕子の間に三女として越前国で生まれる。天正6年(1578年)、15歳の時、父の主君<織田信長>の勧めで細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いだ。珠は美女で忠興と仲のよい夫婦であり、天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆、後の長岡休無)が2人の間に生まれた。明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて『細川ガラシャ』と呼ぶようになり、現在も広くこのように呼ばれる場合が多い」と「ウィキペディア」…。火山、3月25日(金)夜、TBSテレビ「歴史列伝」を観た――。

「天正10年(1582年)6月、父の光秀が織田信長を本能寺で討って、自らも滅んだため、珠は『逆臣の娘』となる。忠興は天正12年(1584年)まで彼女を丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉する。この間の彼女を支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原マリア(公家清原枝賢の娘)らの侍女達だった。珠の幽閉先とされる場所であるが、丹後味土野の山中(現京丹後市弥栄町)に天正10年9月以降に幽閉されたことは史実である」と「ウィキペディア」は続く…。

天正6年(1578年・15歳)、父の主君<織田信長>の勧めで<細川藤孝>の嫡男・忠興に嫁ぐ…。<美女>で忠興と仲のよい夫婦となるが、これが<悲劇>の始まり…。なんとも悲運の人生だ。父<明智光秀>が主君<織田信長>を討つ…。「本能寺の変」!だが、これは天正10年(1582年)6月、珠は19歳――。「天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った<羽柴秀吉>の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻し、厳しく監視した。この年に興秋が生まれている」(ウィキペディア)…。だが、まだ21歳――。

「それまでは出家した舅・藤孝とともに<禅宗>を信仰していた珠だったが、忠興が高山右近から聞いた<カトリック>の話をすると、その教えに心を魅かれていった。もっとも忠興の前ではそ知らぬ風を装っていた。天正14年(1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣すると(九州征伐)、彼女は<彼岸>の時期である事を利用、侍女数人に囲まれて、身を隠しつつ<教会>に行った」と「ウィキペディア」――。

ところで舅<細川藤孝>は、いかなる人物か。なぜ光秀に味方せず<出家>したのか――。「初め室町幕府13代将軍<足利義輝>に仕え、その死後、15代将軍<足利義昭>擁立に尽力。後に織田信長に従い、長岡藤孝を名乗り丹後宮津11万石の大名となった。本能寺の変後、主君・信長の死に殉じて剃髪、家督を忠興に譲る」と「ウィキペディア」…。

「天文3年(1534年)4月22日、三淵晴員(和泉上守護家細川元有の子で三淵氏の養子)の次男として京都東山に生まれる。天文9年(1540年)、7歳で伯父の和泉半国守護・細川元常(三淵晴員の兄)の養子となったとされるが、異説もある…。天文15年(1546年)、将軍<足利義藤>(後の足利義輝)の偏諱を受け、<藤孝>を名乗る。天文21年(1552年)、従五位下・兵部大輔に叙任される。幕臣として将軍<義輝>に仕えたが、永禄8年(1565年)の永禄の変で、義輝が三好三人衆や松永久秀に討たれ…」(ウィキペディア)――。

「義輝の弟<一乗院覚慶>(後に還俗して<足利義昭>)も興福寺に幽閉されると、兄・三淵藤英らと協力してこれを救出、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の<朝倉義景>らを頼って<義昭>の将軍任官に奔走した。当時は貧窮で灯籠の油にさえ事欠くほど。その後<明智光秀>を通じて尾張国の<織田信長>に助力を求める…。永禄11年(1568年)9月、信長が義昭を奉じて入京、<藤孝>もこれに従った」という。相当な<苦労人>――。

「義昭と信長の<対立>が表面化すると、元亀4年(1573年)3月、軍勢を率いて上洛した信長を出迎え<恭順>の姿勢を示した…。義昭が信長に<逆心>を抱くふしがあることを密かに<藤孝>から信長に伝えられていたことが信長の手紙からわかっている。義昭が追放された後の7月に桂川の西、山城国長岡(西岡)一帯(現長岡京市、向日市付近)の知行を許され、名字を改めて<長岡藤孝>と名乗った」…。ナントも凄い<苦労人>――。

珠が教会に行った時、復活祭の説教が行われていた。珠は日本人のコスメ修道士にいろいろ質問した。コスメは後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べた。珠はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、身なりなどから高い身分と察せられたので、洗礼は見合わされた。細川邸では侍女の帰りが遅いことから珠の外出に気づき、教会へ迎えに行き、駕籠で珠を連れ帰った。

珠は洗礼を受けないまま、書物で<信仰>に励み、侍女らを教会に通わせ洗礼を受けさせた。だが秀吉が九州でバテレン追放令を出したことを知ると、イエズス会士セスペデス神父の計らいで、大阪の自邸で密かに<洗礼>を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵み)の洗礼名を受けた。だが夫・忠興には<改宗>したことを告げなかったという――。

♪〜散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ〜(ガラシャ辞世)…。

慶長5年(1600年)、天下分け目の<関ヶ原>――。「西軍の石田三成は大坂玉造のガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャは拒絶。翌日、三成が細川屋敷を兵に囲ませるとガラシャは『夫の命の通り、自分だけが死にたい』と言い、侍女らを逃がした。家老の小笠原秀清(少斎)はガラシャを介錯、遺体が残らぬよう屋敷に火を点けて自刃…。「忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノに<教会葬>を依頼、葬儀にも参列、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した」(ウィキペディア)…。時代とはいえ、哀しい!
(平成28年3月27日)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

素晴らしい講演を聞いた。「戦国武将の手紙を読み解く」…。紅葉坂を登った県立図書館。講師の岡田正人、織田信長研究では第一人者らしい。1992年(平成4年)、NHK大河ドラマ「信長」では時代考証を務めたという。火山、もちろんカブリツキ。戦国武将というから<信長>か<信玄>か…と期待していた。岡田氏、大徳寺で信長の妻<帰蝶>の墓を発見したというから相当な<凝り性>だ。講演も熱が入った。

10月27日(木)は<文字・活字文化の日>というが聞いたことがない。岡田氏も知らなかったという。今年、6月に制定されたばかり。<読書週間>の<初日>というのがミソ。<読書>とは<書を読む>…。<書>とは<文書>…。文書には<古文書>と<公文書>の二種類があり、<明治>以前のものを<古文書>、明治以降を<公文書>というそうだ。

<書>とは手紙と文書。豊臣秀吉と徳川家康の手紙は現存するものはどちらも約<6500>。だが織田信長はたった<900>という。武将には代筆役の<右筆>がいた。<自筆>は少ない。極めて貴重。信長の<自筆>は何通残っているか。驚いた。たった<1通>だ。信長は逆臣・明智光秀に殺された。本能寺の変。柴田勝家はじめ多くの忠臣も滅びた。秀吉の大阪城には多くの文書があったはずだが、家康に攻め滅ぼされ、火災で焼失。城内にあったはずの信長の文書も失われた。惜しい話だ。

残された貴重な手紙が紹介された。写真に撮ったコピー。凝り性の講師、実物大に復元して見せてくれた。一通は有名な<秀吉の妻>に与えたもの。秀吉の浮気、女グセの悪さを<おね>が信長に<直訴>した。女の<嫉妬>は恐ろしい。手紙に<日付>がない。いつ書かれたかハッキリしない。でも文面から推定できるという。「おほせ(仰)のことく(如)、こんと(今度)ハこのち(此地)へはしめてこし<越」、しうちゃく(祝着)に候…」――この地とは<安土>、この頃、秀吉は大名に出世、長浜に城を構えた。直後から<女遊び>が始まったらしい。直訴を聞いて信長はどう裁いたか。

「それのみめ(見目)ふり、かたち(容姿)まて、いつそやみまいらせ候折ふしよりハ、十の物廿ほともみあけ(見上)候、藤きちろう(吉郎)、れんれんふそく(不足)のむね申のよし、こん五たうたん(言語道断)くせ(曲)事候か、いつかたをあひたつね(相尋)、それさまほとのハ、又ニたひ、かのはげねすみあひもとめ(求)かたき(難)あひた…」。

「あなたのような美しい女性はいない。前に会った時より倍も綺麗になっている。それなのに不足をいう藤吉郎は言語道断、怪しからん。どこを探したって、あなたのような美しい方に、あのハゲネズミは二度と会えはしない」――。妻の<おね>を褒め上げている。だがここからが信長の凄いところ。紙面の都合で原文は割愛するが、「嫉妬は女性の役だが、あまり焼き過ぎてはいけない。どっしりと構え、言いたいことがあっても言ってはダメ」とやんわりと諭している。その上で「この手紙を藤吉郎にも見せなさい」という気の使いよう。誠に見事です。藤吉郎時代の秀吉、どんな顔をして読んだのでしょう。

あの<冷酷無比>と言われる信長に、女性に対する「人情細やかな気配りがあったのか」と評判の手紙。でも若き日の信長の肉声が聞こえてくるような素晴らしい文章。この時、おねは山ほど見事なお土産を持参した。初めて来るというので信長も<答礼>の品物を用意した。だがもらった物が素晴らし過ぎて自分の方が<見劣り>…。「だから今回は持たせない。次回に改めて贈る」とまで書いている。

おねが帰った直後、右筆を呼び、すぐ口述筆記させた。だから肉声が聞えてきそうな生き生きした手紙。講師はいう。信長はユーモアもあり、純粋な人だった。結んだ盟約を自分の方から裏切ったことは一度もない。武田信玄、上杉謙信、浅井長政、松永久秀…。裏切ったのは全て<相手>方。純粋なだけに深く傷ついたのではないか…という。

信長<自筆>の手紙。ナント、この世に<1通>だけしかない。それも署名も朱印も花押ない。講師はいう。自筆には朱印も花押もしないのが慣例という。なぜ自筆と分かるか。この文書は<感状>…。家来の長岡与一郎の戦場での働きを認め、恩賞を与えると約束した手紙。実はまったく同じ日付、同じ紙質で<添え状>が添付されていた。小姓の堀久太郎秀政のもの。そこに<御自筆之披成御書候>とある。実は長岡与一郎とは細川忠興のこと。細川護煕元首相のご先祖(大大名)。家宝として伝えられてきた。

この自筆、素晴らしい<達筆>――。右筆の比ではない。講師が保証した。火山にもそう見える。そして信長の人柄が分かる。<天下布武>の朱印。稲葉山城を<岐阜>城に改めた理由。<麒麟>の花押。これらは信長が生涯、<師>と仰いだ妙心寺派の高僧<沢彦宗恩>禅師から教えられたもの。

<布武>とは<武力>で<天下統一>――と普通は理解されている。だが本当は<違う>という。<武>を分解すると<戈>と<止>――。つまり<戦争>を無くす。戦争をせずに<平和>をもたらすという意味。若き日の信長にはこの<純粋>さがあった。そして恐らく<生涯>変わらなかった。確かに<残酷>な事件を起こした。だが<非情>は信長が<自分>で求めたものではない。講師は断言した。火山もそう信じる。では<非情>とは何か――。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

これは西軍が勝ちましたな」。明治政府が「富国強兵」にやっきの頃、作戦指導に来日したプロシャの名戦略家モルトケは、関が原に布陣した東西両軍の配置を見て、即座にこう断言したという。

そうであって欲しかった。判官びいきというだけでなく、石田三成の純粋な生き方が好きな私は、今もそう思っています。死ぬと分っていながら、三成の友情に殉じた大谷吉継も大好き。優柔不断、最後まで動かず身内から裏切りまで出した毛利に代わって、敢然と戦った西軍副将の宇喜田秀家にも感謝感激。彼が残した岡山の名城にも何回も行きました。

「名作愚演」とは堺屋太一が小説「大いなる企て」で評した関が原の石田三成評。勝てるはずの戦略を描き、あわやと思わせるところまで来ていたのに大きな「抜け」があった。天下盗りのために着々と布石を打ってきた徳川家康の「戦略」に敗れたのです。家康は内紛を抱えていた毛利一族を懐柔、大切な局面で小早川秀秋の「裏切り」を仕組んでいた。

 武断派といわれる福島正則グループ(秀吉恩顧の武将たち)と文治派といわれる石田三成グループを離間・仲違いさせ、さらに秀吉の正室ねねを抱きこみ、武断派を完全に握った。淀君との「女の戦い」も存分に利用したことでしょう。

 秀吉の盟友で豊臣家にとっては大事な後ろ盾の前田利家が世を去った好機も見逃さず、利家の妻(ねねの幼馴染といわれる)も江戸に人質にとって前田家を引き込んだ。 世の流れが大きく徳川に傾くのを見て、佐和山に閉じ込められていた三成がついに決起。五大老の一人、上杉景勝の家老、直江山城守と示し合わせ、家康を「会津討伐」に誘い出し、その留守に家康討伐の軍を起こすのが、三成の天下分け目の賭け。

 関が原は大好きで司馬遼太郎を筆頭に様々な小説、歴史書もいろいろ読みました。でも勝敗は戦う前に決していた。家康の手配り(戦略)の前には、いかなる「戦術」も無効だったのです。大谷吉嗣は全部見通していた。だから忠告した。「止せ。死ぬぞ」。でも三成は立った。だから吉嗣は三成と死んだ。そう信じています。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

「(昭和11年・1936年)2月26日午前5時、決起部隊、のちに反乱部隊1483人が、それぞれ既に決められた襲撃目標に向かいました。機関銃、重機関銃、軽機関銃、小銃、拳銃など約10万発を越す弾薬を持ち、2月の寒さですから外套を着用し、背嚢を背負い、防毒マスクまで持っていくという完全武装でした。歩兵第一連隊、これは今の赤坂9丁目辺りにあったのですが、栗原安秀中尉、対馬勝雄中尉、林八郎少尉、池田俊彦少尉らが指揮して約300名が、首相官邸に岡田啓介首相を襲撃」(半藤一利「昭和史」講談社・152頁)――。

昨年(2015年)は「戦後<70年>」と騒がれ<安保>で日本中が揺れた。だが、その<敗戦>の「引き金」となったのが、昭和11年(1936年)2月26日、ジャスト<80年>前に<勃発>した、あの<226事件>と、火山は考えている…。「日本が国家<総力戦>体制、高度<国防>国家をつくるためには<自由主義>ではだめだ。ナチス・ドイツのように資本主義経済体制を壊して<統制経済>にせねばならないのだと説くわけです。つまり<軍>が統制する国家です」と<半藤一利>は「昭和史」(149頁)で指摘する――。ウーン!

「ここで特に問題視されるのは、北一輝の『日本改造法大綱』です。皇道派の青年将校たちがこれを学び、おもむろにではあるけれど、『天皇は全日本国民とともに、国家改造の根基を定めんがために、天皇大権の発動によって3年間憲法を停止し、衆議院と貴族院の両院を解散し、全国に戒厳令をしく』、そうして大改造に踏み切る、という考えを持つようになるのです」(「昭和史」・148頁)…。<北一輝>は戦前の思想家、国家社会主義者。226事件の「理論的指導者」として逮捕され、軍法会議で死刑の判決。昭和12年8月、刑死。

「『たたかひは創造の父、文化の母である』。戦争があらゆるものをつくりあげる父であり、文化の母である」(「昭和史」・149頁)…。<皇道派>と激しく対立した<統制派>のエリート将校たちが公表した「国防の本義とその強化の提唱」の言葉…。皇道派も統制派も「満蒙の危機(対ソ・対中国)を受け止め、軍を刷新して近代の国家総力戦に合う日本をつくりたいという点で陸軍全体の気持ちとしては一致していながら、方法論」(147頁)で対立していた。226事件は当時、陸軍を握っていた<統制派>への<皇道派>の決起だった――。

「岡田首相、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、牧野伸顕前内府が襲われ、うち内大臣斎藤実と大蔵大臣高橋是清、教育総監渡辺錠太郎の3人が殺されました。重傷を受けたのは鈴木貫太郎侍従長、間違えられて助かったのが岡田啓介首相、牧野は無事脱出しました。このように天皇側近の要人を次から次へと襲撃して殺害したのです」(155頁)…。

「27日が明けます。天皇は侍従武官長本庄大将に向かって何べんも同じことを言います。本庄武官長が丁寧に日記に書いているのですが、『朕が股肱の老臣を殺戮す。かくのごとき凶暴の将校らは、その精神においても何の怒(ゆる)すべきものありや』『朕がもっとも信頼せる老臣をことごとく斃すは、真綿にて朕が首を絞むるにひとしき行為なり』。さらに、陸軍首脳が決起部隊の鎮圧にいつまでもてこずっていることに怒り出し、『朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当たらん』」(168頁)…。天皇の<鉄壁>の意思が反乱軍を鎮圧した。

「歴史の皮肉」といってよいかどうか、いや言ってはならないのだが、226事件に決起した青年将校たちの中に<薩摩・佐賀・長州>出身がいた。半藤一利は「こうなると『明治維新』です。彼らは事件を『昭和維新』と銘打ち、自分たちは天皇陛下を尊び、義のために立った『尊王義軍』と称しました。確かに彼らの気持ちの中には『天皇陛下のために立ち上がる。そして陛下は分かってくださる』という確信があったのでしょう」と半藤一利「昭和史」
(講談社・161頁)にある…。ああ!
(平成28年2月26日)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

大下英治「小泉純一郎最後の賭け」(河出書房新社)を平成15年6月に読んだ。「現代日本が生んだ奇異なる宰相<KOIZUMI>――その誕生は?行動は?多彩な人物へのインタビュー。入念な密着取材。現在を斬る政権ドキュメント」とラベルにあった。同じ大下英治の「小沢一郎の政権奪取戦略」(河出書房新社)を最近、読んだ。「国民不在の抗争を繰り広げる政治の闇。あるべき姿を模索する<小沢一郎>」とラベル。登場した民主党の衆院議員・原口一博(佐賀一区・45歳・松下政経塾)が小沢への期待を語る。

「小沢一郎には国家百年の計という大きなことを手がけてほしい。システムの駒として動いてもらう必要はない。問題解決能力を失った<古い政治>が今も排除されていないために社会の混迷と閉塞感がいっそう深刻になっている」。「政策が中長期的な展望を持たず、切り張り的に提出されるため、国家の迷走状態が続いている。規制と官僚機構を利用した所得再配分は膨大な財政赤字を垂れ流し、国民の不安を増大させている」。原口は「たけしのTVタックル」でもお馴染みだ。さらに続ける。「小沢さんには民主党の弱点であった意思決定の遅さを克服し、時間軸をもっと縮めるようにしてもらいたい。世界の中で何をやるかという政治理念と長期的なビジョンとネットワークの作り方などに指導力を発揮する存在であってほしい」。

旧自由党出身の参院議員・森ゆうこ(新潟県選出・48歳・新潟大)は「小沢一郎には将来ぜひ総理大臣になってもらいたい。小泉純一郎、菅直人、小沢一郎をくらべた時、もっとも可愛らしく思えるのは小沢一郎。ドロドロした個人的な欲が見当たらない。日本をよくしたいとの使命感。支持者、有権者の期待に応えたいとの気持ちが大きい。でも小沢は恐れられている。まわりがつくった虚像がひとり歩きしているとしか思えない」。

森ゆうこは小沢主宰の「小沢一郎政治塾」に参加、毎週1回開かれる懇話会の運営委員をつとめている。「一つのことばかりに目をむけている自分に気づくことがあった。全体を見渡すこと。政治家として理念を常にどこに置くべきか考えさせてくれた」という。

ここからが火山が言いたいことだ。平成16年1月16日から18日にかけて「小沢一郎政治塾」が神宮外苑前の日本青年館で2泊3日の合宿で開かれた。夜は車座になって酒を酌み交わしながら、深夜まで議論をしたという。最終日の<塾長講義>は1時間。別に30分間の質疑応答。小沢は訴えた。「21世紀は<共生>の世紀だ。諸民族の共生であり、地球環境との共生だ。日本には聖徳太子の17条の憲法にある<和をもって尊しとなす>の伝統があり、豊かな自然を愛する伝統もある。一方、コンセンサス社会でリーダーシップ不在という悪い面もある。このような変化の時代には伝統を踏まえつつ現実を変えていく力を持ったリーダーが出なければダメだ」。

「小沢は<大化の改新>をなし遂げた天智天皇、戦国時代に天下統一を果たした織田信長、明治維新の立役者の一人である大久保利通の3人を引き合いに出し、そのようなリーダーシップを持つ人物が現れ、日本が本来持っている<共生>の文化を世界に広めるようやっていかなければならない」という。
「達増拓也(岩手県1区・41歳・東大)は思った。<このような骨太の理念を話すことのできる政治家は、なかなかいない>」。

火山も歴史が好き。そして小沢一郎とまったく同じ意見。日本史の中で火山が好きなのは<天智天皇、織田信長、大久保利通>の3人。しかも日本史の最大の<節目>は<大化の改新><下克上の戦国時代><明治維新>の3つと考えている。そこを一番読んでいる。

特に明治維新は<経済史>を含め学生時代から一番勉強した。誰よりも大久保利通を高く評価している。彼の<冷徹な史眼、強い意思>によって明治維新は達成された。そして今は<平成維新>だ。明治維新以来の官僚制、特に<40年>体制の<弊害>を打破したい。そのための<郵政民営化>だ。<政権交代>も必要。

だが小泉改革の<官から民へ><中央から地方へ>もぴったりだ。だから<風林火山>の小泉純一郎をまず応援したい。純ちゃん、頑張れ。

全64ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.
kom*_19*7
kom*_19*7
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
友だち(24)
  • nitoro
  • masa
  • †ともみ†
  • 俊ちゃん
  • bug*nno*e
  • jujp4223
友だち一覧

過去の記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事