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せんなきことでもあろうか。仕方のないことでもあろうか。 ここ1週間いや10日余りを本らしい本も読まずに過ごしてきた。小説を書こうと本を借りた。そのとき燃え立たんばかりのモチーフに身を焦がしていた。そのときに書けばよかったのである。材料がないからと借りだした本はどれもピンとが外れてすっかり小説を書く意欲をそいでしまった。モチーフもあるがもう私に火をつけない。 年金生活者の生活は単調で惨めですらときにある。目標をなくし、あてどをなくしたときには悲惨である。最近はそのどつぼにはまったらしく、自分で自分を持て余している。金がないから余計である。 唯一外に出るとしたら図書館へ行くことそれにスーパーに買い物に行くことである。図書館はおいてスーパーはやはり心躍る楽しみである。たとえコーラ無糖を3,4本買うだけにとどめるにしても。 あとは大概家でロックをメディア・プレーヤーで流している。お気に入りの再生というやつを使っていて、指示すると曲をアト・ランダムに流す。結構気に入っているシステムだ。音楽が同じものが流れることが多いという難点はあるにはせよ。 ヴァン・モリソンは勘弁してもらっている。それ以外にも飛ばすやつはあって甲高いアレサ・フランクリンの歌声が聞こえてくると飛ばす。 最近はラジオを聴くようになった。8時台が夕飯だからニュースに縁がない。ラジオで情報収集だ。 そんなこんなで日が過ぎてゆく。 無色で淡い淡彩画のような日々。しかしその背景には次のような因縁が横たわっている。 (中略)孤絶の極みを、昔の文人は『形影相弔(けいえいあいとむら)う』といった。何と不確かで寂しい表現だろうか。自分自身という手に負えない生き物とそれが投げる影とが、互いにようすをたずねあうという漢語だが、成句自体がぞっとするほど怖く、しかも神秘的な絵になっている。歩きながらはっと気づく。すべては二度とくりかえされることはない。だが形影相弔う人の心象だけは昔も今も未来も変わらないだろう。いやいや、影はもうあやうい。大通りのにぎわい、あふれる光、言葉―どこまでも優しく、断定的で、明示的で、うそだらけの―は、影という影を殺し、内面のない外形だけを際立たせている。影を消された形は、おそらくこれからますます孤独ですらない狂気を溜(た)めていくのではないか。 「逝く夏、時への半証」(辺見庸「水の透視図孤絶の極み。私とその影がそっぽを向き合って互いにようすをたずねあっている。他者のはいる優しい空間はない。あくまでも私と私の孤絶を映す影との問答である。 日々は単色で淡く見えても一皮むけば孤絶の極みである。嘆いているのでない。淡々と事実を述べているだけである。 独りごとを言うこともない。「孤独ですらない狂気を溜めていくのではないか」という心配はない。 孤絶、来たれてわれを鍛えよ。 だが、言葉、あふれる光は内面のない外形だけを際立たせていくという。 私の対話する影は殺されていき、私の形骸だけが際立って骨のようにさらけ出されていく。 もはや私は形骸ではないのか? あまりにも孤絶に埋もれ、対話を封ぜられ、時のただいたずらに流れていくのを、砂が掌の間からすり抜けていくように遠くから眺めている自分がいる。 孤絶は私を鍛えるどころか、私を骸骨のように肉を削ぎ、内部から言葉を失わしめ、いよいよ私をただの形骸だけにしてしまいかねない。 私はそれでも悲しまない。 しょせん、私という生き物は哀しい存在である。たとえ世界で刀と刀の小競り合いが続こうと、私は若い頃から孤絶に生きて来た人間なのである。「形影相弔う」存在なのである。 せんなきかな、わが一生よ。 誰も涙を流してくれるものもなく、私に愛情を注いでくれた存在ももはやこの世にはいない。 それが世の道理である。従い、唯々諾々と孤絶の道を歩こうではないか。 せんなきかな、わが一生。 (完) |

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