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自分の言葉でものを考える、ものを述べる、その習慣を失って久しい。読書日記は別として、『風の吹くまま』の自分の考えを述べるジャンルでも、本の影がちらついて、引用、その解釈に終始する。読み返してみて悪しき例を見い出して恥ずかしい思いをする。先だって書いた「せんなきかな、人生よ」も「形影相弔う」の孫引きで強引に話を持っていって、今読み返してみても苦い思いがする。
ところが自分の言葉でものを論ずるということが難しいのである。広範な知識も教養もない器量でつい他者の言葉を援用せざるを得ないことになる。
よく考えて見ればすぐわかることだが、文章を書くということは何らかの本、何らかの事件、何らかの心境の昂りなどから、材料がない限り成り立たないものである。
このブログを立ち上げようと7,8冊の本を拾い読みした。こころに残るものはなかった。
強いて言えば、石原吉郎の経験が残ったくらいか。
コルホーズで強制労働している石原たちに食事の時間がやってくる。立ち働いていたおばさんたちが当たり前のように「食べましょう」と食事を進めてくれる。粗末な食事だったが、強制収容所の食事を食べている彼にとっては目の覚めるような美味でつい食らいつくように食べてしまう。お代わりもまるで飢えにさいなまれた(事実そうだったが)獣のようにあっという間に平らげてしまう。それを見ておばさんたちに沈黙がひろがり、目の前の老婆は涙をこぼすのである。
それだけが印象にありありと残っている。だがそれだけである。
もともと自分の言葉でものを述べるといってもことさら言うことはないのであるというのが身も蓋もない事実である。
テレビ出身の大阪府知事には一行も割きたくない。少なくともいまは。時事問題に筆を及ばせる胆力も知識もない。他者の優れたブログを読むと固有名詞はバンバン出てくるわ、論理もしっかりしているわで、敵いやしない。5千万ヒットというブログは有料で読ませているが、確かにすごい。しかしどこかピントが外れている感がしなくもなく、滑稽にすら思ってしまう。
ほとんど彩りのない生活。引きこもり同然の日々。生き生きとしたあの頃の知的好奇心はどこへ行ってしまったのだろう。
知的好奇心は消えていない。図書館に行って本にかこまれるとめくるめく思いで興奮に誘われる。それを次々に片端から昇華し、かみ砕き、排せつする機能が弱まったのだ。
全共闘。アントナン・アルト―、エコ・ロゴスなどを一生懸命追っていた時代が懐かしい。
よく言えば、「枯れた」、悪く言えば「衰微した」自分がここにいる。
ここまで読み返してみて、見事に何も言っていないのに改めて気付いた。
ただ文章を書き流したい、浮遊したいという気持ちが文を紡がせている。
いま図書館から借りている本はすべて返却するつもりである。そして心底に自分を啓発し、心を動かしてくれる書物を借りてくるつもりである。
「読書新聞」が3週間分たまってしまった。そこで興味を持った本を今予約している。それ以外にも手帳にメモとして読むべき本として残した本を借り、なんとかせねばならない。
すさみをなくさなければならない。下記で辺見庸氏が書いているように。(結局他者の文章を援用することになるが)
私の場合、すさみはおそらく胸底の<断念の沼>からもやもやとガスのようにわいてきている。物事を突き詰めて考えることを徒労と感じさせる悪水が断念の沼にはとどこおっている。怒りの表明を<どうせ無意味さ>とせせら笑うカエルたちが断念の沼にはたくさん棲んでいる。考えを掘り下げ行動する経路を手もなく脱臼させ無力化させてしまう沼気が断念の沼からはたえずわき上っている。
「断念の沼のカエルたち」『水の透視図法』辺見庸所収
あまりにも今の心境にぴったりなので引用した。あれも言っても同じ、これを主張しても同じ、そんな諦念に似た断念のこころがいま私を支配している。考えを掘り下げ行動する経路が絶たれてしまうような<断念の沼>、どちらでも同じさというあきらめに似た断念がいまの私にはある。
それは何ものも生まない。それがすさみをわかせるもとである。
だが向上心はある。短歌を休みっぱなしの1週間であったけれども。
ものを述べるためにも本を貪欲に読みたいという意志はある。
また辺見庸氏の文章を援用させてもらったが、見事に何も言っていない文になった。
明日あたり、コンピュータの図書館予約で、メモに書き留めた本を本当に最初の方から未読が多いから予約していこう。
寒い。ヒーターをつけているのである。ああ、おいしいメロンパンが食べたい。
かくも何も言うことがないと支離滅裂になってしまうのである。
願わくは、読んでああよかったと読み手に感じ取ってもらえるような文を書くこと、それに尽きる。
しかし<断念の沼>からは、それがどうしたというささやきが聞こえるのである。どうでもいいではないか。同じことだ、と。
困ったことだ。
(完)
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はじめまして。私は「大陸」さんのことは当然のことですが、よく知らないで書くので不躾な失礼をお許しください。全共闘世代だと、昨年60歳になった(なってしまった)私より少し先輩でしょうか。週刊金曜日のロングインタビューで辺見庸が石原吉郎の言葉を引用していましたね。大陸さんのブログの存在は最近知ったばかりですが、共感するところも多く、楽しみに読ませていただいています。私も最近、ある同人雑誌に「詩人としての辺見庸」などどと気取ったタイトルをつけた20ページほどの文章を書きましたが、読み返してみると恥じいるぐらい、自分の言葉というものがありません。そんなものかもしれません。内田樹だったかもブログに同様のことを最近書いていたと思いますが、自分の思いや感覚を表現する的確な言葉を見つけ出すのはなかなかたいへんです。何から、何を断念するための営為なのか私には想像するほかありませんが、ときどき的外れな感想を書かせていただきたいと思います。
2012/5/13(日) 午前 5:00 [ 西崎昭吉 ]
実は西咲さんのブログを読む機会があり、20枚という短い(確か50枚となっていましたが)辺見庸の詩人論を書いたとあり、3枚半の原稿でも四苦八苦している私には驚きであり、尊敬の的でした。断念はよく考える言葉です。いま石原吉郎全集を借りだして来ていて中に「詩と断念」という一文があります。どこかにその感想とともに
確か自分なりの考えで感想を書いたブログがあるはずなのですが、世間からそれなりの見返り―精神、物質―を返してもらう期待を断念しているということでしょうか。一種、病のため世間から身を引いている私の処世法ですか。この問題には一文を必要とするでしょう。しかし断念という言葉の魅惑的なことよ。思想は浅いのですが、引っかかり引っかかり書いています。
読んでもらってありがたいです。また感想をお待ちしております。
時おり西崎さんのブログにもおじゃまします。よろしくお願いします。
2012/5/13(日) 午前 9:45 [ tairiku ]
stroll様のような反骨の気の多い方にはぜひお勧めです。
2012/5/13(日) 午前 10:50 [ tairiku ]