大陸にて

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 気が重い。気が重いというより、抑うつ気味である。秋の憂愁とはこういうことを言うのだろうか。さっき食べたフレンチ・トーストがまだ胃にもたれているし。
 雨戸を開け、風通しを良くして、ジャージのズボンと半袖一枚である。風がいい塩梅に吹いている。風が吹くたびに風鈴の音がどこからか聞こえてくる。もともと静かな住宅地であるが、特に私のいる書斎は道からも遠く、ほとんど通らない車の音は遠いので潮騒のように聞こえる。唯一の例外は下校時の子供の歓声でこれも時間が限られている。
 しきりに西田(仮名)さんのことが想い起される。
 入院先で知り合った沖縄の人で文学好きでよく話した。いまは貯金も出来て余裕のある生活をしているらしいが、その頃はどん底に近い生活をしていた。
 西成に棲み、道路工事人を日払いの仕事でしていた。早い話があいりん地区の立ちん棒である。
 西成りの彼の家に遊びに行ったことがある。私がサラリーマンのときである。
 そのときの私の小説がある。一部引用する。
 中は暑かった。四畳半の部屋で流しが付き押入れが一つある。小さく汚れた冷蔵庫と、小型のテレビがあり、テレビの画面は埃がびっしりと付いて白と灰色でまだらだ。夏だが炬燵を置きっぱなしで布団も敷きっぱなし。洋服ダンスがないので一方の壁に洗濯紐を吊るして洋服が壁いっぱいに掛けられている。
 そのときの西田さんの部屋の様子だ。文学談をしようと行ったが、呂律が廻らず首を振って半眼である。
 「このスーツ7万円したんですわ」
 余計なこと言うな。友達を失くすぞ。
 とわたしは独白する。
 どうも様子がおかしく、結局強力な睡眠薬と酒を飲んでいたということがわかり、すみません、また来ますと言って部屋を辞する。
 ぼくは狭い部屋と湿った畳と埃のこびりついたテレビの画面を想い出しながら帰りの道を歩いた。想い出せないくらい職を変えて来た。変わる先、変わる先、労働条件がきつくなった。行き着く先が怖かった。ぼくはシンプルな、清潔な部屋が好きで、いまの部屋もそうしている。だがいずれそこも出なければならないだろう。もし、飲みだせば。もし、突っ走りすぎてポンとはじけたら。
 ぼくは西田さんの姿に自分を重ね合わせるべきなのか?
                        1992年2月28日(土)
 いま弟が来て、乏しい通帳から乏しい金額を借りてリビングで昼飯を食っている。もう預金通帳も零にひとしい。思えば住んでいるところは西田さんの家と似ても似つかぬそれなりの体裁をしているが、実情は当時の西田さんと内実変わりない。不安定でないところだけが取り柄だ。
 しかしそのことを言いたいわけではない。
 また小説から引く。西田さんから届いたこれは本物の文面の葉書だ。
 「退院して二、三カ月は充実感に満ちていて毎日楽しかったけど、今日今ごろは厭で時が早く過ぎたらいいと思っていたりする。いまの自分には何か欠けているけど、その欠けているのが見つからないのだ。メランコリーというか気分が沈んで馬鹿みたいに仕事を仕事を休んだ日などテレビを見たり煙草を吸ったりしてだらだらと過ごしている。人間四十五も過ぎたらもう自分の一生が見えてくる。そうすると若い時の情念など馬鹿らしくて、いや馬鹿らしいというより、人生を識らないと言った方がいいかもしれない。
人生とは鏡に映った影みたいなものだと思うようになって、いまでは確信さえ持つようになった。周囲の人のはつらつした人生を見ると芝居を見ているような心境だ」
 写していて暗い心境になってくる。もともと暗い手紙であるが、それより内容がつけのように自分にまわって来るのを感じるのだ。
 当時他人事のように使った手紙の内容が今の心境に似ていなくもない心に苛まれて、辛いのだ。
 神にすがるような気分だ。経済的なストレスの過半が私を「メランコリー」に陥れているのはわかるが、しかも弟がその原因の元凶だとはわかるが、弟は弟である。私を救う神はいないものか。しかしどうやら次のようなのだ。
 「神々、および神が去ったばかりでない。神性の輝きが世界史から消えてしまったのである。……世界にとっては基礎づけるものとしての根底が見出されなくなったのである」(ハイデッガー『乏しき時代の詩人』)
 いまは神性の輝きさえが消えてしまったのだ。私が最も見たい輝きというものが。
 よく見回せばくすんだ世であり、くすんだ人生を送る人の多さというものは歴史上これほどないと言っていいくらいである。せめて20年以上も前にこのいまを透視した西田さんの「メランコリー」に陥っている人がいるのは、教育テレビの8時台の番組「ハートランド(?)」で仄聞する人を見たりしている限り多いらしいのである。
 心が暗いように気候も暗い。重い鉛空である。
 積極的に行かざるを得ないコラム書きに備えて、しゃにむに進む以外ないが、心は空のように重い。
 せめて晴れていたら少しは気も晴れていたのに。
 いやな梅雨に近畿も仲間入りしたらしいのである。
 夏よ、ギラギラした太陽で挑戦して来い。いまはその気分である。それまでじっと堪える以外ないようである。
                                      (完)  


































 

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