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今朝は6時に起きた。昼飯を食べ、リスパドールを飲むと疲れと気持ちの悪さで思わず机の上に突っ伏して1時間くらい眠っていた。シャーデーの歌を子守歌代わりにして。起きたばかりだから頭が働かないがとにかく書いてみる。
昨日は先生の診察日だった。朝緊張が高くて胸が圧迫されるようになり不安で一種パニック状態に陥った。病院に電話し看護師の話を聞くが埒が明かない。リスパドールを飲んだ。あら不思議。パニック状態が嘘のように消え、不安もどこかへ行ってしまった。その話をすると突然先生は、リスパドールコンスタをやめるか、その代わりリスパドールを4服から6服に渡すからそれを飲むようにしようと言った。コンスタをやめるというのである。2週間に一回毎回、毎回お尻に打ってもらっていたコンスタを。一も二もなく頷いていた。そして4週間ごとに来ていいか訊いた。すると先生はいいよと気軽に返事してしてくれるではないか。思わず飛び上がりたくなるくらいうれしくなった。それというのも足に胼胝が出来て長時間歩けず仕方なく病院へはタクシーで通っていたのである。往復3000円。2週間ごとだから月に2回、6000円になる。4千円足すと一万円になる。貯金ができなくなった理由は、それから生活が苦しくなった理由は大体そこにあると考えていたので、よろこぶのも無理はないのである。 その後がいけなかった。何も言わなかったならいいのである。土曜日いのちの電話(自殺防止センター)ヘ10回ほどかけたと言ったのである。自殺衝動が出て狂ったように掛けていた。1回も掛からずにその後はなんとか過ごし夜も眠れた。 そのことを言ったのである。それを聞くと4週間は今回は見送る、2週間にする、と先生はのたまうではないか。結局承諾し、2週間後に行き、その週から4週間ということになった。 コンスタをやめる代わりにリスドールは6服必ず飲むようにということである。コンスタをやめるとさみしい気持ちになるのいささかである。身体が漲る感じ、あれが懐かしくなる。 そんなわけで2週間後から4週間おきになる。万々歳である。自殺衝動に何度襲われようと今度の診察では万事調子よく過ごせましたというつもりである。 ***** このように時折り死の衝動にかられる私であるが、石牟礼道子が対話するというので『死を想う―われらも終には仏なり』という平凡社新書の石牟礼道子、伊藤比呂美の対話集を読んだ。 なかなか飄々として面白かった。 石牟礼道子と言えば『苦界浄土』である。読んで衝撃を受けながらく残った。文体がいい。隅から隅まで舐めるように読み、長く読まなかった名著を読む喜びを味わった。暗くて重い世界なのに、どこからか一隅の光が射して来るようにほのかに明るい。著者の石牟礼氏の人徳のなせるわざである。前書きに『苦界浄土・第二部・神々の村』を書きあげたとある。ぜひ読んでみたいものだ。 石牟礼氏は最近パーキンソン症候群を患い、これがなかなか大変みたいである。リハビリに余念がない。 もうすぐ80というから高齢ではあるが、まだ現役で書ける年齢である。大事にしたい人のひとりだ。 聞き手の伊藤比呂美さんは詩人・作家で野間文芸新人賞や高見順賞を取った、私はもっぱら詩人の顔で知っていたひとだ。アメリカに夫と住んでいるが両親の介護に日本を行ったり来たりである。うってつけの人といえよう。 飢えと空襲のなかで見た死、印象に残っている死と進み、石牟礼死は次のような述懐をする。 石牟礼 (中略)死ぬというのはそのくらい寂しいと。 伊藤 はあ、寂しいということですね。 石牟礼 「連れに来る」というのは動詞でもあるけれど、「連れ」というのは名詞ですね。連れがい る。 伊藤 死って、とっても寂しいものだというふうに、昔の人は思ったと思います? 石牟礼 思ったでしょうね。 伊藤 それが、死の一番の性格でしょうか、昔の人にとって、石牟礼さんのお話をうかがっていると、昔のことのような気もするんですよ。(中略)死は私にとってもっと荒々しいものである。否応なしに自分をまきこみ、かっさらっていくものである。血なまぐさい。たえず格闘すべきものであり、誘いにあらがわざるを得ないものである。 その過程そのものがひょっとしたら寂しいものであるかもしれない。死は寂しい。こう口ずさんでみるとすべてが空しい、私の闘いであるような気もしてくるから不思議である。 伊藤 あの人(宮沢賢治)は日蓮宗だけれども、究極的には同じ宗教ですね、石牟礼さんと(笑) 石牟礼 ねえ。そらのみじん、宇宙の微塵、私は宇宙というよりも「浜辺の微塵」・・…。 伊藤 じゃ、宇宙の微塵にとって、死とは何ですか、「死ぬ」ということは? 石牟礼 まあ微塵になって、あれは「蘇(よみがえ)る」という言葉はありますか、あの詩には? 「ちらばれ」だから。 伊藤 あの詩は確か散らばりっぱなし……。 石牟礼 散らばるというよりか、私はどっかの葦(あし)の葉っぱかなんかに、ちょっと腰かけていたいような気がする(笑)。 伊藤 それが死? 散らばって腰かけている状態ですか。 石牟礼 そうですね。風にそよいで、草の葉っぱかなんかにね。石牟礼道子は詩人だ。何となく微笑ましい死のイメージだ。田舎に住んで浜辺で仙人生活をしている姿が彷彿とする。ここまで死のイメージを膨らませ、死を手ごろの物に、手中にしている姿は、よく歳を取った円熟した老婆の姿を想い起させる。 ここまで、この境地まで来たら、私には死をどうこう言う気持ちはなくならざるを得ない。もう詩人の天の高みに登る境地なのだから。私が死を強いて言えば、死ねば死に切りとしか言わざるを得ない。私が詩人でないことを思い知らされるときだ。 あとはひとつ引用する。 伊藤 じゃあ「浄土」ってあると思います? 死んだ人はそこに行くと思います? 石牟礼 それはね、私も思いますけど、あるんじゃないかという気がする。 伊藤 そうですね。石牟礼さんは意識がなくなってしまったら、もうそれでお終い、とは思いませんよね、きっと。 石牟礼 そう思わないこともないけれど、みなの願いがあるから、あれほど皆、先祖代々、「お浄土へ行かせてください」ってね、後生(ごしょう)を願うとかね。石牟礼氏も伊藤氏も人格が立派だから「死を想う」という対談でこれだけ飄々と気軽に含蓄のある対話ができたのだと思う。 気軽に読み、読後感もさわやかな読書だった。 (完) |

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「大陸さん」の過去ブログを読ませていただこうと思います。「死」について考えることは、より深く自分の内面に入り込むことができなければできないように思いました。ちなみに私も過去に勘違いしていたことがありましたが、石牟礼さんの作品は「苦海浄土」と書くようです。やっぱり「不知火海」のイメージでしょうか。伊藤さんとの対話、ぜひ読んでみたいと思います。(23日早朝 西崎)
2012/6/23(土) 午前 3:56 [ 西崎昭吉 ]
御訪問ありがとうございました。過去ブログを読むという試みに恐縮する思いです。2000近くあって、小説も相当量あります。どうせ同じことを飽きもせず書いた文が多いと思い、うんざりなさるのではと心配です。中に辺見庸氏を集中的に読んだ時期がありそれが多いのですがご参考になれば幸いです。苦海浄土には気が付きませんでした。ご指摘ありがとうございます。ご自愛ください。
2012/6/23(土) 午後 3:49 [ tairiku ]