大陸にて

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走れ! タカハシさん

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 ――目立さんにまつわるゴタゴタの疑問はその日の夕、氷解した。
 同じ配達区域が重なる、違う新聞配達の学生がいる。名を池田といって東京の私立の産業大学に通っている。
 「今日は学校行ったか?」
 と彼が、三田の慶応大学に通ずる坂道で出くわしたとき、タカハシさんに訊いた。
 タカハシさんは首を振った。
 「相変わらずだな。やっぱり紛争か?」
 池田のその言葉にタカハシさんは頷いた。
 「おれんとこも始めたぜ」
 歩道で自転車に跨ったままの二人の間を人が通り過ぎる。彼らは歩道の店側に移った。和陶芸タツマとある店のショーウィンドの前である。
 池田は妙にうきうきしていた。声にその調子が感じ取られた。
 「学長の汚職でよー。完全に授業ストップだ。ひょっとしたらお前んとこみたいにレポートだけで自動進級ってことになるかもしれん。みな騒いじゃってさー。新聞にも片隅だけど載ったぜ」
 「やれやれか?」 
 「とんでもない。やったって気分だ。いい気持ちだよ、時代の最先端を走るってことはさ」
 「面白くもなんともないよ」
 「何が?」
 「何かこう、ピンと来ないよ」
 「そうか?」
 「少なくともおれはな」
 「とにかく初めてだから。そう、一カ月ほど前、目立って教授が頭を撲られたよ。完全な反動でさ。大講堂で紛争鎮圧の演説やってるとき、赤ヘルが飛び出て行ってガツン、だ。そのせいで目に病気が来て、それ以来学校に来ていないよ。髪が白黒斑だからみな、ブチって呼んでたけど」
 「目に病気?」
 「モーマクハクリとか言ってたぜ。手術して治ったみたいだけど後が怖いよな」

 ――ここらで僕はペンを置く。
 世界はもっと複雑だったし、今もそうだ。僕の拙いペンでとても立ち向かえるものではない。10年早いのだ。あらゆることに僕は10年早いのだ。いや、20年かもしれない。
 だから10年あるいは20年たったら戻ってきてもいいだろう。その時どうかは、この文を読み返して判断できるだろう。
 だから、さらば、だ。
 さらば、闇の中に生まれ、闇の中に消えていく世界よ。
 付き合ってきて悪い思いはしなかったさ。
 そして読んでくれてありがとう。 
                  1988年11月14日(火)   
                                     (完)
                
 

 レジスターの前のウエイトレスは白く剥いた卵のように無表情だった。
 女はちょっと首を傾げた。
 「君は目が覚めるような美人だよ」
 女は黙ってレジスターからお釣りを取りだした。
 「皆がそういうだろう? 目が覚めるような美人だって。君、昔別れた恋人とそっくりなんだよ」
 バンド・エイトのように張り付けた微笑がちょっと綻んだ。
 「一緒に歩いていると誰もが息をのんで振り返る。神様がわざわざ自分の手でこしらえてくれたと思うよ」
 高見さんは釣銭を受け取らなかった。
 「いいんだ。君がきれいだからその鑑賞代だ」
 「困ります」
 はじめて彼女はいつもとは違う声で言った。
 「いいって言ったら、受けとっておけ」
 声を荒げた。
 「無愛想が取り柄かも知れんが限界ってものはあるんだ。ちょっとばかし笑っても減るもんじゃなかろう?」
 店内の客が振り返ったり目を上げたりしてこちらを見た。
 「高見さん」
 タカハシさんが言った。
 「分かってるってば。お高くとまりやがって。ウエイトレスで喫茶店は決まるんだ。もうちょっと、こう」
 そう言って高見さんは両手の人差し指を唇の端に当ててぐっと広げた。
 「わ―ら―い―が―お―しろってんだ」
 元に戻した。
 クスッとウエイトレスは笑った。氷河の溶けるような笑いじゃなく、本当におかしそうだった。
 「ほらね。それでいいんだ。また来る気になったよ。名前を聞いてもいいかな?」
 「−静子です」
 「ありがとう」

 8
 タカハシさんは僕と同じ、通常「団塊の世代」と呼ばれている歳になっている。他にも「全共闘世代」と呼ばれることもある。
 当時はまだ現在(いま)に比べていわゆる「思想」が学生たちの間に流布していた。それは主として左翼的「思想」であり、対するものとして右翼がいて、無関心派がその間で揺れていた。めまぐるしく飛び交った言葉の数々に「ノンポリ」「ノンセクト」という造語もあるが、それはいずれも左翼的「思想」を軸にして成立し得た言葉である。
 今はもうその跡形すらない。僕らはもう舞台を降りてしまったのだ。
 ただちょっと気にかかるのは、アンコールも(むろんはなから期待はしていなかったが)拍手も、何の反応もない事だ。あるのは沈黙だけ。後はのっぺらぼうの若者がじっと数十万人も立っている気配。恐い。僕は実に恐いのだ。

 幸枝さんが僕らを笑顔で迎えた。
 「ご苦労様。でも天気が上がってたからよかったね」
 タカハシサンはええ、とうなずいて三和土(たたき)に入ると、木の床に腰掛けた。高見さんは立ったまま
 「妙なオッサンですよ」
 と言った。
 「タカハシサンが入れたのは確かなんです。なあ?」
 タカハシさんは靴を脱ぎながら頷いた。
 「それがね」
 幸枝さんは声をひそめた。
 「どうも奥さんが入っている新聞を隠しちゃったらしいのよ」
 二人とも一瞬、犬が小鼻を弾かれたような顔をした。
 「さっき電話があってそう言うの」
 「もう取らないってこと?」
 高見さんが訊いた。
 「それが最初はっきりしなくてね。でも奥さんは結局入れて下さい、って」
 「おかしいな。おい、思い当たることはないか?」
 タカハシさんは
 「さあ」
 と首を傾げた。
                               (続く)

 ウエイトレスはだれかが置き忘れた白紙の便箋のように無表情だったが、口をぽかんとあけて見とれざるを得ないほど、美人だった。
 「ちょっと待ってくれ」
 高見さんは女の持ってきたメニューを聖書を校正するみたいに厳密に、丹念に眺めた。
 しばらくしてやっと
 「ロシアン・ティー」
 と高見さんは言った。
 「これにしよう。飲んでないけどおいしそうじやないか。おいしんだろう?」
 「ええ、まあ。そうだと思います」
 「お前じゃないよ。この美人に訊いているんだ。どう、おいしいの? このなんとやら、ロシアン・ルーレットはよ」
 「ロシアン・ティーですか?」
 「いや、ルーレットだ。こいつとおれは二人ともこれからそいつを始めるんだ。分かるかい?」
 高見さんはコンコースの光の射さない空間を指差した。
 「おれたちゃこの地上の空のような気分なんだ。だからロシアン・ルーレットをやりたい。コルト38に弾を一発だけ入れる。その後輪胴を好きなだけ廻して頭に当てて引き金を引く。入ってりゃズドンで一巻の終わり。入ってなかったらもう一発追加して同じ繰り返し。どう、スリルがありそうだろ?」
 女は辛抱強く立っていた。人形のような表情を崩さずに。
 「分かったよ。ロシアン・ティーだ。この名前が気に入った」
 タカハシさんはアイス・コーヒーを頼んだ。
 「おい、このくそ寒い日に、アイス・コーヒーかい?」
 「いつもですよ」
 「置いてるのか?」
 「ええ」
 「置いてるの?」
 女は頷いた。
 「ま、いいや。人のことに構っちゃいれないし好きにするさ」
 高見さんは運ばれてきた赤茶色のロシアン・ティーを一口飲むと、尋ねた。
 「何か面白いことはないか?」
 「別にありません」
 タカハシさんが答えた。
 「学校はどうなってるんだ?」
 「封鎖中です」
 「どこもかしこも封鎖だな」
 タカハシさんはアイス・コーヒーをストローで吸って返事はしなかった。
 その後は新聞制度にまつわる話題をほとんど高見さんが一方的に喋り、タカハシサンは頷くか、首を傾げて「はい」と言うばかりだった。
 煙草を三本吸い終わると高見さんは立ち上がった。
 「行こうぜ」
 レジの前に行くと高見さんは言った。
 「目が覚めたよ」
                              (続く)
 

 

 7
 コミットするという言葉が現れて、人々の口に上り、やがて廃れていったのはいつの頃だったろう?
 「この事態にコミットし得ないものは去れ」等々。参加する、のめりこむ、身を処するあたりが逐語訳だ。もともと日本語に翻訳不可能のため、英語のカタカナ表示になっている。たまに新聞の記事にあるからその言葉はある程度定着したのだろう。
 今はどうかわからないが、60年代後期には政治的ニュアンスが濃かった。「僕はコミットしなかったし、コミットしていないし、将来もコミットしないだろう」云々。「しなかった」分には説明できるし、後で述べるかもしれないが、そのあとの二つについては世の習いに従っている。
 ”So it goes”という言葉は確かに便利だ。同じように「やれやれ」という言葉。
 「やれやれ」「コミット」って言葉はどこに行ってしまったんだろう。

 「以後気をつけます」
 タカハシさんはぴょこりと頭を下げた。
 「洗剤は持って帰ります」
 高見さんは何か言いたそうだったが、エンジンから噴き出た蒸気がやがて霧散するように、みるみるそれまでの勢いがしぼんでいくのが分かった。帰る時二人は一言も喋らなかった。
 雨は上がっていたが、その代わりに冷たい大気が東京に居座っていた。人々はみなそのままの姿勢で固く凍りつき、動いているのは二人だけに見えた。ほら吹き男爵に出てくる話のように、誰かが何かを喋るとその言葉は凍りついてしまいそうだった。早く暖かい店に帰ってそいつを溶かさなくちゃ。
 「何か理由がありますよ」
 店の近くの三田図書館が見える車道まで来たときにはじめて、タカハシさんは呟いた。高見さんは何も言わなかった。今日あたり架空の拡張をやってドロンすることを考えているのかもしれない。しかし、意外と明るい声で高見さんはゆっくり坂道を並んで降りて行きながら答えた。
 「もういいや。あいつはたんにオカマ野郎さ。お前んとこの堅田みたいにな。どっかで休もうぜ」
 彼は道の真ん中で立ち止まった。
 100メートル先に専売店が見える。
 「どっか知らないか?」
 「図書館の地下にサ店がありますよ」
 「どこでもいいさ。休めたらな」
 店に降りて行くと、窓越しにいつものウエイトレスが蝋人形のように立っているのが見えた。高見さんは彼女を見てヒュウと口笛を吹いた。
 二人が入っていくと中の客は鳩のような仕草で、一斉にこちらを見た。そして何事もなかったように再びテーブルの前でコーヒーやらサンドイッチを詰め込み始めた。
 「やれやれ」
 と高見さんが言った。
 「奥のほうに席を取ろうぜ」
 吹き抜けのホールの窓際の一番隅っこの席に二人は座った。
 「おれは人間嫌いなんだ。若くて美人の女は別だけどな」
                                  (続く)

 6
 誰か何かのエッセイで書いていたが、今やマイナーということ自体でもうメジャーであるということになるらしい。ファッションから、何らかの商品から、小説すら、そうだということだ。
 意味はわかりすぎるほど、よくわかる。
 かってはそうではなかった。たとえば小説だ。一方に大量のベストセラー愛好家がいるとしたら、必ず誰も手に触れようとしないマイナーな小説や詩をコツコツ読む読者がいた。それは明白すぎるほど二極化していた。
 ところで、ポール・二ザンの書いた『アデン・アラビア』の冒頭の文句は、メジャーだったろうか?
次のような言葉である。
 「僕は二十歳だった。それが美しいだなどとはだれにも言わせまい」
 その言葉と、僕はカート・ヴァガネット・ジュニアの”so it goes”―「そういうものだ」―としきりに小説中(『スロータ―ハウス5』)で繰り返されるその言葉が好きだった。当時はヴァガネットはマイナーだった。
 日本に彼のスタイルを選んで新人賞をとった作家がいて、そのあとの確か5,6冊目がベストセラーになった。彼もヴァガネットも今やメジャーだ。二人とも少なくとも追っかけて行く間にはまだマイナーだった。日本人の作家の名は村上春樹だ。

 雨は止んでいた。
 「あのおっさんか?」
 「ええ」
 「ずいぶん爺臭い野郎だな。あの髪を見ろよ。白と黒で、まるで斑の犬みたいだぜ」
 「あだ名がブチですよ」
 高見さんは声を立てて笑った。
 近ずいて頭を下げるとブチつまり目立さんは一気に何かをまくしたてた。
 高見さんは言った。
 「まあ、そうおっしゃらずに。入っていないのはわかりました。間違いっこありません。入れてないんです。なあ、タカハシ君」
 「家じゃ、全国紙はすべて取っている。だから、お宅の新聞を取らないわけにはいかないんだ」
 「そりゃもう、うちは中身濃いっすから。入ってません。入れませんでした。確かに。だからこれを」
 高見さんは大きな洗剤とその日の新聞を差し出した。
 男はもう一度繰り返した。
 「新聞は私の命なんです」
 三人の間のどこかでぷつりと堪忍袋の切れる音がした。高見さんだった。
 「その文句は何だ。新聞屋の苦労をお前は知ってるのか。冬の雨がどんなに辛いか知ってるのか?」
 ドスの利いた声でそう高見さんが言うのを聞くと、ずいぶん迫力があってタカハシサンは一瞬ひやりとした。一人読者が減った、とタカハシさんは思った。
 しかしブチは顔色一つ変えなかった。
 「入ってなかった4日分も持ってきて下さい」
 分厚い眼鏡の奥の眼は揺るがなかった。なぜこうも確信に満ちていられるのかタカハシさんにはわからなかった。なぜなら、配達したのは間違いないからだ。
 いささか毒気を抜かれた高見さんが
 「分かりました」
 と言い、いつもの職業的な声に戻ると、洗剤と新聞を差し出した。
 「洗剤なんかこんなもんはいらん」
 ブチは新聞だけを取った。
 「洗剤なんか必要ないし、こんなもの貰ったことない」
 でも―と口元まで出かかったタカハシさんは、言葉を抑えた。
 「家じゃこの数日、一紙も届いとらんのだ」
 ブチは今にも爆発しそうだった。
 高見さんはまた、拳を握ったり、開いたりするのをさっきから続けていた。
                                   (続く)

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