大陸にて

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 「ほとんどしゃべらないわね」
 「そう。うなずくだけ。品のいい老婦人だけど、あれだけ満身創痍ではね。両脚骨折に糖尿病、床ずれ、耳が不自由でしょう」
 「付添いの息子さんもほとんど何もしゃべらないなわよ。愛相はいいのだけどもね」
 「よく来るわね」
 「年金生活者らしいけど」
 「私ちょっとこのデザート持っていってくるわ」
 「お願いします」
 介護士は広い個室に入って行った。
 「デザート持ってきました」
 息子が立ってお辞儀してまた座った。老婦人は微笑した。
 「ここに置いときますわね」
 介護士はベッドのテーブルにデザートを置いた。また一礼。微笑。
 出ていく時介護士は背筋に何かぞっと異様なものが走るのを感じた。
 何と言ったらいいのか。ふたりは違うのだ。この世の人とどこか違う感じがする。どこかが妙だ。
 自分の考えの馬鹿さ加減に苦笑してナースステーションへ介護士は戻って行った。
 残された二人のうち老婦人つまり男の母が言った。
 「私行こうと思うの」
 「行きますか?」
 「ええ」
 老婦人は言葉を継いだ。
 「全地球で知らされた人ってどのくらいでしょうね」
 「お母さんみたいにいつ行っても差し支えない人を選んでいるみたいだからそれほど多くはないけど、それでも数は地球上を合わせたら相当なものになるでしょう」
 「お前はどうするの?」
 「私もいずれ行きます」
 「ややこしいわね。私たち宇宙人だけど、地球人が結局みな宇宙人でそれを知らないってのは」
 「ええ」
 「言葉なのね」
 「そうです。地球人はウィルスって呼んでいますけど、私たち言葉は宇宙から侵入してきたウィルスなんですね」
 「人類は言葉をもたなかった。私たちが寄生した。だから突然の飛躍を遂げた」
 「帰還命令が来た時には私は私が狂ったのだと思ったわ。奇跡を見て信じたけれどね」
 「奇跡?」
 「言葉が私そっくりの形をなして私を作り上げたものだもの。私の名前を使ってね。それに頭に直接響いて来たから信じたわ」
 「私もそうです」
 「未練はないわ。それより新しい世界がどんなものか、母星がどんな姿なのか大いに興味があるわ」
 「強制力はありません」
 「あなたならどう言うの?」
 「行くことをお勧めします。新しい命、新しい未知、新しい世界ですから。僕でもわくわくしますよ」
 「ウィルスのかたちをとるってのがぞっとしないわね」
 二人は笑った。
 老婦人は言った。
 「でも考えるウィルス。私の全地球の経験を残したウィルスだもの」
 彼女は遠い瞳をした。
 「あなたを生んでほんとによかったわ。そして思い出も。それを残してくれるって母星から言ってきてなんてホッとしたか知れやしない」
 「行く手段は忘れてませんね」
 「忘れるものですか。暗号文字を言って次に私は帰りますって口に出して言ったらいいのだから」
 「いつ行きますか?」
 「今じゃダメ?」
 「いいえ。いつでもいいと思っていましたから。普段のお苦しみようを見てきましたから」
 「じゃ、デザートを食べてそのあとに」
 二人はプリンを2等分して食べた。食べ終えてナプキンで口を拭いて老婦人は言った。
 「遺産も残せたし、遺言状もあるし、思い残すことは何もないわ」
 「失語状態になるだけではないのですか?」
 「いいえ。特別に死ぬよう母星に頼んだの。お許しが出たわ」
 「じゃめくるめく冒険に新たに赤ちゃんの状態から出発してください」
 「ええ」
 二人は手をにぎった。
 老婦人は息子の耳元に口をやり
 「ありがとう」
 と囁いた。
 「じゃ行くわね」
 老婦人はベッドに仰向けに寝た。
 「さようなら」
 「いい門出です」
 老婦人の眼から涙がひとしずく流れた。
 「手を握っていてね」
 息子はぎゅっと母の手をにぎった。
 「じゃあね」
 そういうと老婦人は目をつむり低い声で一連のアルファベットと数字を唱え、それからもう一度息子の方を見ながら
 「私は帰ります」
 とはっきりした声で言った。
 突然、老婦人の身体全体が光った。ひかりは集まり帯をなし、天井に向かった。天井を突き抜けて病院を抜けるとどんどん速度を増しやがて音速となり、大気圏を抜け光速となって宇宙のなかに入って行った。
 一部始終を内部の眼で息子は見た。
 母は亡くなっていた。
 息子ははらはらと涙をこぼした。
 しかし
 「新しい世界に向かっているんだ。お母さんは永遠の命を持って生きているんだ」
 と低く呟いた。
 それから母にシーツをかけ、しばらく安らかな死に顔を見たあと、息子は立ち上がりナースステーションに向かって歩いていった。
                                                  (完)
 
 
 党員はなんて暑いんだろうと考えた。くるぶしがさっきから痛かった。目当ての人物はこんな町はずれにいるのかと疑問だった。もしそうだとしたらこの貧困の象徴であるような町はずれに住んで、だいぶ落ちぶれたものだと思った。昔はバリバリの党中枢幹部だと聞いている。ハンカチはもうぐっしょりだった。
 向こうに座りこんでいる影が見えたのではっとして、党員は足を速めた。
 近くに行くと老人が大きい石のうえに座っていた。そばに水槽があった。薄茶色のシャツ一枚をはおっていた。その下は赤道色の上半身裸だった。
  党員は屈みこむような姿勢で老人に
 「吉田幾太郎という人物を知りませんか?」
 と訊いた。
 「この近くに住んでいると聞いたものですから」
 「自己紹介をするのが礼儀というものだ」
 老人は返した。
 「ああ、渡辺強と申します。吉田さんとはある組織にいて去ったひとです。また幹部が会いたいと言うのでお尋ねしました」
 「知らんな。組織にいたって?」
 「ええ」
 「やつらはひとを離しやしない。一昨日もやって来てひどい目にあわせた。高校生の娘にだ。あんたまさか…」
 「私は共産の方です」
 「そうか。それなら教えてやろうか。あそこに赤い窓の家があるだろう? あの家に行ったら知っているものがいるかもしれん」
 「吉田幾太郎をな」
 老人はその名前が特別な意味を持っているかのようにほほ笑んだ。
 「あの赤い窓ですね?」
 「ああ。だが高校生がいる家だ。ひどい目にあわされた。とにかく行ってみたらいい。やつらはどこにでもいる。いまでもいるかもしれん。うようよいる。気をつけた方がいいよ、あんたも」
 「おぼえておきます。ありがとうございました」
 「やつらはどこにでもいる。ひどいことをする。若いやつが特にひどい。お偉方は見て見ぬふりだ。うようよいる」
 「ええ」
 紅い窓の家に進む間、やつらのせいで組織が規模を細くしていっていることを渡辺は考えた。
 着くとドアにノックした。不幸にあったせいかもしれないから会ってくれないかもしれない。ドアをもう一度強くノックした。ようやく足音がしてドアが開いた。
 家のなかは暗かった。中年の女は黙って彼を見返した。
 「怪しいものではありません」
 渡辺は言った。
 「吉田幾太郎という70代後半のご老人がこの辺にお住みだと聞いたので、やってきました。なにか御存じないですかね」
 「あんたはやつらかい?」
 「違います。共産党のものです」
 幾分空気がやわらいだと思ったのは渡辺の勘ぐりすぎだろうか?
 「やつらは昨日来た。5,6人若いやつらだった。高校生の私の娘を引きさらっていって、散々乱暴して、けさ娘は帰ってきた。ぼろぼろの衣服でね」
 「警察には?」
 「もう少ししたら行く事にするけど娘が被害届を出そうとしないのさ。卒業式で君が代斉唱のときに立たなかっただけ、たったそれだけのことで、頭のいい、成績もトップクラスのうちの娘にあいつらは制裁を加えると言ってやってきた。そして乱暴した。あんたたち何か打つ手はないの?」
 淡々とした口ぶりだった。生活に疲れて打ちひしがれていた。
 「父親はいないから今日は仕事を休んだけど、明日からまた始めなけりゃならない。どうしようもない」
 「ご同情します。出来るだけのバックアップもしてみます」
 「力がないからね」
 「その肝心の話なんですが、吉田幾太郎というご老人をお知りになりませんか?」
 「知らないね。待ってね、うちのおばあちゃんなら知っているかもしれない」
 女は玄関で振り返って
 「おばあちゃん」
 と呼んだ。
 「入った方が早いかもね。上がりなさい」
 女は廊下を進み、障子を開けた。暗い部屋だった。太った老婆が安楽椅子に座りこんでいた。
 「訊きたいことがあるんですって。共産党員だって」
 「やつらがやったことを聞いたかい?」
 渡辺が軽くうなずくと老婆は激しい口調で言った。
 「やつらを殺しておくれ。ひとり残らず。そこいらにうようよいる奴らを片っ端から殺しておくれ。何てことをするんだろう。罪もない、純粋な、私の孫を。やつらはどこにでもいる。道ばたに寝ている可哀想なご老人に灯油をかけて火をつけたって話だ。私の孫だよ。やつらはどこにでもいる。殺しておくれ」
 「共産党員なら何かしたかい?」
 「ひとり殺しました」
 「みんな残らず殺しておくれ」
 老婆の口調が和らいだ。
 「あんたに言ってもはじまらないがひとり残らず殺しておくれ」
 「おばあさん」
 中年の女が声をかけた。
 「吉田幾太郎という人を知っているの?」
 「今は名前を変えているがね。昔はそんな名だった。あんたに言っても始まらない。おいで」
 老婆は安楽椅子から身軽に身体を離すと、玄関の方へ歩いていった。渡辺も急いで後を追った。
 立っている時の方が老婆は小さく見えた。
 外に出たとき、途方もなく老婆が歳をとっていることに気づいた。
 唇はなかった。口は顔と同じしわくちゃの一部に過ぎなかった。彼女はまぶしそうに目を細めて通りを眺めた。
 「ほれ、あそこにいる」彼女は、水槽のそばの石に座っている老人を指差した。
 渡辺は老人を見た。それから老婆に話しかけようとして振り向くと、老婆の姿はすでに家のなかに消えていた。
                                                         (完) 
 
 
 
 さっきから吉田は心の中で自問自答を繰り返していた。
 <半島の北半分が仕掛けたのではないのは確かだ。軍部がそういっているのは知ってはいるが、いい加減なものだ。敵は強くて向こう見ずで、ソマリアやイスラム過激派に劣らない。思想の力と言うやつか。おれたちはいい加減だ。半分も相手のガッツがあれば>
 思念バリアーを装着したフルフェイスのヘルメットに衝撃が来た。
 スナイパーだ。
 やられた!
 肉体に損傷はないものの、ヘルメットが吹っ飛んだ。
 思わず、大声で、一緒に歩いて来た兵隊たちに大声を掛けた。
 「ヘルメットがやられた! ヘルメットがない! 逃げろ! おれから離れろ!」
 兵隊は慌てふためいて走って後退していく。
 スナイパーはひとりの兵隊の死を狙ったのでなく、ほかの兵隊も巻き添えにするつもりだったんだ。
 なぜならここは思考地雷の無数に埋められている地雷原だから。
 人間の思考に反応して爆発する恐ろしい地雷地帯だから。
 <ナニモカンガエルナ、ナニモカンガエルナ、ナニモカンガエルナ! ナニモー!>
 次の瞬間地雷が吉田の腰から下をもぎ取り、すさまじい勢いで爆発し、吉田は絶命した。
 何も考えない必要のない闇が、妻の顔とともに、あらわれ、消えた。
 
 10日後吉田郁子の家に戦死公報が届けられた。
 「吉田省吾二等兵の勇敢なる死をもって、ご遺族の心中いかばかりなるやと推察し、ここに吉田省吾二等兵は名誉ある一階級特進を得られました。ご報告とともにここにお知らせします。名誉ある戦死を心から誉め讃え吉田省吾一等兵に真摯なる敬意を表します」
 郁子は放心した表情で、裏を視た。
 「大平15年8月4日 連合軍将軍兼総統」
 Hに丸を囲い、双頭の鷲と鷹をアレンジした街中に見かける紋章が捺されていた。
 郁子は白い骨壷を前に、泣き崩れた。
                                                     (完)           

白悪魔

 吉田は母と6畳が3間と同じく6畳のダイニングキッチンのある文化住宅に住んでいた。母が看護婦をやっていた頃はマンションに住んでいた。看護婦をやめ、19万円の厚生年金で暮らしていかざるを得なくなりここに越してきた。吉田は厚生障害年金を月5万円もらっていた。母に渡すことはなかった。お互い50万の借金がサラ金にあり、利子を返すだけで目一杯だった。 
 吉田は57歳だった。白皙のといっていい容貌をしていた。一度郵便局に言ったとき、係員が「きれい!」と言葉をもらしさざ波のようにしのび笑いが郵便局にひろがったのを覚えている。若い頃激しい恋愛沙汰をくり返したから、今はもう母だけで充分だった。特に動揺することもないし、自慢することでもない。50代の初頭まであんなに彼を苦しめた性欲ももはや消え失せていた。きれいだろうが、60を過ぎたらおじゃんになるし、第一彼らは貧乏だった。ベンヤミンが言った、「独りでする貧乏は耐え易い。むしろ耐えるべきである。しかし二人にのしかかる貧乏とは…」という言葉をよく吉田は思い出したものだ。
 吉田は心の病を抱えていた。もう数えきれないくらい精神病院に出はいりした。
 働くと発病した。だから55を過ぎてからそれまでの勤続日数を算出した厚生障害年金をもらうようになり働かなくなった。代わりに小説を書いた。応募するわけでもなかったが、ショートショートを書いて小説現代で佳作に入り名前が載ったことはある。しかし野心は失われていた。病をくり返さないこと、これが彼の第一義の生活となった。
 白悪魔と黒悪魔、不眠症。これが彼が今度書く小説に用意したキーワードだ。ネットカフェでコンピュータを調べて白悪魔を検索してもよかったが、どうでもよかった。
 母は彼の小説を読んで「わからない」ということもあれば「いいわね」ということもあった。一度大学時代の幸福な頃を書いた小説を書いたら、不幸な生活を送っているとばかり思っていたのに、と、激賞したことがある。
 それより今度の小説だった。
 不眠症は彼の宿痾だった。
 おぼろげな精神医学用語で過覚醒という言葉を知っている。絶えず過敏で覚醒状態がオーバーヒートしているのだ。
 当然眠れない。覚醒が強すぎて、薬の力を頼らない限り一睡もできない。薬を飲んでなお眠れない日がしばしばある。
 彼はラジカセで椎名林檎の『カバー曲集その1』をヘッドフォンで大音量で聴きつつ小説を書き進めていった。
 つまり白悪魔は不眠の象徴だ。黒悪魔はまだ微妙だった。死そのものにするか。
 彼は母のところへ行って、
 「デバス」
 と言った。このまえ母が以前勤めていた精神病院で母の直筆で120錠もらってきたのだ。
 「いっぺんにはだめよ」
 「もう全部渡して」
 「だめよ」
 「自分で管理するから」
 「仕方ないわね。飲みすぎたらだめよ」
 母は限りなく吉田にやさしく、忠実だった。
 布団に戻ってきて5錠飲んだ。力が漲るのがわかった。
 白悪魔がささやく。ますます眠れなくなる。黒悪魔がほくそ笑む。破滅へ一直線だ。
 その瀬戸際で独身の孤独な主人公は立ち上がる。
 部屋をぐるぐる廻る。頭がガンガンいっている。眠れない。確かチェーホフの短編で『眠い』ってのがあり、背中に赤子を抱えた女のこの下女が眠くて眠くて眠くてたまらなくて赤ちゃんをとうとう殺してしまう短編があったな。
 主人公は図書館に通って魔術学を研究する。白悪魔を撲滅するには。1週間で解答を得る。
 黒悪魔を呼び出し白悪魔を殺してもらうのだ。
 吉田の時計は午前2時を指していた。椎名林檎は相変わらずガンガン頭の中で鳴り響いている。
 デバスを一挙に10錠飲む。
 「白悪魔を殺す条件は? まさかおれを殺すというのではないだろうな?」
 「とんでもない。お決まりのこの種の取引ですさ」
 「何だ?」
 「知性も判断力も頭脳の持っているあらゆる機能を失ってもいいですか?」
 「日常生活はできるのか?」
 「できます。ただし」
 主人公はいっそ黒悪魔を殺したいほど眠りたかった。
 「愛が失われます」
 「どうってことない。ひとりだし、孤独だった」
 「魂をじゃいただきます」
 「本当に白悪魔を殺すのだな?」
 「もちろん」
 「なんで?」
 「あなたの魂から作った剣で心臓を一突きに」
 「いいだろう」
 黒悪魔は魂を抜きだした。紅いどくどく言う心臓はやがて炎となり長い燃える刃となった。
 「これこの通り」
 白悪魔がいつの間にか横たわっていた。黒悪魔は剣をその心臓に深く深く突き立てた。
 その瞬間主人公は眠りに就いた。深い昏睡とも思える眠りだった。
 さてと吉田は思った。起きたとき主人公はどう変わっているか?
 ふと時計を見るともう朝の6時になっていた。これで4日目だ。完徹は。
 彼はデバスを15錠飲んだ。
 何としても終わらさなければ。
 (完)に持って行くんだ。
 主人公は目覚める。恐ろしくお腹がすいているのに気付く。日付を見ると4日間昏々と眠っていたのに気付く。微笑んだ。料理を作ろうとして一切どの料理もできないのに気付く。自炊してきた彼なのに。いいさ。弁当を買ってくればいい。財布を見てお金がいくらはいっているのかと計算できないかに気づいた。ドアがガンガン言う。大家が開けたら立っている。出はいりがないのでと言うのに「うるさい!」と彼は言ってドアをガシャンと締めた。あんなに優しかったのに。一言も声を荒げたことはなかったのに。   (完)
 
 吉田は3日後任意入院させられた。母と弟が付き添っていた。いつもの精神科医はまず聞いた。
 「デバスを抜くからね。薬物依存の完全な典型だ。どうかね?
 吉田はぼそりと呟いた。
 「白悪魔って、白衣の精神科医だったんだ」
 母が袖を引っ張った。
 「もうわけのわからないことを。ずっといい続けなんですよ、先生」
 「じゃしばらく入院しようね。眠れなかったようだから注射を打ちますよ」
 「いや・・・」
 吉田はもう完全に理性を失っていた。魂が抜け出ていた。
                                                    (完)
 
 
 
 医局で精神科医のインターンは看護師に言った。
 「吉田の症状は、完全な痴呆か、短期記憶喪失者かわからないんだ」
 「どんな症状を示すの?」
 「今やったことを次の瞬間には忘れている。何を聞いても分からない。おそらく知能指数は幼児並みだ。1プラス1もわからない。しかし幼児でもいまやったことの判別くらいわかるはずだ。それがさっぱりない。痴呆かな」
 「病歴は?」
 「統合失調症。アルコール依存症。薬物依存症」
 「しっかりしていたのでしょ?」
 「しっかりしていた。20年入退院を繰り返していたが、まともだった。病人らしく、普通人に近かった」
 「いつ搬送されたの?」
 「一昨年の11月だ」
 「そのときはどうだった?」
 「そのときからだ」
 「治療法はあるの?」
 「難しい。このまま一生出られない可能性が大きい」
 「治療費とかは?」
 「不思議なことに噂が立っている。入院直前に2億円の宝くじが当たったみたいなんだ。弟が世話してる。63歳だ。2億円あれば一生ここにいても困らないだろう」
 
 吉田はまどろんでいた。2010年の11月7日だった。
 突然電話の音で目が覚めた。
 舌打ちをして受話器を取った。
 「吉田考明さんですね?」 
 「セールスはお断りだ。どこでおれの名前を知ったか知らんが、一切セールスは受け付けないことにしている」
 「私は悪魔です」
 これには返事を返さなかった。
 「今あなたは危機的状況にいる。薬物の量は増えるばかりだ。溜めこんだ薬を大量に飲んでいつも酩酊状態だ。死ねたらいいと自殺防止センターに何度も電話をかけつながらないでいる。タオルで首を絞めて自殺まがいのことをしているが、死に切れないでいる」
 「何の話だ」
 吉田は呂律の廻らない口で問い返した。
 「この世でなければどこにでも。ボードレールの文句でしたかな。あなたは教養もあるからご存じでしょう。あなたは精神病院へ行く気持ちもない。もっと深い絶望のなかにいる。自殺一歩手前だ。しかし自殺をする勇気もない。心の奥底ではもっといい解決法を見い出そうとしている。その解決を私にお任せ下さい」
 「何をしても無駄だ」
 「自殺一歩手前の魂は高く売れましてね。万事怠りなくあなたの願いをかなえます」
 「おれの願いは死ぬことだ」
 「死と同然なら?」
 「どういうことだ」
 「私にお任せ下さい。お任せする前にお気持ちをもう一度確認します。この世でなければどこにでも。このお気持ちに変わりはないですね?」
 「ああ」
 「薬は今日はどれくらいお飲みになりました?」
 「リスパドール17服、ワイパックス20錠。そこらに転がってた睡眠剤もかき集めて飲んだ。ふらふらだ」
 「致死量ですぞ」
 「胃洗浄は一度やってこりごりだ」
 「結構。私が解決法を按配します」
 かろうじて残っている理性で吉田は答えた。
 「病院に入院する金もないんだぞ。それに弟も借金で首が廻らない」
 「万事お任せ下さい。弟様には電話を入れてあなたの引き出しに入っているあるものをお教えしておきます」
 悪魔は言った。
 「この世でなければどこにでも。精神病院ほどうってつけの場所はありません」
 「病院に行くくらいなら自殺した方がましだ」
 「それも按配します。私とご契約なさりますか?」
 「この絶望から逃れられるなら、それに死なないで済むのなら、契約してもいい」
 「契約成立。後ろを振り向いてください」
 吉田は言われたとおりのろのろと振り向いた。
 「確かに悪魔だ・・・」
 思わず呟いていた。
 「では魂を抜きとらせて頂きます」
 悪魔は吉田に屈みこむと心臓のあたりにずぶずぶと鉤爪のある手を入れた。
 「真っ赤な心臓だ。まだ動いている。これは幻覚で、魂は心臓に見えるのです。でもあなたにはもう聞こえも見えもしないでしょう。では失礼します」
 赤い血を滴らせた心臓をビロードの黄金の小箱に入れてガウンのなかに仕舞うと、悪魔はドアを開け出ていった。
 しかし吉田には一切何も分からなかった。気を失っていた。
 
 インターンが看護婦に言った。
 「時折思うときがあるのさ。この患者は正確に言って見れば魂を失ったも同然じゃないのかなってね」
                                                               (完)     

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