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親父そしてイクオールおれはどこにでもいるということだ。
どっかで、天に向かって叫び立てたくなる瞬間を持っていない人間というのは、いないんだ。誰もがあ
る瞬間、この世界に呪詛をエンエンと吐き出す、その寸前まで行く経験をしている。
−誰もがそれに耐えなきゃならないってことだ。
―もちろん、何かある、この短い人生には何かある、ということを時折り考える。こうじゃなかったは
ずだ、もっと別の人生を送れたはずだと考える。
おれにはそれが表現だった。この、自らの手で紡ぎだす小説だった。
それが、何か別のもの、輝くものを約束するかのようで、おれには離れられなかった。
しかしおれは昨夜…心底から知った。
生まれ、婚姻し、子をうみ、育て、老いた無数の人たち。彼らの貧しい食卓。暗い信仰…その夕暮れ。
それが畏るべきだということを。
結局、日々生き、そして黙って、時折りあぶくのように言葉をつぐむ、いつも沈黙の中に生きている無
数の人たちーおれのお袋のような、そしてお前のお袋のような―そして途中でとうとう耐え切れなくて叫
び出したけど、じっと三十年間耐えてきたおれの親父、そういった無数の人たちのほうが、おれのミュー
ズなんかよりはるかに重いってことだ。
芸術が何だ、おれはそれを唯一のものにしてきた、そいつがおれから、眼を、耳を、おれの口を奪って
も、じっと耐えてそいつに奉仕してきた。
ところがおれは昨夜、親父のようにすべてが空っぽだったことが分かったんだ、
ミューズは残酷だ、いろんな言葉で人を誘い込む。残るのは何だ、空っぽのおれだ、ミトカとティミィ
だ、
昨夜気付いた,
お前もおれもそしてお袋も親父もすべて等しなみなんだ、
おれたちはただ耐える以外ないんだ」
ミトカは息を切らして黙りこんだ。
朝の陽がキッチンの窓から降り注いでいた。
リトがゆっくりコーヒーを最後まで飲み干して言った。
「お前は空っぽで死ぬのが怖いのか?」
ミトカはそれを考えた。静かに。
「ああ、怖い」
彼はそう答えた。
「おれも怖い。
刑務所で死ぬか、銃で撃たれて死ぬか、どう転ぶかわからないが、ろくな死に方をしないだろう。野
良犬のようにくたばるだろう。
その点、お前と意見が一致するわけだ。
耐えて生きる?
お前の考えていることがわからないが、多分そうなんだろう」
「おれはお袋のように生きるよ。これから。いつもじっと優しい眼をして、静かに」
「今朝お前はギラギラする眼をしていない。それがいいことか、悪いことか、おれにはわからない」
「いいことさ」
「ああ―そうかもしれないなー金を持ってくる。待っててくれ」
ミトカは待っている間、何か自分に残っているか考えた。何もなかった。
リトが帰ってきて、白い封筒を渡した。ミトカはそれを背広の胸ポケットに入れた。
「ありがとう。おれは帰る。仕事を探す」
「ああ」
「じゃな」
ミトカはドアを開け、やや暖かくなった空気の中、リトの邸宅の道を歩いて行った。
「ミトカ!」
リトの呼ぶ声がした。金を返せとでもいうんだろうか?
ミトカは振り返って
「ああ」
と大声で答えた。
「お前はまたいつか書き始めるよ」
(完)
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