大陸にて

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エコ・ロゴス

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エコ・ロゴス10

 なぜ、人は殺してはいけないのか。殺害の禁止理由は、生命体である私を基軸にするならば、論理的には語り得ない。

 殺害を禁止する理由を見つけ出すことは、無意味である。
 なぜ、生命体が存在するのか、なぜ生きるのか、これを私たちの言語で抑えることはできない。であるから、その存在を殺害することの禁止の理由、根拠を見つけ出そうにも虚無へと拡散してしまうほかない。

 他者の殺害を禁じることの釣り合いをとる理由として、超越的なものによる絶対禁止というものが、有効になってくる。宗教である。

 多くの宗教のもともとの根底にあるものは、存在に対する畏れをてことしての、人間の人間に対する殺害の禁止装置であるという風に考えてもよいのではないだろうか。存在そのものが言語以前のもの、あるいは言語を越えたものであるから、殺してはならないことの理由が、言語で、つまり論理で語ることができない。だから、神が禁止しているからだと、絶対禁止にしなければならないのである。

 法で殺害を禁じることができるのか。存在の根拠は言語の埒外にあるので、法言語の主語である存在を否定することだから、法が成立しないという理由がある。だから法の実質上の発語者であり根拠である国家による殺人は禁止されない。すなわち、戦争と死刑である。

死刑。死刑に反対するのはそれが国家の暴力であるからという理由に基づくものではなく、何であれ人を殺してはいけないという禁止に対して侵犯が起こってしまった場合、その行為者を殺すことは禁止の矛盾になるからだ。

 問わなければならぬのは、なぜ人を殺してはいけないのか、ではなく、生存すること、他ならぬこの<わたし>が、おそらく<わたし>とは別の他ならぬ<わたし>で構成された世界の中に場所を占めること、存在の確保である。

性をもった存在が、多様な他者とともに関係性の連環のなかで、生きること。エコロジーとは、生きることだ。

 戦争に反対するのは、他者を殺害し、自己を殺害の対象に置くことを強要されるからだ。死刑に反対するのは、国家が殺人を執行するという矛盾からでもあるが、罪を犯した者が振り返り、悔いる機会を奪うからである。貧困を問題とするのは、それが構造的暴力であり、緩慢で静かな虐殺であるからである。

 生きるとは、ともにあることであり、倫理とは、生きようとする意志のことだ。
                                        (完)
 
 
 

 フリークス。超肥満な男とガリガリに痩せている女性は見世物になった。
 女性の身体は生殖・出産との連想により、自然の神秘と増殖のイメージが結び付けられる。
 男性の痩せぶりは欠如、閉ざされた節制禁欲を暗喩する。


 フランツ・カフカの「断食芸人」。他者を拒絶し、内部の世界を生きる。芸人は死んだ。

 拒絶を生きる断食芸人には、内側の生のみで自足し、その身体を生き切ることは、あらかじめ不可能なのであり、自らの内部に墜落していくしかない。
 なぜなら、拒絶である限り、それでありながら、観客を必要とする限り、彼は法の内部にとらわれているのであり、何物からかも逃れているわけではなく、管理の下にあるからだ。
 自らの内部に墜落していってはいけない。
 そうではなく、たとえ檻の中に捕らわれながらも、観客の眼差しとは一切かかわりなく、愚鈍に生きること。
 たとえ餌であっても、堂々と臆面もなく平らげること。
 歯の隙間に自由を隠し持つこと。
 そこに身体を使いきり、生き切る充溢がある。

1850年の時点では、全米に生き残っていた先住民は推定わずか30万人、ヨーロッパからの移住者とその子孫たちは、その百倍の3千万人といわれる。

絶滅しかかった部族の最後の一人が捕まえられ、彼はイシと呼ばれた。シオロード・クローバーによる「イシ 北米最後の野生ディアン」は人間がいかにひどい行いを行うかということを物語っている。と同時に、勁(つよ)い精神を持ちうることを示す。

生物種は8000万種いると推定されるが、一時間に三種というスピードで絶滅していき、その原因は人間の営みによるものである。

言語はそれを操る人々と環境に依存する。現在の先進国の環境の破壊と支配は、生物―言語多様性を破壊していることと同義になる。

言語には突然死と自然死とに分けられる。突然死は話者が死に絶え、言語も完全に死滅する。自然災害、先住民の絶滅などによる。自然死というのは言語が数世代を掛けてゆっくりと死にゆくことである。

舌は、痛みを感じながら他者が腐敗し害毒を持つかどうかを見分けると同時に、他者との交通の喜びを味あうものであり、その快楽の記憶を呼び起こすものであり、そして、そのように使うべき器官なのである。(舌は食事の味覚に関係するものであり、舌を有する口は他者の取り入れに敏感である)

ヴェルナー・ヘルツォークの『小人の饗宴』(1970年)が視るものに抱かせる、不快感、嫌悪感とは一体なにか。ここで繰り広げられているのは、目的をもたない、叛乱のための叛乱であり、したがって(日本版タイトルである)饗宴としか云いようのない、馬鹿馬鹿しい何もなさ、である。小人たちの暴力や、豚の殺戮など。


一見、すべては無意味さの羅列が投げ出されているだけであるかのように思わされる。
だが、ここで繰り広げられている愚かしさは、私たち正常な人間社会の寓話である。確かに映画で繰り広げられているこの程度の暴力は、実は、世界の至る所にありふれている。世界は、だらしなく、混沌としていて、乱雑だ。一体、これをおぞましいと眼をそむけることのできる、穢れなきものは、何処にいるだろうか。


死ぬことすら、おそらく簡単だ。もし苦痛がなければ。だが、苦痛はある。在る、のだ。気がつかれていないだけで。私たちは、そこを耐え抜いて、生きること、生きなければならないこと、いやすでに、よろぼっているかもしれないが生きていること、そこから始めなければならない。


人食いということであれば、おそらく、雑食の道を進み始めた私たちの遠い祖先たちは、いざという時には、すなわち最低限のタンパク質摂取にすら問題をきたしたとき、同類食を行っていたと考えても、全く不思議ではない。


旧石器時代後期の平均寿命は、男性33歳前後、女性はそれよりも5歳ほど短い。この数字は20世紀後半の第3世界の貧しい国々の数字、あるいは20世紀初頭の米国の白人以外の男性の平均寿命とほぼ同じである。


3万年前の平均身長は成人男性が約177センチ、成人女性が約165センチであったのに対し、農耕が始まる1万年前のそれは、成人男性が約165センチ、成人女性が153センチとまりと推計されている。


以外と食人行為は現在でも異常時には行われている。ただ、恒常的に同類食をしていると、群れが崩壊し、感染の危険性も高くなる。平常時には、群れを維持する方が、個体生存の確率が高まるので、しないのである。つまり、殺害にしろ、同類食にしろ、私たちの世界には、何でも起こりうる。ここには、善悪や正邪の階梯はない。意味がない場所であるから、意味を付与することが棚上げされているから、である。


意識に関するベンジャミン・リミットを中心とする一連の実験。実験では、準備電位が発生し、被験者が行為の開始を意識し、それから行為が実行されるという順で進行していくことになる。とすると、自分で意識的に行動を決意したつもりでも、実際はその0.5秒前から脳は始動しているわけで、意識が行為を始めているわけではないことになる。感覚経験であれ意思決定であれ、意識が生ずるには0.5秒の脳活動を必要とする。衝動は制御できない。しかし、行為は制御できる。


刺激の受容から、あるいは意識決定の脳の準備から、意識が生じるまでにかかる0.5秒の遅延。そこに、いたたまれなさの嘔吐がこみ上げてくる、そこに賭ける。


<わたし>は、偶然の中をよろばい、たどたどしく、ぎこちなく、どれほど無様であっても<わたし>として生きていると意識している。そうでしか、生きられないのだ。


この<わたし>が、他者の苦痛の痕跡からも成り立っていることの、応答としての嘔吐。もう、これ以上の苦痛を世界にあらしためたくない、それでも起こってしまったことに対して、たといそこに<わたし>は不在であろうとも、苦痛を共有したいという賭け。なされぬまま潰えようと。知られぬまま、消え果てようと。


骰子一ちょういかで偶然を廃棄すべき(S・マラルメ)

エコ・ロゴス5・2

ふるさとに似た場所

 他者と時間や空間の一角を共有しており、ある程度共通の利害関心を持っている条件が前提とされるのが、「故郷」の生活なのだ。これまでもそうであったように、これからもそうであろうこと、そうしたことが仮定されていること。そのためには<わたし>は、とにかく「社会関係」の中に、継続的かつ定まった座標点を持たなければならないだろう。

繰り返しが不可能であると感じるときは、つまりは、死がそのおぞましさを持って立ち現れるときである。

ふるさとは、<わたし>が不在である限りにおいてのみ、ふるさととたりえるのである。

<世界>が<わたし>にいかに無関心であり<わたし>は<世界>にとって何らの意味を持ち得ないということは当然である。<わたし>が死んでも、世界は何ら関心を示すことなく続いてゆくだろう。これまでがそうであったように。

「お前はそれでよかったのだ」と受け入れ、認め、許し、許される愚かなるふるさとを夢見ているのだ。

<ふるさと>を母胎に換喩することは、きわめて情緒的に見えながら、その実なにがしかの意図が隠されてもいることがあるのである。<おとこ>のやり口が見え隠れしている。

生において、完結するものは何もなく、たどり着くべき終点はない。仮に目的とされる地点を設定しえたとして、そこに到達しても、人生は続く。私にとってはあらゆる道程が途上である。

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