大陸にて

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歌人、歌論

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 よく行く古本屋である日、100円均一コーナーで、国文社の『現代歌人文庫』シリーズが大量に売られてあった。もちろんすべて買ったが、中に、この安永蕗子だけはセロファン紙で丁寧に包装されていた。
 他の歌集は大概読んだが、何か小難しそうで安永蕗子だけは後回しにされていた。
 今年に入ってある日、『魚愁』のおさめられている安永蕗子を何げなく手に取った。
 セロファン紙は面倒でバリバリ破いてしまった。
 そして、傾倒の日々が始まったのだった。
 先ず捉えたのは、彼女が貧しくて、不幸であるらしいとの感触だった。
 掌の中に温石(おんじゃく)ひとつ小さくて吹雪く売り場に貧しかりにき
 ひと掴みばかりの米をしらげおきわが世果つるとみづからの声
 貧しければ心堕(お)ちると思ふときラジオ鳴らして来ると擦れあふ
 売り上げし銭を数へて夜を更かすおほよそに浄き生きと思わず
 ながかりし病の後を生きつなぐしづけき生も呼ばむ戦後と
 彼女がかって6年の病の日々を送ったことは後で知った。それも胸部疾患だったらしいことも。その歌作は昭和26年病臥中に始めた。「ふゆのうしお」という総合誌の登場はその数ヶ月後である。そして30代半ば、人より遅れて出発した安永蕗子は、「戦後新鋭100人集」に自選62首をもって参加し、同年9月、「棕櫚の花」50首で第2回角川短歌賞を取ることになる。
 むろんそういった知識は解説で知った。それよりも前に作品に、私に似た、貧しい、不幸な人がいるみたいだと感じて引きこまれていくうちに、いわば深みにはまってしまったのである。
 鮮らしき果肉に爪をたつるとき杏さかしき香を放つなり
 紫に巷の甃(いし)の暮れゆけば眸子(ぼうし)かげると思ひつつ寂し
 泡だてて白き卵を嚥むときも卓に聖女のごとき左掌
 水曇る夕べの岸にひしひしと人が劫(カルバ)のごとき石積む
 並々ならぬ博識を背後に想わせる凛とした作品群である。
 貧乏に惹かれたと言ったが、戦後林檎倉庫に棲まざるを得なかった斎藤史の歌のようには貧しさを歌っていないことにも、両者を読み比べて知った。単なるリアリズムとは程遠い、上に挙げたような通俗に決して陥らない美しさをもっているのだ。確かに難解である。しかしその難解のなんと魅惑的なことだろう。私たちはいや私はその1首に展開する内在化された小気味よいリズムに何よりも惹かれる。その断定に小気味よさを感じる。難解さすらそのリズムに乗って理解される。
 蕗子自身は、「解り易く表現するために、おびただしい散文的な文体をもつ内心の感動がひとつの変わったフォルムになってくることがある」と述べている。
 私はとにかくいかれてしまった。そして私自身がなんと短歌を知らない男であったかを、あのセロファン紙で痛烈におそらく歌作などはしていないだろう古本屋の店員に教えられた気がする。
 府立図書館から『安永蕗子全集』を取りよせてもらった。(しかし生前に『全歌集』とは、やはり特別に一目置かれている安永蕗子らしい)この上は購うのみである。
 貧乏で不幸な私であるが、工夫すればこの高価な本をネットの古書市で買うくらいの金は捻出できる。その時私は決して不幸でないだろう。大きく息を吐き、喜びに打ち震えることだろう。
 まだ安永蕗子の魔力の下に徹頭徹尾いる。彼女の1首から歌をつくった。10首あれば10首と。それほどの凝りようであった。今は読み流していけるが、それでも1集1首読むたびに快感のため息が漏れる。その断定。そのリズム。その難解さ。
 『安永蕗子全歌集』を読み切り、再度読み、そしてそれからどこへ行くのか、それはわからない。なにしろヴァレリーも言っているように「巻き込まれていることは、表現できない」のだから。
                                                          (とりあえず完)
 竹山広氏が今年2010年3月30日、慢性閉塞(へいそく)肺疾患のため死去された。90歳だった。謹んでご冥福をお祈りします。
 平成13年刊行『竹山広全歌集』より第一歌集「とこしへの川」を読んだ。
 「悶絶の街』の小題があって「昭和20年8月9日、長崎市浦上第一病院に入院中、1400メートルを隔てた松山町上空にて原子爆弾炸裂す」という詞書がある冒頭4首。
 なにものの重みつくばいし背にささへ塞がれし息必死に吸いぬ
 血だるまとなりて縋りつく看護婦を引きずり走る暗き廊下を
 逃げよ逃げよと声あららぐる主治医の前咳入りざまに走り過ぎたり
 這伏(はいふく)の四肢ひらき打つ裸身あり踏みまたがむとすれば喚きつ
 息の詰まるような衝撃を受けた。客観に徹して隙もなくその瞬間を再現している。凄まじいほどの臨場感である。
 竹山氏の事情は詞書にあるとおりである。結核の病も癒えた氏のその日は退院予定日だった。咄嗟にベッドの下に伏して比較的軽症だった氏は、兄が迎えに来る予定だったので兄を探しに出て、上半身火傷の兄と会う。その兄も死ぬ。
 ふさがりし瞼もろとも手におしひらき弟われをしげしげと見き 
 附着せる皮膚もろとも脱ぎ捨てしシャツにたちまち群がれる蠅
 亜鉛華軟膏ぬりし半顔白く浮く息絶えて闇にしづまりし兄
 そして被爆者たちの惨状と一つの救い。
 暗がりに水求めきて生けるともなき肉塊を踏みて驚く
 人に語ることならねども混葬の火中にひらきゆきし手のひら
 死の前の水わが手より飲みしこと飲ましめしこと一つかがやく 
 書き写すのも辛い。言葉を失うのみである。
 インタビューで氏は語られている。
 「『原爆詠は相対的なものでは』物足りない。一人一人の死がありありとしているわけですから、それをうたおうと思っていたのです」(「歌人の原風景」三枝昂之)
 しかしつくるのに10年を待たねばならなかった。直後書こうとしても悪夢が襲い、結核にかかり死を乗り越えた後やっと書けるようになったという。悪夢も消えたという。
 10年という歳月が、そして一人一人の死の具体性、個別性が、氏の歌を単なる詠嘆から遠ざけ、主観を排した客観性を持たせていくという方法に貫かれるものになったのは、挙げた歌で明らかだろう。
 養鶏業、印刷業と「体を苛(さいな)むように働いてきて」(前掲書)昭和56年に「とこしへの川」が出版されるのである。
 ともかくも、8月6日広島に原爆が投下され軍部が情けないくらいの対応の遅さを示す中、ついに3日後、スウィニー機長が操るB29機よりプルトニウム型「ファットマン」が投下される。死者7万3千884人、負傷者7万4千909人、羅災者12万8千200人(「長崎市政65年史」)の惨事である。
 いついかなる時代に平和ありきやとおのれに問ひてこころくずれゆく
 氏のこの深い絶望は現代の私たちの絶望でもある。しかし一歩を踏み出さなければならない。そして「とこしへの川」第1集を含む氏の全9歌集が、被爆国日本が遺す貴重な証言であることを全世界に対して発信していくべきである。
                                                 (完)
  
 また頼まれたコラムのことを考えると眠れなくなった。
 この際だから、頭にある下書きを書きつけておこうと思う。
 原爆歌人竹山広である。折りから『短歌』来月7月号では「竹山広」特集を組む。
 私の載る竹山広のコラムは9月号になると思う。
 私なりの竹山広のコラムのアウトラインを描いてみた。
 1.まずなくなったことをに哀悼を表し、最後の作品1首でも取り上げる。
 2.冒頭の描写を上げる。とにかく凄いの一言に尽きる。原爆投下を受けた瞬間の描写である。衝撃を受けたことを伝える。そしてそれに触発されて林京子『ギャマン・ビーロド』、原民喜『夏の花』を読んだことを記す(どちらも今から読むところである)。散文の力と歌の力の違いを論ずる。
 3.やっと歌えたのが10年後であることを記す。
 4.フランクフルトの『夜と霧』を出して一方が知性で収容所の記憶を克服したことと竹山広が歌で原爆の記憶を乗り越えたことを記す。「創造的な価値や体験的な価値を実現化する機会がほとんどないような生活―例えば強制収容収容所におけるがごとき―でも、人間がいかなる態度をとる点をとるかにおいて倫理的に高い価値の行為の最後の可能性を許しているのである」歌は創造的価値の体現である。広義にとれば「組織的虐殺」の意味を有するホロコーストは竹山とフランクフルトをつなぐ共通点である。
 5.原爆だけでない日常が長い生涯にも淡々と続いたことを示すlこと。
 これでは3枚半のコラムを食み出しそうである。それでも整利点を示しえてよかった。
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 何といっても正岡子規は俳句の人である。35歳の短い生涯に2万3千句になんなんとする俳句を作っている。歌は2千3百首余である。
 その決して少ないともいえない歌の、歌人としての子規を取り上げるとすれば、真っ先に念頭に浮かぶのが、明治31年(31歳時)に発表した『歌よみに与ふる書』だろう。『芭蕉雑談』で俳句に新風をもたらそうとした子規が短歌に革新の烽火(のろし)を上げた。一部を引用してみる。
 「歌よみの如く馬鹿な、のんきなものは、またと無之候。歌よみのいふことを聞き候へば和歌ほど善き者は他になき由いつでも誇り申候へども、歌よみは歌より外の者はなにも知らぬ故に、歌が一番善きように自惚(うぬぼれ)候次第に有之候」。
 『歌よみに与える書』10篇を通じて、子規は唯一の基準を文学的な価値に置き、第二義的な付属的条件は一切これを排除した。そしてその価値とは反響の手紙に答えた『人々に答ふる』にあるように「善悪の外にさえ美を求める」こころであり、と同時に、客観的「写生」を重んじるものであった。また、俳句と短歌の違いを、短歌は俳句が「空間的」なのに比して「時間的」だともした。
 警鐘を鳴らしたばかりではない。実践して「百中十首」(100首から諸友の選者が10首種を選ぶもの)を次々と発表していった。
 人住まぬいくさのあとの崩れ家杏の花は咲きて散りけり(日清戦争従軍時)
 菅の根の永き春日を端居して花無き庭をながめくらしつ
 病みて臥す窓の橘咲きて散りて実になりて猶病みて臥す
 歌会も始めた。線香を立てた。「線香一本の間に出来たる10数首の中に佳汁(かじゅう)多きは実際経験したる人の知るところなり」今では考えられないことである。
 「百中十首」の後も次々と歌を発表し、また歌会も定期的に開いた。
 明治33年5月の歌会で作った「雨中庭前の松」中の
 松の葉の細き葉毎に置く露の千露もゆらに玉もこぼれず
 は、連作短歌という表現形式の嚆矢(こうし)と言われている。
 友にも恵まれた。有名なところでは夏目漱石、日露戦争の日本海海戦の参謀となった秋山真之などが挙げられるだろう。
 子規は明治29年、29歳のときカリエスとの診断を受け、以後病床に伏した。明治34年『墨汁一滴』」を「日本」紙上に書くことを開始したが病状が悪化。腰や尻に膿の出る穴が開いており、そこを包帯でくるんでいたが、妹が毎朝、40分から1時間をかけてその包帯を取り換えた。子規は泣き叫びながらその包帯取り換えに耐えた。そのことを子規は次のように言っている。
 「をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。併し痛の烈しい時には仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、または黙ってこらへて居るかする。其中で黙ってこらへて居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる」。
 その子規の「墨汁一滴」に発表した一連10首の中の1首目
 (かめ)にさす藤の花房みじかければたたみの上にとどかざりけり
 はあまりにも有名である。単に客観の歌として取り上げた評者もいたが、やはり病者の深く、切実な悔しさの「止みがたい主観の声」(斎藤茂吉)を聞くべきと思う。
 そして苦しみぬきつつ澄んだ歌境の域に達した「しひて筆を取りて」の絶唱とでもいうべき一連。
 いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす
 病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花を見れば悲しも
 世の中は常なきものとわれ愛ずる山吹の花散りにけるかも
 子規は35歳の短い生涯に俳句はもとより小説、新体詩、漢詩を作り、また評論や紀行、随筆、日記、写生文などをものにしている。子規のブームが一般人に一時的でないのもその生涯の上に立ってであろう。
 最後に私が偏愛する子規の俳句の二首を挙げる。
 涼しさうな處をよって行き給え
 月一輪星無数空緑なり
 
 **短歌結社誌「どうだん」4月号に掲載するために書いたコラムに手を加えたものです。                 
 名は知っていたが、重信房子さんがこれほどのスケールを持った左翼の女性なのかということを、『日本赤軍私史』で初めて知った。その彼女が逮捕されてのち、獄中で『ジャスミンに銃口を』を出しているのを知り、遅ればせながら(2005年幻冬舎刊)取り上げることにした。
 先ずは略歴から。1945年9月生。高校を卒業して会社に入り、明治大学二部(夜間部)に入り詩をつくったりしたが、それがこの短歌の素地になっていると思われる。1967年学生運動に加わり、69年赤軍のメンバーとなる。71年に「国際根拠地論」に基づき、パレスチナに発ち赤軍派の海外基地をつくる。70年代から80年代にかけてPFLP(パレスチナ解放人民戦線)などと連携し、リッダ闘争と呼ばれる日本赤軍の奥平剛士(彼女の夫)、安田安之、岡本公三が起こしたイスラエルのテルアビブ空港内での乱射事件(前者2名死亡)、一連のハイジャックに関わり、そして実際に戦闘にも参加した。2000年11月8日大阪に潜伏したところで逮捕され、今は獄中の身である。
 歌に入ろう。「炎」と小題のついた歌から。パレスチナを回想して書いたものである。
 秋晴れのぶどう畑とアーモンド アラブの日々を恋うる夜更けよ
 銃口にジャスミンの花無造作に挿して岩場を歩きゆく君
 この「君」は奥平(アラブではバシーム奥平と呼ばれていた)、夫を詠んだ歌だろう。
 上弦の月に照門照星を合わせて静かに指令を待ちぬ
 つつましく家にひかえるおみならが戦士となりてカラシニコフ撃つ
 そして夫の死。「宙」の小題に。
 体液がどっと一気に流れ出す君の死知った五月の夜よ
 男が泣くおいおいと泣く哀しみは君のつよさの思い出となる
 歌を詠み君を辿ればあの日のまま髪なびかせて君は立ってる
 むろん夫のみではなかった。戦友を次々と喪った。日高敏彦はヨルダン当局の手で殺され、2002年3月30日(「土地の日」…1976年同月同日イスラエルによる農民虐殺・土地収奪に抗議しパレスチナ人数十万人が蜂起した日)橧森孝雄は、日比谷公園でわが身を焼き自死した。
 残りの三小題「海」「土」「風」は獄内、法廷などの日々を描いたものである。
 独房の中は苛酷である。
 感情をこらえる術(すべ)は独房でオレンジの身に爪たててかぐ
 思い切り三畳独居に四肢のばし世界の行方(ゆくえ)を予測するわれ
 重信は2001年4月東京拘置所のより外気から遮断された独房に移された。
 時として密封パックの囚人はトマトをがぶりとかじりたくなり
 三年後輩の私にもなじみ深い次のような歌もある。
 地を揺らし線路踏み行くジグザグのデモに託した二十歳(はたち)の夢よ
 著書『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』にあるように、娘メイの実に心優しい母親でもある。
 ただ最後にはやはりこの歌を挙げよう。
 二つ三つさらに多くのベトナムを! ゲバラに続けと我ら日本発ちたり
                                         (完)
    私の所属する短歌誌「どうだん」1月号に発表される予定のコラムです。

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