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2011年9月に登城した群馬県沼田市の沼田城跡です。 断崖絶壁の高台にあるここに五層の天守があったとの事で、 イマジネーションを掻き立てられる城跡でした。 ▲沼田城入口 沼田市街の中にある沼田公園として保存されています。 ▲沼田城「三の丸」について 〜現地解説板より 城(城の敷地全体)には本丸・二の丸・三の丸といったその場所ほとの命名がされており、この場所は江戸時代の「三の丸」にあたります。 「三の丸」は、東西約380m、最大幅約120mあり本丸・二の丸の南側に位置し、当時「侍屋敷」が在ったと考えられています。 ▲三の丸土居堀 ▲本丸 ▲上野国沼田城絵図(部分) 〜現地解説板より この絵図は、江戸幕府3代将軍家光が正保年間(1644〜1647)に、全国の大名に城の防備体制を絵図に描かせて提出させた、いわゆる正保城絵図の一つで、真田氏4代城主信政の時代の沼田城と城下町の様子が分かる非常に貴重な資料です。原図は国立公文書館内閣文庫に所蔵され、大きさは1.76m×2.34mもあります。 絵図には、城を中心として石垣の高さ、堀や土塁の規模、堀中の流水の有無や城下町の道程等兵法上の秘密となるべき事柄が克明に記されています。真田氏が改易になる天和元年(1681)まで存在していた天守や櫓及び城門等の形態を知ることができます。 ▲沼田城天守 〜現地解説板より 沼田城の天守は、真田氏初代城主となった信之(幸)が慶長年間(1596〜1614)に建造したと伝えられ、城絵図や古文書から規模は柱間で9間×10間(推定18m四方)の5重であったとされています。天守は、この右奥に位置していたと考えられますが、幕府に提出したこの絵図によると、天守東の石垣は堀の底から8間もの高さがあり、屋根には千鳥破風(三角形の屋根)が多くみられ、最上階には高欄が巡っていた様子が分かります。関東における5重の天守は江戸城以外は沼田城だけであったことや、天守付近から金箔瓦(金箔を張った瓦)も見つかっていることから、関東において沼田城は特別な城であったと考えられます。 この名城も、残念ながら5代伊賀守が天和元年(1681)に改易となった後に、幕府によって全て破却されて、以後、天守や櫓は再建されることはありませんでした。 沼田城の別称(倉内城・鞍打城・霞城) ▲利根英霊殿 ▲鐘楼 〜現地解説板より 真田氏が沼田城主時代は城内に建てられていたが、廃城により取りこわされた。明治20年ごろ沼田町役場(藩役所跡・現市役所)東北隅に楼を建て、柳町歓楽院の梵鐘を借りて時の鐘にした。十年後に楼を修復した際その鐘を返し平等寺で保存の城鐘を懸け替えた。 以来鐘楼は鐘撞堂と呼ばれ、戦時下にも供出をまぬがれたその鐘の音は、永く市民に親しまれてきた。昭和39年市役所庁舎建設に際し撤去されたが、市民の熱望により城の本丸跡のここに移して復元新築された。 ▲沼田城関係年表 ▲沼田城復元絵図 ▲沼田城跡西櫓台の石垣・石段 〜現地解説板より 天文元年(1532)頃に沼田顕泰によって築かれた沼田(倉内)城は、上杉・武田(真田)・北条氏などの有力大名の狭間にあり、その属城として幾多の変遷をたどってきたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡以降は正式に真田氏の所有する城となった。真田昌幸の嫡男信幸は、初代城主として城郭の大改修を手がけ、慶長年間(1591〜1614)には五重の天守をはじめ各種櫓や門などを建造して近世城郭として整備を行った。しかし、天和元年(1681)に真田氏が改易になると城は壊された。その後、本多・黒田・土岐氏と城主は代わり明治を迎えたが、城の本格的な復興はなされなかった。 発掘調査により発見されたこの石垣や石段は、西櫓台(前方の小高い部分)に伴うものであり、出土した瓦などから真田氏時代の遺構と考えられる。5代城主信利(信澄)の改易により、翌年城は跡形もなく破却されたと云われていたが、壊されずに地中に埋められていた部分が、300年以上を経て再び往時の姿を現したのである。 発掘部分石垣石段(全長27.5m 石垣の高さ0.8〜2.0m 石段の幅2.4m) ▲沼田城御殿桜(樹齢推定400余年) 〜現地解説板より 沼田城の天守閣か、五層の雄姿を誇っていたところに植えられ、今に残っている沼田城形見の名木である。 沼田城は初め蔵内城と称した。約440年前、沼田氏12代の沼田万鬼斎顕泰が、3ヶ年かかって天文元年(1532年)4月完成させ、柳町の幕岩城が引移った。 顕泰は三男朝憲に13代城主を譲り、川場村天神城に隠居したが、後妻の子4男平八郎景義を城主にせんと企て、永禄12年(1569年)正月、朝憲を謀殺、ために沼田氏は築城後37年間にて亡びた。 以来沼田城は上杉謙信、北条氏政、武田勝頼、織田信長、真田昌幸、北条氏直の支配時代を経て、天正18年(1590年)真田信幸が城主となった。信幸の夫人は徳川家康の曽孫=養女=小松姫である。 信幸は関ケ原戦に徳川方につき、戦功により父昌幸の所領上田城主を兼ねたが、慶長9年(1604年)この御殿桜の処に3階建の隅櫓(水の手曲輪門)を築造。ついで慶長12年(1607年)今の利根英霊の処に5層の天守閣を築造(間口10間奥行9間)本丸の外郭に土塀を築くなど、名城を完成させた。 それから77年後の天和元年(1681年)11月、5代城主信直が徳川幕府に沼田領3万石を没収され、城跡は跡形もなく取壊された。 名城は姿を消したが、この御殿桜は400年の風雪に耐え、根は古塁の石垣をしっかり抱き、春ごとに寂寥の色をたたえた花を開き、興亡の歴史を語りつづけている。 (その2に続く) ●沼田城 〜現地解説板より
沼田城は、天文元年(1532)に三浦系沼田氏一二代万鬼斎顕泰が約3ヶ月の歳月を費やして築いた。当時蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。 築城して48年後の天正8年(1580)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正18年(1590)昌幸の長子信幸が沼田領二万七千石の領主となり、慶長年間に五層の天守閣を建造した。天和元年(1681)に真田氏五代城主伊賀守が徳川幕府に領地を没収され、翌2年1月に沼田城は幕府の命により破壊された。その後、本多氏が旧沼田領一七七ヶ村のうち四六ヶ村・飛地領合わせ四万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。次いで、黒田氏二代、土岐氏一二代の居館となったが、明治になって版籍奉還し屋形も取り壊された。時を経て本丸・二の丸跡が、現在の沼田公園に変貌した。 ●沼田城の歴史 〜現地解説板より 天文元年(1532年)沼田氏12代の沼田顕泰が築城し柳町の幕岩城から移る。 【上杉氏支配】 永禄9年(1566年)顕泰は子の朝憲に城主を譲り、側室とその子平八郎を連れて川場村天神城へ隠居したが、平八郎を城主にしたいため、同12年正月、朝憲を呼びよせて殺した。顕泰・平八郎は沼田勢に追われて会津へ逃走。上杉謙信が柴田右衛門尉を城代にした。 【北条氏〜真田氏支配】 天正6年(1578年)謙信死去。代って小田原の北条氏政・氏直父子が支配。天正8年(1580年)6月、真田昌幸が入城。翌9年3月、平八郎は沼田城奪還のために来攻したが、昌幸の策に乗った金子美濃守に城内で謀殺され、沼田氏滅亡。 【滝川氏城代】 天正10年、織田信長は滝川儀太夫を城代にしたが、6月信長が本能寺で討たれ、滝川は去り、真田の一族矢沢頼綱城代となる。 【真田氏城主】 天正17年(1589年)真田氏北条氏と和し、北条氏の有となったが翌年北条氏が、真田氏の所領名胡桃城を掠奪したため豊臣秀吉は怒って小田原の北条氏を撃滅し、沼田を真田昌幸に与え、昌幸の長子信幸が初代沼田城主となる。元和2年、子の信吉。寛永12年、信吉の長子熊之助。同16年、信吉の弟信政を経て明暦3年(1657年)信吉の庶子伊賀守信直五代城主となる。 【沼田真田氏滅亡】 天和元年(1681年)11月、幕府は悪政を理由に伊賀守を追放、3万石の領地を没収、五層の威容を誇った沼田城は破却された。 【代官時代】 以来5人の代官が在任。 【本多氏】 元禄16年(1703年)本田正永が城を再建、2代正武、3代正矩が城主。 【土岐氏〜明治】 寛保元年(1742年)土岐丹後守頼稔(寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中を歴任)が駿河国田中から移封されて沼田城主となり、以来12代土岐隼人正頼知が、明治2年(1869年)藩籍を奉還するまで、127年間城主であった。 |
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