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(その1から続く) ▲捨曲輪 ▲天狗堂 ▲天狗面の由来 〜現地解説板より このお堂にある天狗面は、昭和34年11月に迦葉山の大天狗面の分身として沼田市観光協会で製作した。顔の長さ3m、顔の幅2m、鼻の高さ1.4m、重さ1トンで木彫りの天狗面としては日本一の大きさを誇る(彫刻者:吉沢俊三郎氏)。同年、市内の祭りに初めて天狗踊りの行列が登場し、全国でも稀な行事として賑わいを見せた。 天狗面は迦葉山弥勒寺の鎮守である中峰尊者の化身だといわれる。 弥勒寺は嘉祥元年(848年)に創建され、康正2年(1456年)に天巽慶順禅師によって曹洞宗に改宗した。禅師に随行した弟子の中峰尊者は数十年間に渡り不況と伽藍の造営に尽くした。禅師が大盛禅師に住職の座を譲ると、「吾迦葉佛の化身にて己に権化化行は終わった。よって今後は永くこの山に霊し末世の衆生を抜苦与楽せん」と誓願して案山峰から昇天し、後に天狗の面が残されたといわれる。それを中峯尊と称して祭り信仰を集めている。 現在、弥勒寺には地元商工会の有志が奉納した顔の長さを6.5m、鼻の高さ2.8mの日本一の大天狗面が安置されている。 ▲名胡桃城方向の眺め ▲平八石の由来 〜現地解説板より 沼田平八郎景義の首級を載せた石、平八郎は沼田城(蔵内城)を築いた沼田氏12代顕泰の側室の子で、摩利支天の再来とまでいわれた勇将。顕泰は城を嫡子朝憲に譲り、平八郎を連れ川場村天神城へ隠居したが、側室とその兄金子美濃守らにそそのかされて、永禄12年(1569年)正月、朝憲を呼びよせて謀殺。そのため顕泰、平八郎は沼田勢に追われて会津へ逃げた。 平八郎は12年の後、沼田城奪還の兵を挙げて沼田に迫った。真田昌幸は戦っては平八郎に勝てないと知り城中に居た金子美濃守をだました。貪欲な美濃守は己が栄進したいため平八郎に会い武装を解き、こっそり城内に入れて「おまえが城主になれるようにしてやる。」と偽り、城内に誘い入れて殺害した。風雲児の最後はまた哀だった。 時に天正9年(1581年)3月14日(一説は15日)42歳。平八郎の首級は昌幸が実検の後、この石の上に置いた。亡骸は町田町の小沢城址に葬り、沼田大明神として祀ったが首級は此処から亡骸を埋めたところまで飛んで行ったという。 ▲沼田城の堀と鐘楼 ▲沼田城石垣(遺構) ▲沼田城石垣(遺構) ▲沼田城石垣(遺構) ▲本丸御門跡 ▲沼田城本丸堀跡 〜現地解説板より 沼田城二ノ丸(野球場)から本丸(現在の花壇)の間に設けられた堀は、幕府に提出した絵図(正保城絵図)によると、本丸側に唯一石垣が積まれた沼田城で最も規模が大きな堀でした。絵図には堀幅12間(約24m)で本丸に入る櫓門付近の石垣高は3間(約6m)と記されています。奥に見える池がこの堀の名残で、右側の石垣は天守があった真田氏の頃の石垣の一部と考えられています。 平成9年に、この植え込みの中を発掘調査したところ、池の石垣に連なる石垣の一部と堀の中に崩された石や多くの瓦が出土しました。おそらく地中にはさらに北側数十mに渡り石垣の下部が現存し、城が破却された際に埋め立てられたおびただしい瓦や石が埋没していると考えられます。 出土した軒丸瓦は三巴紋で、その周囲を巡る珠点は16個を数え、信州の上田城出土瓦などとの類似性が認められています。 ▲二の丸 野球場が二の丸跡として保存されています。 (沼田城おわり) ●沼田城 〜現地解説板より
沼田城は、天文元年(1532)に三浦系沼田氏一二代万鬼斎顕泰が約3ヶ月の歳月を費やして築いた。当時蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。 築城して48年後の天正8年(1580)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正18年(1590)昌幸の長子信幸が沼田領二万七千石の領主となり、慶長年間に五層の天守閣を建造した。天和元年(1681)に真田氏五代城主伊賀守が徳川幕府に領地を没収され、翌2年1月に沼田城は幕府の命により破壊された。その後、本多氏が旧沼田領一七七ヶ村のうち四六ヶ村・飛地領合わせ四万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。次いで、黒田氏二代、土岐氏一二代の居館となったが、明治になって版籍奉還し屋形も取り壊された。時を経て本丸・二の丸跡が、現在の沼田公園に変貌した。 ●沼田城の歴史 〜現地解説板より 天文元年(1532年)沼田氏12代の沼田顕泰が築城し柳町の幕岩城から移る。 【上杉氏支配】 永禄9年(1566年)顕泰は子の朝憲に城主を譲り、側室とその子平八郎を連れて川場村天神城へ隠居したが、平八郎を城主にしたいため、同12年正月、朝憲を呼びよせて殺した。顕泰・平八郎は沼田勢に追われて会津へ逃走。上杉謙信が柴田右衛門尉を城代にした。 【北条氏〜真田氏支配】 天正6年(1578年)謙信死去。代って小田原の北条氏政・氏直父子が支配。天正8年(1580年)6月、真田昌幸が入城。翌9年3月、平八郎は沼田城奪還のために来攻したが、昌幸の策に乗った金子美濃守に城内で謀殺され、沼田氏滅亡。 【滝川氏城代】 天正10年、織田信長は滝川儀太夫を城代にしたが、6月信長が本能寺で討たれ、滝川は去り、真田の一族矢沢頼綱城代となる。 【真田氏城主】 天正17年(1589年)真田氏北条氏と和し、北条氏の有となったが翌年北条氏が、真田氏の所領名胡桃城を掠奪したため豊臣秀吉は怒って小田原の北条氏を撃滅し、沼田を真田昌幸に与え、昌幸の長子信幸が初代沼田城主となる。元和2年、子の信吉。寛永12年、信吉の長子熊之助。同16年、信吉の弟信政を経て明暦3年(1657年)信吉の庶子伊賀守信直五代城主となる。 【沼田真田氏滅亡】 天和元年(1681年)11月、幕府は悪政を理由に伊賀守を追放、3万石の領地を没収、五層の威容を誇った沼田城は破却された。 【代官時代】 以来5人の代官が在任。 【本多氏】 元禄16年(1703年)本田正永が城を再建、2代正武、3代正矩が城主。 【土岐氏〜明治】 寛保元年(1742年)土岐丹後守頼稔(寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中を歴任)が駿河国田中から移封されて沼田城主となり、以来12代土岐隼人正頼知が、明治2年(1869年)藩籍を奉還するまで、127年間城主であった。 |
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興味津々で読ませていただきました。子供の頃、天狗堂は格子からよく覗いたので、出会えてうれしかったです。フェイスブックの「ディスカバーぬまた」に写真とこのページを紹介させていただいてよろしいでしょうか?
2013/3/28(木) 午後 0:28 [ 楽天亭 ]
今日は記事にひかれて沼田公園にスケッチにでかけてきました。天狗さんの写真、私のページでも紹介させて下さいませ。
2013/3/29(金) 午前 0:01 [ 楽天亭 ]
楽天亭さま、お返事遅くなりまして失礼しました。
天狗面の写真とこのページ、よろしければご自由にお使いください。
天狗面の写真はフレームに全体が入らなかったのでちょっと失敗感があるのですが、お役に立てたら幸いです。
ちなみに私、伊勢崎出身です。
子供の頃、親に連れられて沼田のテングランドに行ったのをおぼろげながら記憶しています。
国道沿いの斜面にヌーッと現れる天狗面、今はもう無いんですね。
何とかあの天狗面だけでも復帰してくれると群馬県民としては嬉しいですよね。
2013/3/30(土) 午後 9:52