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昨年(2011年)9月に行ってきた駿府城です。 駿府城は日本100名城のひとつ、徳川家康公ゆかりの地です。 データ容量の都合で4回に分けて書きます。 その1では、二ノ丸東御門の前からスタート。 中に入らずに、まずは中堀の周囲をひと回りしてから入城します。 ▲東御門遠景 ここでしばしほれぼれ ▲巽櫓と中堀 ▲復旧工事完了のお知らせ 平成21年8月11日に駿河湾で発生した地震で南側の石垣は崩落しました。 ▲復旧された石垣 写真のように復旧しています。 ▲二ノ丸橋と中堀 現在の駿府公園入口にあたります。 ▲二ノ丸御門の図 ▲駿府城二の丸御門跡 〜現地解説板より 二ノ丸へ入る正面出入口で、二ノ丸大手門とも呼ばれてました。 二ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣で囲まれた枡形門を経て渡櫓門から二ノ丸門へ入る構造になっていました。 門は昭和32年に埋められ、約70m東側に新たに出入口が設けられました。(現在の駿府公園入口) ▲駿府古絵図 ▲西門橋 ▲中堀の様子(南西あたり) ▲中堀の様子(北西あたり) ▲北門橋 ▲東御門 〜現地解説板より 東御門は、駿府城二の丸の東に位置する主要な出入口でした。 この門は、二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南・西の多聞櫓で構成される枡形門です。東御門の前が安藤帯刀の屋敷だったことから「帯刀前御門」また、台所奉行の松下浄慶にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用されました。 東御門は、寛永12(1635)年に天守閣、御殿、巽櫓などと共に焼失し、同15(1638)年に再建されました。 復元工事は、この寛永年間の再建時の姿を目指し、復元したものです。 ▲東御門橋と高麗門 ▲東御門の櫓門 ▲東御門の狭間(さま) (その2に続く) ●駿府城 〜現地解説板より
今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われました。 徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。 また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。 ●駿府城 〜現地解説板より 駿府城は、外堀・中堀・内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城です。本丸を中心に回字形に本丸・二の丸・三の丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層内部七階)の天守閣がありましたが、寛永12(1635)年に焼失しています。 駿府城が城郭としてその姿を見せるのは、天正13(1585)年に徳川家康公が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べるとひと回り小さいと考えられますが詳細は不明です。 この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長12(1607)年将軍を退き、駿府城に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張・修築しました。 当時の駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていました。 |
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2012/12/3(月) 午前 0:59 [ poe2o228z44z42 ]