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(その1からの続き) ▲駿府城下町の図 ▲駿府城の縄張 〜現地解説板より 駿府城は、三重の堀を同心状にめぐらせ、堀に囲まれた区域を内側から「本丸」・「二ノ丸」・「三ノ丸」と呼ばれる「輪郭式」の縄張り構造となっています。本丸には家康の御殿と天守を、また二ノ丸には近親者の御殿などを置き、三ノ丸には重臣の屋敷を配置した構造となっています。 ※図は、家康没後の寛永年間後半(1640年頃)の城の様子を描いたと考えられる絵図です。 ▲駿府城天守の構造 〜現地解説板より 駿府城の天守は、5層7階で、平面規模は10間×12間(約20m×25m)で、屋根には銅瓦や白鑞(しろめ)瓦等の金属瓦も使われていたようです。また、天守台は、大きさが、約46m×56mであり、大日本報徳社蔵の駿州府中城図等の記載により天守台の上にそのまま天守を建てたのでなく、中央に独立させた天守丸構造であったと考えられます。 ▲駿府城鳥瞰模型 ▲二ノ丸水路 〜現地解説板より この水路は、本丸と二ノ丸をつなぐ水路で本丸堀からの水を外へ流す目的で築かれています。幅は約4.5m、江戸時代の深さは約4m、長さは約95mあり、4回折れ曲がっています。本丸堀との接続部分は約2mの段差を設けて本丸堀の水位を保つようになっています。また、水路両側は石垣で底の部分にも本丸側約50mにわたり石が敷かれており、底が洗い流されない非常にめずらしい構造になっています。石垣の下方は家康公築城当初の石垣と考えられ、家康公の威風を示す貴重な遺構です。 ▲紅葉山庭園 二ノ丸跡です。 ▲紅葉山庭園 ▲本丸跡 ▲駿府城北御門・馬場先御門跡 〜現地解説板より 北御門は、二ノ丸へ入る裏手(搦手)側の門で、絵図の中には「不明(あかず)」の門と記されるものがあることから、防御上からも普段はあまり使われなかったものと思われます。 北御門は門を入ると石垣による枡形風の空間を通り、二ノ丸内部へと至ります。二ノ丸へ入るとすぐ西側には石垣造りの食い違い土手構造による馬場先御門があります。この方面には本丸天守へ至る御天守台下御門があるため、特に厳重な造りになっていたものと思われます。 北御門と馬場先御門とをまとめて一つの門構造とする考え方もあります。 ▲北御門の図 ▲駿府城郭全図 ▲二ノ丸土塁(北側) ▲清水御門付近の様子 (その3に続く) ●駿府城 〜現地解説板より
今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われました。 徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。 また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。 ●駿府城 〜現地解説板より 駿府城は、外堀・中堀・内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城です。本丸を中心に回字形に本丸・二の丸・三の丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層内部七階)の天守閣がありましたが、寛永12(1635)年に焼失しています。 駿府城が城郭としてその姿を見せるのは、天正13(1585)年に徳川家康公が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べるとひと回り小さいと考えられますが詳細は不明です。 この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長12(1607)年将軍を退き、駿府城に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張・修築しました。 当時の駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていました。 |
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