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(その2からの続き) ▲清水御門付近 ▲駿府城清水御門跡 〜現地解説板より 二ノ丸へ入る西側の出入口です。 二ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣で囲まれた枡形内を経て渡櫓門から二ノ丸へ入る構造になっていました。門の北側には西喰違御門があり、本丸搦手(裏手)側の御天守台下御門方向へは容易に進入できない仕組みになっていました。 ▲清水御門の図 ▲二ノ丸(南西) ▲駿府城跡発掘調査状況 ▲調査中の坤櫓跡 ▲調査中の二ノ丸御門付近 ▲石垣の刻印 〜現地解説板より 石垣に使われている石材には、「刻印」と呼ばれるさまざまな文字や記号が刻み込まれています。 この刻印の役割は、石垣の工事たずさわった大名の家紋を刻んだものや、石を積んだ職人のサインで、作業を担当した場所を表したとされています。ほかにも、石材の原産地を表していたり、奉行の名を記したといわれたりその役割は今も研究されています。 駿府公園(駿府城)で発見された刻印の数と種類は300以上あり150種類を数えることが出来るそうです。 ▲「切込み接ぎ」と「打込み接ぎ」の石垣モデル 〜現地解説板より 平成21年8月11日に発生した駿河湾を震源とする最大震度6弱の地震により、駿府公園(駿府城跡)の二ノ丸堀の石垣が崩落しました。 石垣の復旧の際に用いた積み方と、二ノ丸堀石垣に見られる積み方を、地震で崩れた石材の中で破損のために再利用できなかった石材で積み上げたものです。 ●打込み接ぎ〜石の角を叩いて割り、割り石(矢穴を開けて割る)を用いて石垣を築く方法です。石の隙間には間詰め石を詰めています。 ●切込み接ぎ〜切石(加工石)で石垣を築く方法です。 ▲二ノ丸橋 ▲中堀(南側) ▲東食違御門の図 ▲駿府城東喰違御門跡 〜現地解説板より 御玄関前御門に南面する二ノ丸の区域や、敵が容易に進入できないよう橋を挟んで東側と西側が石垣造りの土手で区画されていました。ここに残る土手は東側を区画する土手の一部で、北から延びる土手との間に門を設けていました。 (その4に続く) ●駿府城 〜現地解説板より
今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われました。 徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。 また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。 ●駿府城 〜現地解説板より 駿府城は、外堀・中堀・内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城です。本丸を中心に回字形に本丸・二の丸・三の丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層内部七階)の天守閣がありましたが、寛永12(1635)年に焼失しています。 駿府城が城郭としてその姿を見せるのは、天正13(1585)年に徳川家康公が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べるとひと回り小さいと考えられますが詳細は不明です。 この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長12(1607)年将軍を退き、駿府城に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張・修築しました。 当時の駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていました。 |
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