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震災以来、こちらの記事投稿は遠慮していました。 (こちらで書いていました→ http://blogs.yahoo.co.jp/komoda_amb2004 ) 犠牲者とご遺族のみなさまに謹んでお悔やみ申し上げます。 また被災されたみなさまに謹んでお見舞い申し上げます。 1日も早い復興を願ってやみません。 復興したら、被災地の城跡をゆっくりと旅しながら、 現地の観光収入に少しでも貢献していきたいと思っております。 さて、今回は栃木県佐野市の佐野城跡です。 2009年11月に行ってきました。 車で行きましたが、佐野駅にも直結しているので電車でも行きやすいですね。 完全に公園となっているので、周囲の遺構は残っていますが、本丸・二の丸・三の丸・北出丸にはいろんな物が設置されています。 公園内の電燈の柱に「本丸」とか「二の丸」とか書いてあるのが、何だか笑えました。 ▲佐野城の城郭図 ▲正面入り口 三の丸と二の丸の間あたりの写真。ここには空堀があったようで、埋めて駐車場を作ったようです。 ▲二の丸と本丸の間の空堀 ▲本丸 東側の脇には虎口跡が発掘された場所がありますが、そこは埋めて模擬の石を並べてあります。 ▲佐野城本丸の石畳と石垣 〜現地看板より 平成4年度の発掘調査で、佐野城本丸から石畳の通路と石垣が発見された。 石畳は東西2.6m、南北5.6mほどの範囲で確認され、東部には水路と思われる幅20cm、深さ20cmの溝がある。 石垣は、最も良く残っている部分で、長さ6.4m、高さ1.4mで、いずれも細長い角礫を使用している。 この東斜面には井戸跡もあり、石畳と石垣は、ここへの通路の一部であった可能性が高い。 出土した石畳と石垣は、形状を損なうおそれがあり、保存のために埋め戻しを行っている。 現在、埋め戻した石畳と通路に沿って、この付近から出土した石を並べている。 ▲北出丸 〜現地看板より この場所は「北出丸」あるいは「鐘の丸」といわれ、本丸の北側を守る場所である。江戸時代の記録には、東西約36m、南北約54m、本丸との間の堀幅約14mと記されているが、建造物等の詳細については不明であった。平成元年に一部発掘調査が行われ、テラスが建設された場所には岩盤をくり抜いた柱穴と思われる遺構が発見され、多量の瓦も出土し、「隅やぐら」(見張台)の跡とも考えられる。また、西側の階段周辺には、「搦手」(城の裏口)があったと考えられ、防御の点からも複雑な地形を構成しており、重要な場所であったことが確認された。 ▲犬走 〜現地看板より 手前の道路はかつて内堀があった場所で、この内堀に沿った丘陵に幅1〜2m程の帯状の平坦部が造られていた。さらに、この5〜6m上にも同様な遺構が存在していると想定され、通路のような形態から犬走と呼ばれている。犬走の役割としては通路以外に、内堀からはい上がって城へ侵入する者を犬走上から槍等により攻撃することや、犬走に上がられても、その上の犬走から攻撃するという。防御施設としての堀の機能を強化する点もあげられる。同様な遺構は大阪城等にも見ることができる。この犬走は、昭和63年度の急傾斜地崩壊対策事業に伴う発掘調査により確認されたものであり貴重な佐野城の遺構であるため、その一部を保存整備したものである。 ▲三の丸 佐野駅北口から直結したところが三の丸です。 ▲? 犬走を走って追ってきた猫…。狭間から覗き込む足軽のようです。 ●佐野城 〜現地案内看板より
佐野城は、別名“春日岡城”とも言われ、その地名は、延暦元年(782)藤原藤成がこの丘に春日明神を祭ったことに由来すると伝えられています。慶長7年(1602)、唐沢山城主佐野信吉は、当時この地にあった惣宗寺(佐野厄除大師)を移転させるとともに、築城と町割を開始しました。 今日見られる佐野の街は、当時の佐野城を中心とした町づくりがその原形となっています。佐野氏は、慶長12年(1607)唐沢山城を廃してこの地に移りましたが、同19年(1614)所領を没収されて改易となり、築城後間もなく城は廃城となってしまいました。 城は、独立丘陵を利用した連郭式の平山城で、南から三の丸・二の丸・本丸・北出丸と直線的に続く郭で築かれています。これら縄張りの主郭部は、全体で東西110m・南北390mの規模を有し、それぞれの間は空堀で区切られ、内堀へと続いていました。現在、内堀から外堀の範囲は市街化が進み、完全に埋め立てられていますが、主郭部は当時の城割の姿を良好に留めており、貴重な歴史文化遺産として後世に伝えるべく史跡・名勝に指定されています。 |
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こちらにも逆TBしておきます。
2011/9/22(木) 午前 0:01