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江戸時代、日光社参の際に将軍家が宿泊に使用した宇都宮城です。 徳川家康の家臣、本多正純の「釣天井伝説」が残される城跡でもあります。 遺構はほとんどありませんが、本丸の一部が復元されました。 ▲宇都宮城跡の碑 清明館の脇にあります。 ▲宇都宮城本丸の古絵図 資料館にて撮影 資料館のおじちゃんが許可してくれました。丁寧な説明、ありがとうございました。 ▲宇都宮城本丸の模型 資料館にて撮影 赤いラインの左側が復元された場所です。 ▲北側の堀と土塁 復元された宇都宮城本丸の堀は、17世紀前半に掘られたものと考えられています。 古い文献には幅12間(21.8メートル)と記されています。 発掘調査で、堀は最大で幅27メートル、深さは最大7メートルあったことが確認されています。(現地看板より) ▲清水門跡 宇都宮城本丸正面の出入口が清水門です。 日光社参の時には、将軍もこの門を通って本丸の御成御殿に向かったのです。 清水門の位置・規模は、絵図などに基づいて地面にその位置・規模を示しています。(現地看板より) ▲清明館から眺める清明櫓 ▲清明館から眺める富士見櫓 ▲清明館脇のヤナギ 見事なヤナギでした。樹齢など全く不明のようです。 ▲伊賀門跡 宇都宮城本丸南側の出入口が伊賀門です。清水門とほぼ同じ規模・構造になっていました。 伊賀門の位置・規模は、絵図などに基づいて地面にその位置・規模を表示しています。(現地看板より) ▲土橋の石垣跡 これは、三の丸と二の丸をつなぐ土橋の石垣を復元したものです。発掘調査では、土塁が崩れないように大小の石を組んだ石垣が出土しました。 本物の石垣は地下に保存しています。(現地看板より) ▲富士見櫓 宇都宮城本丸の土塁南西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺きで描かれており、広さ三間(5.9メートル)×四間(7.9メートル)と記録されています。 富士見櫓の名のとおり、まわりに高い建物がなかった江戸時代には、遠く富士山の姿が望めたと考えられます。(現地看板より) ▲清明台 宇都宮本丸の土塁北西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建ての瓦葺きで描かれており、広さ三間(5.9メートル)×三間半(6.9メートル)と記録されています。清明台のあった部分の土塁は、ほかの部分よりも高く、天守閣の役割を果たしていたのではないかといわれています。広さ三間(5.9メートル)×四間(7.9メートル)と記録されています。広さ三間(5.9メートル)×四間(7.9メートル)と記録されています。(現地看板より) ▲清明台から眺める本丸 ▲二の丸土塁・堀跡 ここは、近世宇都宮城の二の丸の堀と土塁があった場所です。 二の丸は城主の御殿があった場所で、ここで日常生活や政務が行われていました。 この地点の発掘調査で、少しずつ土を積んではたたきしめ、強固な土塁を築いた様子がよくわかりました。堀の幅ははっきりしていませんが、深さは6mほどでした。(現地看板より) ▲南駐車場付近からの眺め ▲城下町宇都宮 宇都宮に城がつくられたのは、平安時代の終わりごろといわれています。しかし、周囲に水をたたえた堀や石垣・土塁を廻らした本格的な城になったのは、江戸時代に入ってからです。特に、計画的に城と周囲の町を整備したのは、1619年(元和5)城主になった本多正純であり、南北900m、東西850mに及ぶ巨大な城郭になりました。 これが、市街地のもとになっています。(資料館看板より) ●宇都宮城〜現地解説板より
ここは、近世宇都宮城の本丸があったところです。 宇都宮城址公園は、歴史資料や発掘調査結果に基づいた本丸の一部復元、中心市街地の活性化の拠点づくり、防災の拠点づくりを3つの柱として整備したもので、復元した土塁や堀、櫓、土塀は、江戸時代中期の姿を現代によみがえらせたものです。 宇都宮城のはじまりは、平安時代の後期に築かれた館だといわれています。中世には宇都宮氏が500年にわたって城主をつとめ、戦乱の世を乗り切っていきます。江戸時代には譜代大名の居城として威容を誇りました。また、釣天井伝説の舞台、関東七名城の一つとしても有名です。 この城址公園は、宇都宮の新しいシンボルであり、次代を担う子どもたちに宇都宮の歴史を伝えるとともに、市民や多くの来訪者の憩いの場です。 |
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木枯し紋次郎さん
またものTBありがとうございます、逆TBしておきます。
芝は青かったですが、いかんせん猛暑日でしたので。。
こちらは季節がら侘びを感じます。
2011/8/29(月) 午前 0:39