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(その1からの続き) ▲二の丸の南西隅の土塁 ▲本丸石垣と水堀 ▲水堀と太鼓門 ▲東不明門と東不明門前橋 〜現地解説板より 本丸東側には「東不明門」と呼ばれる櫓門がありました。当時の門礎石は保護のために地表下30cmに埋設し、レプリカの門礎石で門のあった位置を示しています。通常この門は閉じられており、太鼓門前橋などが崩落し利用できなくなった時などに通用門として門が開かれたようです。 また、内堀からは折れた東不明門前橋のものと思われる橋脚が見つかりました。 ※この橋は管理用として復元したもので、復元ではありません。 ▲二の丸石場門 〜現地解説板より 二の丸の東には石場門がありました。実物の石場門礎石は地中に保護していますが、門の位置をレプリカの礎石で示しています。土塁の裾部分に立ち並ぶ平石は土塁の土留めや水切りのためのものと思われます。 ▲外堀 〜現地解説板より かつてここには水堀が広がっていました。堀脇には、堀に堆積した土に含まれていた花粉の化石や種をもとに、江戸時代に城内にあったウメ・カキ・クルミなど実のなる樹木を植えています。 ▲二の丸御殿跡 〜現地解説板より 土塁で囲まれた二の丸東側には、二の丸御殿と呼ばれる建物がありました。二の丸御殿には藩主の兄弟などが住んでいたと言われています。御殿は、寛永2(1625)年と享保2(1717)年の火災により建て直されています。発掘調査では御殿の礎石や庭園の池と思われる痕跡を確認しています。江戸時代末には御殿は無くなり、7棟の土蔵が立ち並んでいました。 ▲土塁 〜現地解説板より 主要部である本丸以外の曲輪は、基本的に堀と土塁によって囲まれていました。しかし、史跡指定を受けた頃には、北西側土塁の一部を残すのみで、そのほとんどは削平されていました。 江戸時代後半に行われた千曲川の改修により、川と城の間には百間堀・新堀が造られ、それらの堀際には「不崩の土手」と呼ばれる土塁が築かれました。また幕末の絵図には土塁の中にトンネル状の「埋門」が描かれています。 ▲松代城遠景(北西側からの眺め) とても小さな臨時っぽい観光案内所が二の丸西側に設置されていました。 ここに名城スタンプやパンフが置かれています。 二の丸西側は工事中だったので、整備が終わったらまた見に行きたいです。 (松代城おわり) ●史跡松代城 〜現地解説板より
松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との『川中島の合戦』の際に、武田方の前進基地として築かれた海津城がその始まりといわれており、永禄3(1560)年頃に普請が完了したものと伝えられています。慶長3(1600)年関ヶ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃、二の丸・三の丸を整備し、土塁を石垣に築きなおしたものと考えられています。元和8(1622)年に真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城までの約250年間、松代藩真田家10万石の居城となりました。 松代城は、北西側を流れる千曲川を自然の要害として造られた平城で、最奥部に本丸、南側の城下に向けて二の丸・三の丸・花の丸などの曲輪を構えていました。 明治5(1872)年の廃城以降、建物は無くなったものの、昭和56(1981)年に本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されています。 ●松代城(海津城)跡 〜現地解説板より 松代城は、江戸時代には松代藩主・真田家の居城でした。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城です。 海津城の築城年代は不明ですが、海津城の名が文献に確認できるのが永禄3年(1560)ですので、このころにはすでに築城されていたことがわかります。 戦国時代から江戸時代初頭までこの地を支配した武田信玄や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上での軍事的・政治的に重要な拠点となってました。 元和8年(1622)に真田信之が松代に移ると、松代城本丸に御殿を建築し、松代藩政の拠点としました。 その後、江戸時代の半ばには、御殿が城の南西に位置する花の丸に移ることになり、本丸は機能を持たなくなりました。 にほんブログ村 城・宮殿 ←城ブログのランキングです! にほんブログ村 戦国時代 ←戦国ブログのランキングです!
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